[過去ログ] 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践20 (1002レス)
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872: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)11:32 ID:VBYmqe8C(7/11) AAS
なんかとんでもない勘違いがある様ですけど🤭
南伝上座仏教大寺派は動静の静を寂滅のところとしているのではありません。
その静は、五位法でいう有為法心不相応行法の無想や滅尽のところで、動静を超越してる無為法の寂滅(択滅、涅槃)ではないのですが🤭
これ、宗教板では毎日の様にいろいろなスレで起きてるんですが、無知による誤解から生じる他宗教や他宗派の批判は、された当事者には迷惑な話に他なりません。
しかも、こうして正しい見解を提示しても逆に誹謗中傷されるのですから、これじゃまともな人は宗教板からドンドン去る訳です。
873: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)11:37 ID:VBYmqe8C(8/11) AAS
>>871
勿論、貴殿のご信仰は尊重致しますが、それは伝統仏教の解釈とは異なりますね。
874: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)11:40 ID:VBYmqe8C(9/11) AAS
>>871
私のレスに反論がある時は、このスレではなくて(スレの主旨のそぐわないと思慮するので)以下のスレでどうぞ。
↓
2chスレ:psy 【全宗教】悟りをひらいた人のスレ833【歓迎】
875: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)12:06 ID:VBYmqe8C(10/11) AAS
つまり、非我も亦非我なのですし、また、体用論、或いはダルミン・ダルマ論の視座からして、仏教では認識する主体があるとは説きません。
体用不離、ダルマとダルミンの別は説かないのです。
876: 鹿野園 ◆1EQ8DnpEU58d 2023/03/15(水)12:09 ID:VBYmqe8C(11/11) AAS
誤爆すみません。
877(1): 2023/03/15(水)12:47 ID:pEF8hw4M(14/31) AAS
>>871
リンク先も読んだけど、ちがいますね。。
真我はあるけど、認識主体ではないです。。
認識主体を常住とみなすのは、外道の見解ですよ。。
全体が、真の自己、であればいいすけど。。
878(2): 2023/03/15(水)12:49 ID:pEF8hw4M(15/31) AAS
認識主体は、認識と同時生起です。。
認識が生じて、自他、主客が分かれる。。
でも、ほんとは、自他不二、ですから、認識があるだけで、主客が別にあるというのは、
迷妄です。。
879: 2023/03/15(水)12:50 ID:pEF8hw4M(16/31) AAS
>>877
なんか言葉がオカシイ。。w
>全体が、真の自己、であればいいすけど。。
→ 全体が、真の自己、であればいいのですけれど。。
880(2): 2023/03/15(水)12:52 ID:pEF8hw4M(17/31) AAS
アートマンのような真我、認識主体と、それ以外の幻想の自我がある、とすると、
二元論になって、仏法ではありません。。
これは、ヒンズー教、あるいは、アドヴィタの教え。。
仏法は、そういう二元論ではありません。。
もともと無我、非我、であって、それを明らめるか否かと言うだけです。。
無我、非我であるから、次のの瞬間は、もう脱落している、解脱している、と言うことが可能なのです。。
881: 2023/03/15(水)12:55 ID:pEF8hw4M(18/31) AAS
応無所住生其心だから、生死即涅槃、輪廻即解脱なんです。。
瞬間、瞬間終わっているから、即涅槃、解脱、と言ってもいい。。
882: 2023/03/15(水)12:56 ID:pEF8hw4M(19/31) AAS
もともと人間と言う機構は、自分を見れるとか認識できるようにはつくられていないんです。。
だから、自分忘れて、縁に応じて動く、働く、と言うことができるようになれば、それでいいんです。。
883: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)13:14 ID:TsLH/+bZ(1/2) AAS
たとえば、「私は(~を)見る」と言ったとしよう。では、見る「私」とは、何であろうか。
それは、「私は(~を)見る」というのだから、その見る前に存在している何ものかということになる。
それは見る以前だけではない、聞くよりも、読むよりも、歩くよりも、走るよりも前に存在している何ものか、つまりあらゆる作用以前に存在している何ものか、ということになってしまう。すなわち、作用を持たない基体(サブスタンス)としての私だ。
だがいったい、そういう現象に関わらない私という存在を、どうやって知ることができようか。第一、その私って、いったい何なのだろう?
