[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践19 (1002レス)
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306(1): 2021/03/18(木)14:32 ID:2/NjBbOv(1) AAS
上座部にとっての仏陀の教えの解釈は対象を滅することではなく対象から離れることで対象から離れ無関係になっているがゆえに自分にとって滅せられているということ
セックスしてようがなぐり合っていようが関係ないし、そもそもセックスやなぐり合うこととそうでないことを分ける分別心の自我が生じてるほうがおかしい
あらゆることが無常でただ生じ滅するのにそれらに違いを感じどうこうしようとするのがすでに分別であり執着なのである
あらゆることが無常であるのに何かと何かを分けて優劣をつけていることがおかしいことぐらい冷静に熟考すれば頭の考えのレベルでも分かるし、
行為や生じる対象を自分の見方でどうこうしようとせず、ただ生じるままに一日中観察を行って行けば、あらゆることが無常であり、そもそも自分はそれに関わってなかったと分かってくる
セックスやなぐり合いに関わっているのは自分の心と身体であり、心と身体が自分でないと分かれば、セックスやなぐり合いを行っていても自分が行っているのではない
心と身体が行っているだけだし、もっと言えばそのような行為や心と身体が実体としてあるのではなく、状態が生じ滅しを連続させているだけである
一日中観察を行っていけばそれが分かってくる
もちろん、それにより執着がなくなっていくので実際はセックスの欲も暴力を行うこともなくなっていく
ただそれらがなくなっていくのは結果であり、目的ではない
省3
307: 2021/03/18(木)20:41 ID:u9BA60tC(1) AAS
在家の戒は守ってるの?
308: 桃太郎 2021/03/20(土)10:20 ID:bGV4iKHh(1/2) AAS
>>306
内容が支離滅裂過ぎて、イミフ(笑
最後はこんなふうになるから、スマ爺のテラワダはやめとけと言ってるんです。
哀れでならぬ。
>在家の戒は守ってるの?
戒律も人が作った分別なんだから、守る意味も無いと言うことでしょうね。
テラワダ信者も首をかしげるヘンテコな論理でしょうね。(苦笑
309(1): 2021/03/20(土)10:52 ID:fd7WwRWc(1) AAS
戒は守るのがもちろんいいけど守ろうとして守るもんではなく本来自然と守られるていくもんでしょう
元々戒は仏陀が自発的に決めたものではなくサンガの発展や弟子の要望でできていったものだと言われてるし
預流果だとみなされているけど戒を守らず酒を飲んでる弟子がいて、他の弟子からあの酒を飲んでる弟子は本当に預流果なのですかと仏陀が聞かれて、
あの者は戒を守ってないけどちゃんと預流の果が出てるでしょと仏陀が答えるという逸話があったと思うけど
そういうことも含めて守れと言われてるから戒を守るのではなく果たして戒が何なのか戒を守るということはどういうことなのか自分で考えてみてもいいかもしれないですね
他人や誰かが戒を守っているかどうかやそれがどういう意味かではなく、自分にとって戒や何かを守るということが何なのかどういう意味かが問題だと思いますよ
310: 2021/03/20(土)13:00 ID:cGtbYRai(1) AAS
セネガルの新興宗教を学ぼう Project Majalis(majalis.org)
外部リンク:aziz-mbacke-majalis.netlify.app
311: 桃太郎 2021/03/20(土)13:07 ID:bGV4iKHh(2/2) AAS
>>309
>戒は守るのがもちろんいいけど守ろうとして守るもんではなく本来自然と守られるていくもんでしょう。
そんないい加減な戒律なんて、そもそも「戒律」とは言えないでしょう。(苦笑
初期の仏教徒の戒律が相当厳格なものであったのは周知の事実です。
テラワダの戒律なんて、そんな程度のものなんですね。
教えも適当、同じテラワダ信者でありながら個々人の主張や解釈もバラバラ、もはや「自分教」といった方が分かりやすい。
根拠となる仏説も提示出来ず、仏典に一切基づかない、凡夫の浅い知恵で、自分の思ういい加減な解釈が釈尊の本意とかけ離れた「仏教混乱」の因となるのです。
312: 2021/03/21(日)07:51 ID:YKJQMnZM(1) AAS
有身見離れるのさえできない
あーだこーだととらわれが多いのは自覚する
ネットで、瞑想について調べたり(←はっきり無駄と言うか有害ですわ)
でも結局昨日、大念住経と入出息念経読んで
そうそう、ブッダの言うやりかたで順番にやっていこう。ネットの有象無象の自称悟った連中(ネットは坐禅で悟った言うやつが多い)の言葉や解説じゃなく
って落ち着いた
坐禅で悟ったと公言するのの多くと、麻原もそうだとは思うけど
瞑想で何かあったのは事実だろう
有身見を離れるか、その手前の何かをして「わたくしは悟った。禅の奥義を極めた。実相がわかった」ってなった思う
313(1): 2021/03/23(火)20:59 ID:qBzZQigw(1/2) AAS
煩悩即菩提、生死即涅槃なんだが
煩悩があるままで煩悩が障りとならない状態をさすというような意見があるんだが
どう思う?
