[過去ログ] 阿含宗という宗教 328 (1002レス)
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639: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2022/05/15(日)22:34 ID:gKJ1EppJ(5/5) AAS
>>628
深田さんの死因など自分は知らされていないと正直に書け。
あと4回目のワクチン接種の件だが、いずれは阿含宗の信者だってワクチンを4回接種する人は大勢出てくるでしょう。
単に時間差の問題でね。
つまり阿含宗でもワクチン接種は否定も禁止もしていない。
だからワクチン接種を基準になんか相手をけなそうと思ったら、それは阿含宗を貶すことにもなるんだぜ。
640
(3): 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/15(日)22:43 ID:f7wcLzS1(5/7) AAS
>>620神も仏も名無しさん2022/05/15(日) 16:06:15.96ID:bT7Ka6UI
>もしこの説明が間違っているのなら、どうしてアナゴンが漏尽智を得られるのかということになる。
>「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。」という中村氏の文章と矛盾してしまうのです。

「もしこの説明が間違っているのなら」って、彼の説が間違っているから矛盾したのです。
「どうしてアナゴンが漏尽智を得られるのか」って、アナゴンは漏尽智は
得られないからこそ、漏尽智はアラカンにのみに属するのです。
「中村氏の文章と矛盾してしまう」のは、そのとおりで、あの文章を
ペテン大作さんが漏尽智で煩悩を切るとデタラメな解釈をしたから、矛盾するのです。
これだけ自己矛盾に突き当たってもペテン大作さんは自分の知性を疑わない。
と言うよりも、彼の説の矛盾を>>608>>616などで指摘されも、理解できないのです。
省9
641: 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/15(日)22:55 ID:f7wcLzS1(6/7) AAS
>>620神も仏も名無しさん2022/05/15(日) 16:06:15.96ID:bT7Ka6UI
>アナゴンは確かに漏尽智を得て解脱したのです。

漏尽智「あらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」
(『佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1444頁)

ペテン大作さんは「あらゆるけがれを滅する智」を「煩悩を切る智」だと決めつけている。
それでは、「阿羅漢に属する」と矛盾するだろうと指摘されても、
彼は気にしないというよりも、意味がわからない。
漏尽智で煩悩を切るなら、アナゴンが漏尽智を持つことになり、
漏尽智がアラカンに属することと矛盾する。
つまり、「あらゆるけがれを滅する智」は「煩悩を切る智慧」という解釈が間違っているから、矛盾した。
省8
642
(1): 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/15(日)23:12 ID:f7wcLzS1(7/7) AAS
「かれは、もろもろの煩悩を滅する智に心を傾注し、向けます。かれは、
『これは苦である』と、あるがままに知ります。
『これは苦の生起である』と、あるがままに知ります。・・・」
(『原始仏教』片山一良、No.2、1991年、67ページ)

この片山氏の訳をペテン大作さんは自分で引用した。
ごらんのように、「煩悩を滅する智」とは、それで煩悩を切るという話ではなく、
「これは苦である・・」から始まる四諦のことです。
これを見て彼は、漏尽智とは四諦だ、四諦で解脱するのだと書いた。
表現は適切ではないが、漏尽智で煩悩を切るというよりも、まだましです。
沙門果経の上記の全文を丁寧に読めば、漏尽智とは、四諦の体得を
省17
643: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2022/05/16(月)08:36 ID:sxs8cTip(1) AAS
沙門果経における四禅の記述は実は心の安定統一という単一の記述ではありません。
汚れを離れとか小さな煩悩も離れとか不動であるとか複数の表現をしているのです。
その全体を見るとこれは解脱なんです。
だから単一の表現記述に対して中村元博士も原語はサマディ、三昧だよと註を入れるのも当たり前でしょう。
解脱の諸相の中に心の安定統一と表現されるのもあるけれども単にそれだけではないということです。
もっともっと付加すべき要素があって、それをちゃんと欠かさずに表現しているのが沙門果経ですね。
だから我々はそれを以て解脱と解釈しているのだから、心の安定という単語だけをとって
それが全てであるかのように決めつけるのは思慮が足りません。
644: 桐山靖雄 2022/05/16(月)12:45 ID:uZVt8C+2(1/2) AAS
セイント靖阿!

お風呂場で口外出来ない破廉恥な死を迎えた男!
645: 桐山靖雄 2022/05/16(月)12:56 ID:uZVt8C+2(2/2) AAS
>>629
阿含宗二代目管長猊下の深田靖阿を尊敬できない?
では、
三代目管長猊下のK川さんを尊敬できますか?
尊敬できないクズを
管長猊下に指名して阿含宗はアホなの?

