[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践20 (1002レス)
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(1): 桃太郎 2023/01/30(月)09:10 ID:+fCFtbpq(1/3) AAS
>>634

>あなたのおっしゃる客観的な確からしさというのは仏教とは関係ありません。

違います。客観的な現証が無ければ、結局「主観」という事になります。
つまり、「主観」であれば、なんとでも言えます。

「神の啓示を聞いた」、「阿弥陀仏を感じた」、「犬神のお告げを聞いた」、「●●を感じた」等々。
本人がそう言い張れば肯定も否定もできません。
あらゆる宗派の人は「自分の宗教こそ正しい」と思っているのですから、客観的な現証のない「主観」で主張される以上は何も言えないのです。

初期の仏教ですら部派仏教のように様々な解釈と主張がなされ分裂して行ったのです。
「悟った」と言えば「ああそうですか」と言う以外にないし、それは、それで本人の自由です。
省7
636: 桃太郎 2023/01/30(月)10:03 ID:+fCFtbpq(2/3) AAS
>学会員で真面目に活動しているのに突然無惨な死を迎える人がいたりするからです。

それは、創価学会員に限った事では無いでしょう。
真面目なテーラワーダ信者は事故に遭わない、突然死が無いと証明できますか?
テーラワーダの聖地ミャンマーの実情をご存じですか?

まずは釈尊の教えの原点に戻って考えるべきです。

仏典には、こう記されている。

「善くない人は恩を知らず、恩を感じない」
「善い人」は「恩を知り、恩を感じる人である」(中村元著「『恩』の思想」、仏教思想研究会編『仏教思想4』所収、平楽寺書店)。
省14
637: 桃太郎 2023/01/30(月)12:02 ID:+fCFtbpq(3/3) AAS
私は「最初から生まれなきゃ、「輪廻」すらあり得ない事でしょう。」と書きました。
最初から生まれて来なけりゃ修行も不要、悟りも意味なし。

宇宙すらビッグバンも無く、何も無かったら、幸・不幸も無い
しかしながら厳然と存在する「万物生成の宇宙という究極の法」

厳粛な宇宙の法(妙法)に「たまたま」「偶然」はありません。

人がこの世に生まれのも、因果の理法によって、ちゃんとした理由があるのです。
そう考えるのが自然です。
638: 2023/01/31(火)22:58 ID:yZJxsRHj(1) AAS
生死とは苦しみであるというのが仏教の考え方ですよ
楽すら苦しみの一形態だととらえるのです。
無常ですから楽しみもいつかは終わるんです。
唯一無常でないのが涅槃です。
だから涅槃に入って次生では生まれないようにするのが仏教です。
釈迦牟尼世尊はもうどの世界にもいないんです。
だから仏舎利を供養するんですよ。
それ以外に仏陀とのつながりがないんですからね
639
(2): 2023/02/01(水)16:15 ID:Jo30N0fA(1/2) AAS
>>635
やはり客観にこだわりがおありなようです
それでは客観とは誰にとってに客観なのでしょうか?
周囲からみて素晴らしい?
本人が向上や前進を実感している?
まず本人の判断はあなたのいうようにあてになりません
それは主観に他ならないからです
これはあなたの理論を用いています

それでは周囲の判断はどうでしょうか?
これももちろんあてになりません
省12
640: 2023/02/01(水)16:47 ID:Jo30N0fA(2/2) AAS
>>639
続き
言い忘れましたが
もしあなたの思い浮かべている証拠というのが
心の中はどんなに苦しくてもびくびくしていても関係なく
財や病気の回復に現れるのが本物なのだという考えの場合は
お詫びします

私の勝手な思い込みで宗教は心の問題を解決するのが
本目的というところがありますので
もしそこが違っていたら最初から噛み合っていません
省19
641
(1): 桃太郎 2023/02/01(水)17:23 ID:LtRFhl6f(1) AAS
>>639

>それでは客観とは誰にとってに客観なのでしょうか?

「客観的」の定義はネットで調べれば分かる事でしょう。

すなわち「誰が見てももっともだと納得できる考え方をする様子。 個人(主観)の考えより、普遍的な妥当性を求められるさま。」

簡単に言えば「普遍性」です。
省8
642
(1): 2023/02/04(土)17:43 ID:RD7lIIhC(1) AAS
>>641
客観的という言葉の定義は正に想像の産物だと
お分かり頂けるでしょう
今のこの議論のように少なくとも一人は
異論を唱えた者がいるのですから
「誰が見てももっともだ」ではなく
「多くの人が」とか
「比べた時に賛同者の方が多い」など
そのように表現しない限り
常に混乱と争いを生み出す元になるでしょう
省28
643: 桃太郎 2023/02/06(月)12:20 ID:MsxsO+O6(1/6) AAS
>>642

「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」

>客観的という言葉の定義は正に想像の産物だと
>お分かり頂けるでしょう

何を根拠に「想像の産物」と言われるのでしょうか?
私達が仏教を学ぶ際には「経典」という文字を読んで仏の心を知る以外にないのです。

>「比べた時に賛同者の方が多い」など ..
省9
644: 桃太郎 2023/02/06(月)13:21 ID:MsxsO+O6(2/6) AAS
Wikipedia 抜粋

★「法華経」

法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である。

当時は、特別な修行を経た出家者のみが救済されるという考えが部派仏教の主流を成していた。

これに対し、法華経は、小乗・大乗の対立を乗り越えつつ、全ての人間が一乗(菩薩乗)を通じて平等に救済されるという仏教思想を強調した内容と理解される。
省7
645: 2023/02/06(月)15:08 ID:/2VPtHZP(1/4) AAS
>法華経の原本は紀元1世紀以降にインドで編纂されたという説が有力である。