テーラワーダでは阿羅漢になれば業がなくなる
だから輪廻することがなくなると説くが
行動したり思ったりするのに業がなくなるというのはどうも理解できない
悟っても因果の中で生活している現実はかわらないのだから。
業というのはそもそも抽象的な概念なのだろうか?
また食欲や睡眠欲はあるはず。愚痴や無明は根本的になくなるが
生存本能のような欲は悟っても相変わらず存在するものだろう
省3
314: 2021/03/23(火)21:09 ID:qBzZQigw(2/2) AAS
また大乗で善根(善行)をつんでいけば悟ることができる
というのも理解できない
善行というのは善業なわけで善なる結果は生み出すことが
できるが、それによって輪廻から脱するという理屈が分らない
もちろん涅槃は善果なわけで、それを実現するための方法論は
善因になるし、善因となるものは業感縁起説にのっとれば
善業になるわけだが、善業によって業そのものをなくすというのは
矛盾があるように思う。
難しく考えずとも涅槃には智慧が必要で智慧には定という
止観の禅定が必要と考えればいいのだと思うが
省2
315: 2021/03/23(火)23:06 ID:Dyzb667a(1) AAS
>煩悩があるままで煩悩が障りとならない状態をさす
そう、その通り
というかこれが煩悩、これが煩悩でないと分けるのこそ煩悩
その判断基準がどこにあり、一体その判断を誰が行っているのか?
正確には自分の心身に不自然な煩悩はなくなるが自然な煩悩というか反応は残る
心身が物理的にあるので物理的な反応が生じるのは当然
しかし心身は自分でないと分かれば心身の煩悩(反応)がどのように生じようともそれは自分の煩悩(反応)とはならない
もちろんそれが分かるときには煩悩はいわゆる煩悩ではないですし、それが分かるようになるために日々煩悩に巻き込まれないようにしていくのは大切な基本修行だと思います
釈迦が弟子が死んだときに何故泣いたのか、解脱しているなら泣くことはないのではないかという古来からの議論を踏まえ
心身に反応が生じるとはどういうことか、そもそも心身とは何であるのかを探求すれば、やがて答えが導かれてくると思います
316: 2021/03/24(水)09:59 ID:WV7NscYs(1) AAS
坐禅してる人の言ってることに聞こえる
317(1): 2021/03/24(水)22:47 ID:ISRZhPo7(1) AAS
>>313
阿羅漢の目連は外教の者に打ち殺されましたが
後にある比丘が釈迦にこの件について「聖者目連は何の業があって外道にその身を粉砕せられたのか」と問うと、
釈迦は「目連はかつて過去世に、バラモンの子となり婦人を婬溺して母に孝行をしなかった。ある日、母に怒り悪語を発す、曰く如何ぞ勇力の人を得てかの身形を打たんと。この悪語によって五百生の中に於いてまさに打砕せられ、今日聖道を修して神通第一になったが、なおもこの報いを受けたのだ」と説明した(毘奈耶雑事18)。
また他の説では、彼は過去世において弊魔だった時に、しばしば拘楼孫仏の上首の弟子であった毘楼尊者を弄び、小児に変化して大杖で彼の頭を撃ち血を流させたことで地獄に堕した。
その宿業によって現世では釈迦仏の上首となり外道によって撲殺された(魔嬈乱経)。
318(1): 2021/03/25(木)00:10 ID:WsViHsR/(1) AAS
仏教の輪廻については、言ってる人バラバラで何を信じていいか良く分からんよ。
頓悟系の人だと、輪廻は昔の方便で、死んだらそれで終わりと言ってる人もいるみたい。
観察瞑想すると、心がすごい速さで回転しているのは分かるけど、肉体が死んだら心も
一緒に無くなるのか、良く分からない。
子供を作って、子孫残してって言うのが輪廻転生ならまだ分かるけど、オウムなんかでも
特殊な瞑想すると自分の過去生が見えてくるとか言うし、これまた、違うっぽい。
心のエネルギーはすごいから肉体が死んでも止まらないっていうのがテラワダの見解なのかな?