ということで、深田靖阿の死因を教えて下さい。
646
(3): 2022/05/16(月)16:19 ID:lCnWttQl(1/2) AAS
@アナゴンが漏尽智を体得してアラカンになる。

>642
>解脱した者以外が漏尽智を持つなどありえない。

いやそれはおかしいのです。
中村氏の説明を並べてみましょう。

>「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」
>「漏尽通ー生存の尽きてなくなったことを確認すること。漏尽智証通に同じ。」
>「漏尽智証通ー煩悩を滅ぼさせる智慧。煩悩を断つ智を体得する神通。」
>(『広説佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1776頁)

「漏尽智証通ー煩悩を滅ぼさせる智慧。煩悩を断つ智を体得する神通。」
省12
647
(1): 2022/05/16(月)16:37 ID:lCnWttQl(2/2) AAS
>>622
>そうではなく、やはりこれは仏教修行の最後の結果として全ての煩悩を断尽したと證知するのが漏尽智であって、
漏尽智というある時からある時までの修行法があるのではありません。

まあ、時々相手にしてやらないとね。
せっかく書いたのに不甲斐ないでしょうから。

だから、煩悩を断つのも漏尽智だと前から言ってるでしょう?
煩悩を断った結果を確認するだけが漏尽智ではないのです。
煩悩を断つのも漏尽智なのです。

「若し智生せば、有漏盡きて無漏の心解脱慧解脱を得、」 
「漏盡智とは、謂はく此の智に由りて一切の漏盡の方便に通達し、 及び諸漏の盡なり。」
省1
648
(1): ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2022/05/16(月)21:00 ID:XwOBz/7U(1/2) AAS
>>646 神も仏も名無しさん 2022/05/16(月) 16:19:35.56 ID:lCnWttQl
>もし、深山さんの言うように、この漏尽智がアラカンのものならば
>何で「煩悩を断つ智を体得する」必要があるのですか?
>アラカンは既に煩悩を断っているのです。
>もう煩悩を断つ必要はありません。
>だからこれはアナゴンが漏尽智を体得するのです。

それはあなたがまだ煩悩を断ち切れていない人が煩悩を断ち切る超人的な智慧と、
技術論、方法論という観点の頭から離れられないだけではありませんか。
そうではなくアナゴンどころかシュダオンより遥か以前の昔から煩悩を断つ修行を繰り返し続け、
最後に全ての煩悩を断ち切ったアラカンがそれを認識する話とすればしっくりくるじゃありませんか。
省5
649: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2022/05/16(月)21:18 ID:XwOBz/7U(2/2) AAS
>>647 神も仏も名無しさん 2022/05/16(月) 16:37:09.83 ID:lCnWttQl

>だから、煩悩を断つのも漏尽智だと前から言ってるでしょう?
>煩悩を断った結果を確認するだけが漏尽智ではないのです。
>煩悩を断つのも漏尽智なのです。

だから私の書き込みを読んでないんですか?
煩悩を断つというのは仏門に入門して最初からやってるんですよ。
仏教の修行というのは煩悩を断つこと以外にありません。
最初から最後までそうなんです。
もちろん最初から全ての煩悩が断ち切れるわけがないから徐々に徐々にと修行を進めるのです。
煩悩は結とも表現されますよね。
省23
650: 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)22:01 ID:9sStUtaV(1/7) AAS
*「あらゆるけがれを滅する智」の意味

ペテン大作さんはどんなに自己矛盾しても、気にしない。
矛盾を指摘されても理解できないから、すぐに忘れて、自説に戻る。
他の普通の知性を持っている信者さんたちは、漏尽智は阿含宗にとっても
とても重大な教義ですから、しっかり学んでください。
本当はカルマ解脱(因縁解脱)の話からしなければならない。
しかし、ペテン大作さんが逃げまくっているように、因縁解脱など
仏教は存在しませんが、それは別な機会にして、
今は漏尽智と煩悩解脱の関係を見てみましょう。

「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」
省12
651
(1): 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)22:13 ID:9sStUtaV(2/7) AAS
*「漏尽智で煩悩を切る」は矛盾する

「漏尽智ーあらゆるけがれを滅する智。阿羅漢に属する。」
(『広説佛教語大辞典』東京書籍、中村元、1776頁)