法華経のサンスクリット原本の写本が1世紀の地層から発見された
わけじゃないよ
出土された原本は5世紀から6世紀までのものが限界だし
書写年代が確認されるものは10世紀から11世紀のネパール本だ
ただ文献の解析で1世紀成立なんじゃないかと推定されてるだけだよ
646: 2023/02/06(月)15:22 ID:/2VPtHZP(2/4) AAS
パーリ語
古代インドの雅語、教養語であったサンスクリット語に対しては、俗語、方言である
プラークリット語の一環で、前者に比して音韻論的にも形態論的にも単純化の
傾向を示しているが、多種多様の要素が混在していて、その基体をなした言語を
特定することはむずかしい。アショカ王碑文にみえる紀元前3世紀の方言分布に徴すると、
それは西部インドの方言にもっとも近いが、東部マガダ語の特徴をも備え、
部分的に人為的作為の跡もみえる。前2世紀より紀元後2世紀にかけて
かなり広範に北インドに通用していた言語と思われる。

公用語として使われた時期に経典を書き写されたと想定されるので
文献的に法華経の成立年代より早いよ
647: 2023/02/06(月)15:23 ID:/2VPtHZP(3/4) AAS
まあ、常識的に考えてパーリ経典が法華経より遅く成立したとは考えられないね
648: 桃太郎 2023/02/06(月)16:13 ID:MsxsO+O6(3/6) AAS
パーリ仏典はいわゆる小乗教。

初期の教えであり、対機説法なんです。
釈尊の初期の教えというのは、衆生の機根に応じて説かれたもであるので、仏の本意では無い。
しかも「写本はほとんどが18世紀から19世紀という、きわめて近年のものである。」という事を理解しましょう。

仮にその教えの中に、古いものがあったにせよ、それは衆生の機根を方便によって整え、仏の究極の教えである「法華経」を理解せしめるための権経なのです。
なので、初期の経典には下記のような記述があります。

「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」
(「ブッダのことば」スッタニパータ 中村元 訳(岩波文庫)」

本来、釈迦の「万人平等の思想」と旧来の「バラモン教」は相容れるものではありません。
もし、釈尊が最初からバラモン教を否定していたなら、仏教は当時のインドでは受け入れられなかったでしょう。
省4
649: 桃太郎 2023/02/06(月)16:13 ID:MsxsO+O6(4/6) AAS
仏典研究もまだまだ研究者の間でも様々な意見があり、完全に確定したものではない。
これからも更に深い研究がなされ、どう変わって行くのかわからない。

<Wikiから抜粋>

中村元は「サーリプッタに説いたブッダの教えはいったいどこにいってしまったのか」と述べ、
増谷文雄も「ブッダがサーリプッタに説いた宗教的深遠な教えは、阿含部経典よりも多かったに違いない」として、
"ブッダはサーリプッタに対して、深遠な思想を説いたが、その内容は阿含経典には残されていない"という趣旨の主張を行なっている。

しかしながら、中村・増谷らの「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張は文献学的に何の根拠もなく、証明不可能である。

さらに中村元は、著書の中で最初期の仏教が縁起真如を説いていたという独自の説を述べている。
上座部、説一切有部が縁起を時間的生起関係からのみ解釈したのに対して、最初期の仏教は縁起を存在論的な観点から説いていたのであり、
縁起に真如を見るという思想は、一切衆生悉有仏性という大乗の教えそのものである、といった主張もなされている。
省4
650: momotarou 2023/02/06(月)16:14 ID:MsxsO+O6(5/6) AAS
ただし、この主張は部派仏教の経典は文字によって伝承され、大乗は口伝で伝えられたというものであるが、
これは史実と異なる。実際は上座部のパーリ経典の方が口伝で継承されていた。
パーリ経典は口伝で重要な暗記をやりやすくするために、反復や韻を踏む内容となっている。
また、僧の大集会などで経典を唱える行為はこの暗記の正確さをお互いに確認しあうという役割があった。

パーリ経典が文字として記録されたのは大乗仏教が登場してからである。

外部リンク:ja.wikipedia.org

ここで、注目すべき箇所は、

中村元という仏典研究の第一人者があらゆる仏典を研究し尽くして言うには
「「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張」だ。
証明不可能であっても、誰よりも研究し尽くした学者の結論である事は間違いない。
省6
651
(1): 2023/02/06(月)16:26 ID:/2VPtHZP(4/4) AAS
法華経が釈尊の真意などという考えは仏教学的には信じられてないし
これからも信じられることはないだろうね
652: 2023/02/06(月)17:14 ID:YaYlekWc(1/2) AAS
麻原彰晃によるとブッダかずひさはブッダとして合格だそうです
653: 2023/02/06(月)17:15 ID:YaYlekWc(2/2) AAS
麻原彰晃はスシロー事件に憤慨しておりました。食べ物は命でありそれを粗末にする者は来世ナメクジ確定だそうです。
654: 桃太郎 2023/02/06(月)17:44 ID:MsxsO+O6(6/6) AAS
>>651

>法華経が釈尊の真意などという考えは仏教学的には信じられてないし

信教の自由なので、なにを信じようと個人の自由です。
ただし、私は仏教学的に十分信じられると思いますよ。

小乗教や権経を、中国の天台智??、日本の最澄が公の場の法論で打ち破り、法華経を宣揚した歴史的事実はありますが、
小乗教が大乗経を法論で打ち負かした事実はあるのでしょうか?
ましてや、最高の経典である「法華経」が小乗教で法論で負かされた歴史などあまり聞きませんね。

なので、テラワダのような初期の仏教は現代に於いて修行してもあまり意味が無いように思えます。
ちょうど去年の暦を使って生活しているようなものです。
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