もしそういう私があるとしたら、それが見るとは、どういうことになろうか。
もとより作用を持たないのであるから、どこかにあらかじめある「見る作用」と結びついて、はじめて見るということもできるということになるほかない。
しかしながら、いったい、見る作用のみが、どこかにあると考えられようか。
これはおかしな話である。ある意味では、そんなものがあるとすれば、ありもしない幽霊より怖いことだ。
したがって見る作用とは別に私があるということは、どうも成立しそうもない。
(入門 哲学としての仏教 竹村牧男)
省1
884: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)13:14 ID:TsLH/+bZ(2/2) AAS
(続き)
では見る作用と私は一つだとすれば、では聞く者は誰? ということになる。
そうすると、一体ではないが、別体でもない、というのが正しいだろうか。
しかし同じでもないし異なるのでもないという言い方は、ふつう、論理的には排除され、世間の言語においては通用しないものである。逆にいえば、世間の常識の言語世界は、じつはこのように矛盾を安易に排除した、浅薄な、虚偽に満ちた論理と認識の上に成り立っていることが知られてくる。
「私は(~を)見る」という、きわめて単純素朴で至極当然な言い方のなかに、すでに大いに問題が潜んでいたのである。
それは、基体と作用をあらかじめわけておいて、しかもつなぐところが問題だったのだ。
それにしても、いつも我々は、私は、私は、と言っているが、その私っていったい何なのであろうか。
基体としての、変わらない、常住不変の私(=我=アートマン)があるとしたら、そういうものは自分のどこにあるのだろう。そんなものは、自分のどこにも、きっとないにちがいない。
ウィトゲンシュタインも言っている、私は歯が痛いというのは、ナンセンスだ。歯が痛む、その痛いの感覚以外にある私って何であろう。そんなものはあるとは思えない、言えない、と(拙著『インド仏教の歴史──「覚り」と「空」』講談社学術文庫、二〇〇四年、二〇六頁参照)。
これは龍樹の言っていることと同じことである。というわけで、結局、「私は(~を)見る」という文章は成り立たないのである。
省1
885: 2023/03/15(水)13:15 ID:pEF8hw4M(20/31) AAS
もちろん、鏡のように、ありのままに映す、機能というのは、常にある、働いている、とも言えるんだけど、
それを認識と言えるかどうか?
認識と言うと、主客、自他分かれた世界で、ありのまま、ではないものですからね。。
886: 2023/03/15(水)13:16 ID:pEF8hw4M(21/31) AAS
ありのまま、というのは、映すことはできても、知ることはできない。。
自分も他も知りません~ん、の世界。。w
そっちが本当、本来かもしれない。。w
知るとか、認識するというのは、自他、主客分かれてしまう世界だから。。
887: 2023/03/15(水)13:20 ID:pEF8hw4M(22/31) AAS
主客、自他が分かれてしまう、認識の世界が悪いってことじゃないんだけど、
そうした、素朴実在論的、二元論的な認識が、迷妄の根源としてある、というのは、知っておくべきでしょうね。。
888: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)13:47 ID:41g99GT2(1/3) AAS
へっへっへ www
法相宗では、識体転じて二分に似る。...その二分に依って我法を施設する(成唯識論)、それによって認識が成立すると説くのでして、勿論、識体という常・一・主・宰の認識主体があるって事じゃないんですけど、その話は他の機会で w
そして、その二分(主客、自他別れた世界)は三量(現量、比量、非量)に分けられるのでして、「主客に分かれる(二分)≠ありのまま」という事ではないのでして、ふふふ。
現量=ありのままでしてねぇ www
はい、非量や比量≠ありのままにはなりますけどw
まぁ、識体が転じて眼耳鼻舌身と色声香味触に二分するんですけどねぇ、それが現量、ありのまま、主客未分のところなんですけどねぇ、ふふふw
889: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)13:50 ID:41g99GT2(2/3) AAS
まぁ、現量とは言語の介在がないところでして、そういうところをありのままとか主客未分って考える訳ですがねぇ、ふふふw
890: 鹿野園 ◆ZTfV4x.y4wpe 2023/03/15(水)13:53 ID:41g99GT2(3/3) AAS
盤珪さん曰く、不生。
臨済さん曰く、即今聴法底。
それ、現量、すなわち言語の介在のないところだと思いますけどねぇ、うふふw
それが父母未生以前、ありのまま、主客未分ってところじゃございませんかねぇ、えへへw
891: 2023/03/15(水)13:54 ID:pEF8hw4M(23/31) AAS
比量であろうが、非量であろうが、そうしている当体は、比較を絶してあるのですよ。。
すべては、比較を絶している、比べようがないそのもの、これが法ですね。。
そのように観ることが、すべてを救う道なのであります。。w
というか、既に救われているんです。。
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