[過去ログ]
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践20 (1002レス)
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践20 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/
上
下
前
次
1-
新
通常表示
512バイト分割
レス栞
このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています。
次スレ検索
歴削→次スレ
栞削→次スレ
過去ログメニュー
635: 桃太郎 [] 2023/01/30(月) 09:10:15.34 ID:+fCFtbpq >>634 >あなたのおっしゃる客観的な確からしさというのは仏教とは関係ありません。 違います。客観的な現証が無ければ、結局「主観」という事になります。 つまり、「主観」であれば、なんとでも言えます。 「神の啓示を聞いた」、「阿弥陀仏を感じた」、「犬神のお告げを聞いた」、「●●を感じた」等々。 本人がそう言い張れば肯定も否定もできません。 あらゆる宗派の人は「自分の宗教こそ正しい」と思っているのですから、客観的な現証のない「主観」で主張される以上は何も言えないのです。 初期の仏教ですら部派仏教のように様々な解釈と主張がなされ分裂して行ったのです。 「悟った」と言えば「ああそうですか」と言う以外にないし、それは、それで本人の自由です。 結局、何が正しいかという基準が曖昧で、「自分が正しいと思うから正しい」という以外にないのです。 しかし、そこに重大な落とし穴があります。 この世界には無数の宗教、分派が存在します。 教えや、解釈、主張もそれぞれです。 しかし、真実は必ず一つなのです。ゆえに客観的な現証というのもが大事なのです。 つまり、宗教も科学的に実証されてこそ本物と言えるのです。 そうでなければ「自分が正しいと思うから正しい」。結果、どの教えが正しいのか分からないという事になるのです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/635
636: 桃太郎 [] 2023/01/30(月) 10:03:58.23 ID:+fCFtbpq >学会員で真面目に活動しているのに突然無惨な死を迎える人がいたりするからです。 それは、創価学会員に限った事では無いでしょう。 真面目なテーラワーダ信者は事故に遭わない、突然死が無いと証明できますか? テーラワーダの聖地ミャンマーの実情をご存じですか? まずは釈尊の教えの原点に戻って考えるべきです。 仏典には、こう記されている。 「善くない人は恩を知らず、恩を感じない」 「善い人」は「恩を知り、恩を感じる人である」(中村元著「『恩』の思想」、仏教思想研究会編『仏教思想4』所収、平楽寺書店)。 不知恩の者は釈尊の教えに反している。それは仏法者のあるべき姿でもない。 親の恩を知り、師の恩を知り、国、社会の恩を知るものこそ、賢者である。 ゆえに仏法を学ぶ者は当然、「恩を知り、恩を感じる人である」 釈尊の一番の「悲願」は何だったのだろうか それは「生きとし生けるものよ、幸福になれ!」という願いです。釈尊は言っている。 「母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし」 (『ブッダのことば − スッタ二バータ』中村元訳、岩波文庫) 母が一人っ子を、命がけで守るように、あらゆる人を、あらゆる生命を幸福にしようと、命をかけて立ち上がれ!。 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(同) 「立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(同) テーラワーダはこの教えを理解しているのだろうか? 真実の仏教は自身の安穏のみならず、人々の幸福、社会の平和を実現してこそ本物と言える。 それでは釈迦自身どのような人生、生涯を歩んで来たのか。その事実を深く考察することによって、釈尊の仏としての本意を知ることが出来るのです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/636
637: 桃太郎 [] 2023/01/30(月) 12:02:01.69 ID:+fCFtbpq 私は「最初から生まれなきゃ、「輪廻」すらあり得ない事でしょう。」と書きました。 最初から生まれて来なけりゃ修行も不要、悟りも意味なし。 宇宙すらビッグバンも無く、何も無かったら、幸・不幸も無い しかしながら厳然と存在する「万物生成の宇宙という究極の法」 厳粛な宇宙の法(妙法)に「たまたま」「偶然」はありません。 人がこの世に生まれのも、因果の理法によって、ちゃんとした理由があるのです。 そう考えるのが自然です。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/637