一時期、サイキックな能力が使えたことあるから、唯物論者じゃないんですけどね。
319(1): 2021/03/25(木)00:37 ID:zaI+3byt(1/3) AAS
修行僧たちよ、
サーリプッタ、モッガラーナが亡くなってから、
この集(つど)いも淋しくなってしまった。
かつてサーリプッタ、モッガラーナのありしことを憶(おも)うと、
わたしにはこの集いはむなしい。
しかし、この世で形あるもの、有為(うい)なるもので
滅びないものがあるであろうか。
故に修行僧たちよ、
自らを島とし、自らをよりどころとして、
他人をよりどころとせず、法を島として、
省3
320: 2021/03/25(木)07:28 ID:U7rr+vtC(1) AAS
人が生まれた時には、実に口の中に斧が生じている
人は悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである
321: 桃太郎 2021/03/25(木)16:34 ID:LggU5cVt(1) AAS
>>319
私が >>258 に書いた事だね。
>自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、
>法を島として、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
ここは大事なところだよ。
最初に「自らを島とし」とあり、次に同じように「法を島として」とある。
つまり「自ら」と「法」は同じ意味になるので、ここで言う「自ら」とは「煩悩にまみれた愚かな自身の事」を言うのでは無いことは言うまでも無い。
ましてやネットで遊んでいるようなのナンチャッテ覚者でも無い。
要するに、釈尊の本意は「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」という事になる。
まぁ、釈迦十大弟子の阿羅漢である「阿難」ぐらいの境涯になれば「自らを島」と出来るでしょうね。(笑
省2
322: 2021/03/25(木)19:06 ID:zZTs2Rfm(1) AAS
他人をよりどころとせず他人のあれこれをいちいち気にしなくてよろしい
323: 2021/03/25(木)22:44 ID:zaI+3byt(2/3) AAS
「比丘たちよ、みずからを洲 すとし、みずからを依所 えしょとして、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい。
比丘たちよ、みずからを洲とし、みずからを依所として、他を依所とせず、法を洲とし、法を依所として、他を依所とせずして住し、事の根本にまで立ちもどって観察するがよい、<嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、いったい何によって生じ、何によって起こるのであるか>と。
比丘たちよ、では、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって起こるのであろうか。
比丘たちよ、ここに、いまだ教えを聞かざる凡夫があるとするがよい。彼らは、いまだ、聖者にまみえず、聖者の法を知らず、聖者の法を行ぜず、だから、彼らは、色(肉体)は我である、我は色を有す、わがうちに色がある、あるいは、色のなかに我があると考える。だがしかし、色は移ろい変わる。色が移ろい変わるから、彼らに嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
だから、彼らは、受(感覚)は我である。われは受を有す、わがうちに受がある、あるいは、受のなかに我があると考える。だがしかし、受は移ろい変わる。受が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
彼らは、想(表象)は我である、・・・
彼らは、行(意志)は我である、・・・
彼らは、識(意識)は我である、我は識を有す、わがうちに識がある、あるいは、識になかに我があると考える。だがしかし、識は移ろい変わる。識が移ろい変わるから、彼らに、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みが生ずるのである。
しかるに、比丘たちよ、いま、色において、その無常なること、変易することを知り、貪りを離れ、滅尽すべきものなることを知り、さきの色もいまの色も、すべては無常・苦にして移ろい変わるものなることを、あるがままに正しき智慧をもって観るならば、その時、嘆き・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは消滅するであろう。
それらが消滅するがゆえに心の動揺はなくなる。心の動揺がなくなるがゆえに安楽に住する。そして、安楽に住する比丘は、まさしく涅槃にいたれる者と称せられる。
省6
324: 2021/03/25(木)22:48 ID:zaI+3byt(3/3) AAS
「阿難よ、私は以前このように説いたではないか。
『愛すべきもの、諸々の喜ばしい事柄は、すべて別れ離れる定めのものである』と。
故に(私の死が間もないからといって)嘆き悲しむ事なかれ。阿難よ、まさに知るべきである。如来もまた久しからず、まさに滅び往くべきものであると。
故に阿難よ、まさに自らを洲[しま]とし、自らを拠り所とするべきである。まさに法を洲とし、法を拠り所とするべきである。他を洲とせず、他を拠り所とせずにあれ」
阿難は仏陀に申し上げた。
「世尊よ、どのようなことを『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』ということでしょうか」
仏陀は阿難に告げられた。
「もし比丘が身についての身観念処を、勤め励んで行い、正しく知り〈正智〉、正しく気をつけた〈正念〉ならば、この世の貪欲と憂いとを制する。
そのように、外身と内身と、また受・心・法と法観念処についてもまた、同様に説く。
阿難よ、これを名づけて『自らを洲とし自らを拠り所として、法を洲とし法を拠り所として、他を洲とせず他を拠り所とせずにある』というのである」
省1
325: 桃太郎 2021/03/26(金)09:12 ID:diYGJ3y5(1/4) AAS
「法を体現した自身を島とし拠り所とせよ。」
ゆえに「法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る」となるわけだよ。
問題は「正しき智慧」とはなんぞや?という事でしょ。
それこそが、末法の御本仏であられる日蓮大聖人の「南無妙法蓮華経」に他ならない。
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