638: 神も仏も名無しさん [sage] 2023/01/31(火) 22:58:20.55 ID:yZJxsRHj 生死とは苦しみであるというのが仏教の考え方ですよ 楽すら苦しみの一形態だととらえるのです。 無常ですから楽しみもいつかは終わるんです。 唯一無常でないのが涅槃です。 だから涅槃に入って次生では生まれないようにするのが仏教です。 釈迦牟尼世尊はもうどの世界にもいないんです。 だから仏舎利を供養するんですよ。 それ以外に仏陀とのつながりがないんですからね http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/638
639: 神も仏も名無しさん [] 2023/02/01(水) 16:15:56.32 ID:Jo30N0fA >>635 やはり客観にこだわりがおありなようです それでは客観とは誰にとってに客観なのでしょうか? 周囲からみて素晴らしい? 本人が向上や前進を実感している? まず本人の判断はあなたのいうようにあてになりません それは主観に他ならないからです これはあなたの理論を用いています それでは周囲の判断はどうでしょうか? これももちろんあてになりません いうまでもありませんが 我らが師であるお釈迦様などを考えればお分かりでしょう またハリウッドスターが麻薬や犯罪に手を染めたり 今世間を騒がせているセレブのような女性の心中は 現在どのようになっているでしょうか また正しい教えは一つだという根拠も弱すぎます それこそ貴方の主観ではありませんか? あなたの理論ならば試験的にでも 学会員で手分けして各宗教に人を派遣して ある年数を経た後にどれぐらいの違いが出るか 判別しなければなりません もう五時ハ教や教相判釈には頼れないのですよ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/639
640: 神も仏も名無しさん [] 2023/02/01(水) 16:47:17.53 ID:Jo30N0fA >>639 続き 言い忘れましたが もしあなたの思い浮かべている証拠というのが 心の中はどんなに苦しくてもびくびくしていても関係なく 財や病気の回復に現れるのが本物なのだという考えの場合は お詫びします 私の勝手な思い込みで宗教は心の問題を解決するのが 本目的というところがありますので もしそこが違っていたら最初から噛み合っていません それから何故生まれてくるなどの疑問がおありのようですが それこそ話が噛み合いそうな気がしません 何故なら どうして水は高いところから低く流れるんだ どうして風が吹くと落ち葉が落ちるんだ と聞かれているようで どう答えていいかわからないのです 少し譲歩して超自然やオカルトっぽく考えてみると 宇宙はとにかく動き続け変化し続けることが目的で もし不満もなく心地よく常に喜びで溢れていると 変化が無くなってしまうため 鞭で打たれて動かされるように 足掻きもんどり打って動くように設計されたと考えることも できるでしょう 逆に修業のために困難な世に生まれるのであり 目的は魂の進化や完成などと考えることもできるでしょう これらはどちらにしても信じる趣味の違いであり 好みの問題にすぎません 何故なら信じる以外の答えは絶対に得られないのですから http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/640
641: 桃太郎 [] 2023/02/01(水) 17:23:15.08 ID:LtRFhl6f >>639 >それでは客観とは誰にとってに客観なのでしょうか? 「客観的」の定義はネットで調べれば分かる事でしょう。 すなわち「誰が見てももっともだと納得できる考え方をする様子。 個人(主観)の考えより、普遍的な妥当性を求められるさま。」 簡単に言えば「普遍性」です。 人類は宇宙の法のごく一部を発見し、科学に応用し文明の発展に寄与してきました。 釈迦が「宇宙の法」を創造してのでは無く、地球が誕生する以前から「宇宙の法」は存在します。 しかも、その真理は必ず一つです。 万有引力の法則の方程式が「10」も「20」もあるわけは無いのです。 「1+1が2ではなく、3でも4でも良いじゃないか」では、ロケットは正確に飛べないんです。 よく、「仏教はすべて正しく、修行の仕方が違うだけで、ゴールは同じだ」とか、当たり障りのない論理を振りかざし、自身の信仰する教えを正当化する方々がいますが、とんでもない間違いなんです。 今一度、客観的な現証という事を論じるならば、自分の幸福、安穏ではなく、その教えによって不幸に泣く人々を幸福に導き、社会の安穏と平和に寄与できる哲学であるかどうかを見れば良い。 それを現実の上で実証できてこそ、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」という釈迦の教えに準じていると言えるのではないでしょうか。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/641
642: 神も仏も名無しさん [] 2023/02/04(土) 17:43:08.08 ID:RD7lIIhC >>641 客観的という言葉の定義は正に想像の産物だと お分かり頂けるでしょう 今のこの議論のように少なくとも一人は 異論を唱えた者がいるのですから 「誰が見てももっともだ」ではなく 「多くの人が」とか 「比べた時に賛同者の方が多い」など そのように表現しない限り 常に混乱と争いを生み出す元になるでしょう また現証については私も(呪術的)意味において 大いに賛同しますが 三証においてはもはや文証が崩れており 正当性を失っていると言わざるを得ません かつてのように三証を非常に重要視する立場であるならば 目に見える現証が現れたように見えたとて 何かの歯車のズレが生じ良くないことが起こっている 正しい方向へは進まない 更に正しい他の教えがあるかもしれない そのように考えるのが自然で真摯な態度だと私なら考えます そしてたとえ大宇宙の真理を理解した 目に見える手助けをしてくれたと感じても 宇宙が本当の意味で味方であるかはわからないのです もしかしたら宇宙や神のフリをした悪魔かもしれませんし 単なる自身の思い込みかもしれません 宇宙の勝手な我儘の犠牲になっているかもしれません またこれも確かめることは絶対にできないため 単なる個人の趣味 好みの話に過ぎないのです ちなみに仏典では修行者に修行を思い止まらせ 永遠に世俗で生きさせようと 誘惑する悪魔が度々登場するようです この悪魔の目的は人々にジェットコースターのような 人生を歩ませ来世をもう一度経験したい楽しみたい そう思わせることです 人によって宇宙の法則にも見えるし 神の意思にも思えるし 悪魔の仕業と考える人もいるでしょう 結局はどの物語りが好みかというだけのことなのです http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/642
643: 桃太郎 [] 2023/02/06(月) 12:20:41.53 ID:MsxsO+O6 >>642 「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」 >客観的という言葉の定義は正に想像の産物だと >お分かり頂けるでしょう 何を根拠に「想像の産物」と言われるのでしょうか? 私達が仏教を学ぶ際には「経典」という文字を読んで仏の心を知る以外にないのです。 >「比べた時に賛同者の方が多い」など .. その教えが正しいか正しく無いかは、「賛同者が多い、少ない」の問題では無いのです。 前述しましたように「普遍性」です。客観的に実証された「不変の真理」です。 仏教は主観的な思い込みでは無く、明確な因果の理法に基づく「宇宙根源の法」なのです。 >もしかしたら宇宙や神のフリをした悪魔かもしれませんし ... ちょっと意味不明です。 それを言い始めたら、もはや議論する意味も価値もありませんね。(苦笑 一切を疑い始めたたら、もはや「信仰」とは言えません。 >結局はどの物語りが好みかというだけのことなのです ゆえに、上記のような結論になるでしょうね。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/643
644: 桃太郎 [] 2023/02/06(月) 13:21:17.54 ID:MsxsO+O6 Wikipedia 抜粋 ★「法華経」 法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である。 当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。 これに対し、法華経は、小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。 ★「パーリ仏典」テラワダ教の根拠 「現在利用可能なパーリ語の写本はほとんどが18世紀から19世紀という、きわめて近年のものである。」 しかもこれらの写本がどのような過程をたどって現在に至ったかほとんど情報がないため、近代以前の足跡は写本自身から知りえない。 この点、漢訳の諸経典が古い時代―『道安録』を起点とするなら四世紀以降―より翻訳状況の記録とともに継承されていることに比すると、その歴史資料としての価値にはかなりの限界がある。 一般に理解されているように、パーリ語仏典が紀元前の古代スリランカから始まって東南アジア全体に伝播したと仮定しても、伝承の系譜が不明な近代写本のテクストを根拠とし、それより二千数百年も前の古代インドの、マガダ地方という途方もなく離れた過去の空間と時間の一点を特定することは不可能であろう。 インド亜大陸内部に発見されるパーリ語とみられる碑文もスリランカからの巡礼者に向けて立てられたものであり、インド亜大陸におけるパーリ語の流布を証拠づけるものと決定しえないことが指摘されている ***上記の事をスマ爺は理解しているのだろうか*** http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/644
645: 神も仏も名無しさん [sage] 2023/02/06(月) 15:08:43.26 ID:/2VPtHZP >法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である。 法華経のサンスクリット原本の写本が1世紀の地層から発見された わけじゃないよ 出土された原本は5世紀から6世紀までのものが限界だし 書写年代が確認されるものは10世紀から11世紀のネパール本だ ただ文献の解析で1世紀成立なんじゃないかと推定されてるだけだよ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/645
646: 神も仏も名無しさん [sage] 2023/02/06(月) 15:22:37.84 ID:/2VPtHZP パーリ語 古代インドの雅語、教養語であったサンスクリット語に対しては、俗語、方言である プラークリット語の一環で、前者に比して音韻論的にも形態論的にも単純化の 傾向を示しているが、多種多様の要素が混在していて、その基体をなした言語を 特定することはむずかしい。アショカ王碑文にみえる紀元前3世紀の方言分布に徴すると、 それは西部インドの方言にもっとも近いが、東部マガダ語の特徴をも備え、 部分的に人為的作為の跡もみえる。前2世紀より紀元後2世紀にかけて かなり広範に北インドに通用していた言語と思われる。 公用語として使われた時期に経典を書き写されたと想定されるので 文献的に法華経の成立年代より早いよ http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/646
647: 神も仏も名無しさん [sage] 2023/02/06(月) 15:23:18.69 ID:/2VPtHZP まあ、常識的に考えてパーリ経典が法華経より遅く成立したとは考えられないね http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/647
648: 桃太郎 [] 2023/02/06(月) 16:13:11.47 ID:MsxsO+O6 パーリ仏典はいわゆる小乗教。 初期の教えであり、対機説法なんです。 釈尊の初期の教えというのは、衆生の機根に応じて説かれたもであるので、仏の本意では無い。 しかも「写本はほとんどが18世紀から19世紀という、きわめて近年のものである。」という事を理解しましょう。 仮にその教えの中に、古いものがあったにせよ、それは衆生の機根を方便によって整え、仏の究極の教えである「法華経」を理解せしめるための権経なのです。 なので、初期の経典には下記のような記述があります。 「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」 (「ブッダのことば」スッタニパータ 中村元 訳(岩波文庫)」 本来、釈迦の「万人平等の思想」と旧来の「バラモン教」は相容れるものではありません。 もし、釈尊が最初からバラモン教を否定していたなら、仏教は当時のインドでは受け入れられなかったでしょう。 そこで釈尊は上記の説法のように上手にバラモンの教えを宣揚しながら教えを説いていったのです。 以前にも書きましたが、例えば幼稚児にアインシュタインの相対性理論を説いても誰も理解出来ません。 なので、「あいうえお」「足し算引き算」から教えていったのです。 同じように釈尊は42年方便・権経を説き続け、最後の8年で出世の本懐である「法華経」を説くのです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/648
649: 桃太郎 [] 2023/02/06(月) 16:13:40.89 ID:MsxsO+O6 仏典研究もまだまだ研究者の間でも様々な意見があり、完全に確定したものではない。 これからも更に深い研究がなされ、どう変わって行くのかわからない。 <Wikiから抜粋> 中村元は「サーリプッタに説いたブッダの教えはいったいどこにいってしまったのか」と述べ、 増谷文雄も「ブッダがサーリプッタに説いた宗教的深遠な教えは、阿含部経典よりも多かったに違いない」として、 "ブッダはサーリプッタに対して、深遠な思想を説いたが、その内容は阿含経典には残されていない"という趣旨の主張を行なっている。 しかしながら、中村・増谷らの「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張は文献学的に何の根拠もなく、証明不可能である。 さらに中村元は、著書の中で最初期の仏教が縁起真如を説いていたという独自の説を述べている。 上座部、説一切有部が縁起を時間的生起関係からのみ解釈したのに対して、最初期の仏教は縁起を存在論的な観点から説いていたのであり、 縁起に真如を見るという思想は、一切衆生悉有仏性という大乗の教えそのものである、といった主張もなされている。 近世以降の大乗非仏説には、宗教に関するインド人の伝統を無視している、との批判がある。 それによれば、「インドでは古来、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字にして残さないという伝統があった。 よって、釈迦が大乗仏教を説いていたとしても、釈迦の死の直後に文字に記されなかったことはむしろ当然であり、 釈迦の死の直後に記された大乗経典の実物が発見されていないことは大乗仏教が仏説ではないことの根拠にはならない」とするものである。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/649
650: momotarou [] 2023/02/06(月) 16:14:26.45 ID:MsxsO+O6 ただし、この主張は部派仏教の経典は文字によって伝承され、大乗は口伝で伝えられたというものであるが、 これは史実と異なる。実際は上座部のパーリ経典の方が口伝で継承されていた。 パーリ経典は口伝で重要な暗記をやりやすくするために、反復や韻を踏む内容となっている。 また、僧の大集会などで経典を唱える行為はこの暗記の正確さをお互いに確認しあうという役割があった。 パーリ経典が文字として記録されたのは大乗仏教が登場してからである。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC ここで、注目すべき箇所は、 中村元という仏典研究の第一人者があらゆる仏典を研究し尽くして言うには 「「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張」だ。 証明不可能であっても、誰よりも研究し尽くした学者の結論である事は間違いない。 私はこの「深遠な教え」こそが法華経であると考える。 もうひとつ注目すべき箇所は 「パーリ経典が文字として記録されたのは大乗仏教が登場してからである。」という部分 すなわち、原始仏典も文字化されるまで数百年を経ているという事だ。 であるならば、大乗仏教が数百年の間、記憶として伝承されていてもなんら不思議ではあるまい。 しかも、釈尊は法華経を無闇に下品の衆生に説いてはならないと戒めていたのだから、小乗教より後に大乗教が興隆しても不思議ではない。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/650
651: 神も仏も名無しさん [sage] 2023/02/06(月) 16:26:15.79 ID:/2VPtHZP 法華経が釈尊の真意などという考えは仏教学的には信じられてないし これからも信じられることはないだろうね http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/651
652: 神も仏も名無しさん [] 2023/02/06(月) 17:14:11.70 ID:YaYlekWc 麻原彰晃によるとブッダかずひさはブッダとして合格だそうです http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/652
653: 神も仏も名無しさん [] 2023/02/06(月) 17:15:41.96 ID:YaYlekWc 麻原彰晃はスシロー事件に憤慨しておりました。食べ物は命でありそれを粗末にする者は来世ナメクジ確定だそうです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/653
654: 桃太郎 [] 2023/02/06(月) 17:44:56.67 ID:MsxsO+O6 >>651 >法華経が釈尊の真意などという考えは仏教学的には信じられてないし 信教の自由なので、なにを信じようと個人の自由です。 ただし、私は仏教学的に十分信じられると思いますよ。 小乗教や権経を、中国の天台智??、日本の最澄が公の場の法論で打ち破り、法華経を宣揚した歴史的事実はありますが、 小乗教が大乗経を法論で打ち負かした事実はあるのでしょうか? ましてや、最高の経典である「法華経」が小乗教で法論で負かされた歴史などあまり聞きませんね。 なので、テラワダのような初期の仏教は現代に於いて修行してもあまり意味が無いように思えます。 ちょうど去年の暦を使って生活しているようなものです。 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1622899199/654
上
下
前
次
1-
新
書
関
写
板
覧
索
設
栞
歴
あと 348 レスあります
スレ情報
赤レス抽出
画像レス抽出
歴の未読スレ
AAサムネイル
Google検索
Wikipedia
ぬこの手
ぬこTOP
0.010s