中村博士の「阿羅漢に属する」を見てください。
漏尽智はアラカンに属する、つまり、アラカンしか持たないというのです。
だが、煩悩を切らなければならないのはアナゴン以下です。
解釈Aではアナゴンが「漏尽智で煩悩を切る」はずなのに、
その漏尽智はアラカンしか持たないという!?
アラカンはすでに煩悩を切っているだから、煩悩を切る漏尽智は無用の長物です。
矛盾しています。
省11
652: 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)22:23 ID:9sStUtaV(3/7) AAS
*漏尽智とは「煩悩の尽きたことを知る能力」

岩波仏教辞典「漏尽通は自己の煩悩の尽きたことを知る能力。」

「漏尽智=漏尽通=漏尽明」ですから、↑これが漏尽智の意味で、
解釈A「漏尽智で煩悩を切る」は違うというか、間違いです。
岩波仏教辞典では、漏尽智で煩悩を切るのではなく、
解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」
つまり、解脱したことを知る能力だとあります。

ペテン大作さんは、漏尽智で煩悩を切り(解釈A)、漏尽智で解脱したと知る(解釈B)と
いう世界でたった一人のオカルト説を唱えています。
もしそうなら、岩波仏教辞典にその二つが載っているはずなのに、
省6
653: 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)22:34 ID:9sStUtaV(4/7) AAS
「煩悩の尽きた状態.・・(中略)・・また,この状態を自ら知覚することを(漏尽明)(漏尽通)
といい三明六神通の一つである.」
(『岩波仏教辞典』)

↑の「漏尽」の説明の中に、漏尽通とは解脱の「状態を自ら知覚すること」
であるという解釈Bが出ています。
漏尽通は、紙数の足りない岩波仏教辞典に二度も出てきて、
しかも両方とも同じ解釈Bです。
つまり、岩波仏教辞典は紙数が足りないから解釈Aを省略したのではなく、
漏尽智とは解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」という一つの意味しかないのです。
ここまでは普通の知性のある信者さんたちは理解できたでしょう。
省6
654: 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)22:45 ID:9sStUtaV(5/7) AAS
>>602神も仏も名無しさん2022/05/12(木) 15:52:24.56ID:rbXSUWMk
「かくのごとく心が統一され、清浄で、きよらかで、よごれなく、汚れなく、柔かで、
巧みで、確立し不動となったときに、我々は汚れを滅す智(漏尽智)に心を向けた。
そこでこの(一切は)苦であると如実に知った。」
(『ゴータマ・ブッダ ー釈尊の生涯ー 原始仏教1』中村元、184頁)

まず信者さんたちに着目してほしいのは、この経典の前半に「よごれなく、汚れなく」
とありますから、すでに煩悩を断ち切って解脱していて、
漏尽智は解脱した後に出てくる点です。
これを見ても、解釈A「漏尽智で煩悩を切る」が間違いなのは明らかです。
また、解釈B「煩悩の尽きたことを知る能力」と一致していて、
省12
655
(9): 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)22:57 ID:9sStUtaV(6/7) AAS
「『これが苦しみである』と、あるがままに洞察します。
『これが苦しみの原因である』と、あるがままに洞察します。
『これが背しみの滅尽である』と、あるがままに洞察します。
『これが苦しみの滅尽にいたる道である』と、あるがままに洞察します。
『これらが諸煩悩である』と、あるがままに洞察します。
『これが煩悩の原因である』と、あるがままに洞察します。
『これが煩悩の滅尽である』と、あるがままに洞察します。
『これが煩悩の滅尽にいたる道である』と、あるがままに洞察します。」
(『原始仏典Ⅰ長部経典Ⅰ』春秋社105ページ)

これが釈尊の説いた漏尽智です。
省14
656: 深山 ◆lDoupiXSYZNC 2022/05/16(月)23:09 ID:9sStUtaV(7/7) AAS
*漏尽智で煩悩を切るのではない

釈尊が、煩悩を滅する智と述べたのは、何か超能力のような神通力で
煩悩を断ち切るという話ではなく、八正道で煩悩を切った比丘が、
四諦を何度も洞察して煩悩がないと確認するという意味です。
四諦の「道」の八正道によって、煩悩は滅しており、
煩悩を滅するのは漏尽智ではありません。

まとめるなら、
・漏尽智とは煩悩が尽きたこと(解脱したこと)を確認する能力
・釈尊は四諦体得の確認を「煩悩を滅する智」と述べた
・釈尊は解脱した後で漏尽智に心を向けると述べている
省3
657: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2022/05/17(火)00:04 ID:4xA9G5Im(1/4) AAS
そう、「心を向ける」です。
ここで沙門果経の構成を考えてみましょう。
四禅を終えた比丘がどのような状態になっていたかと言うと、
心が安定しており、よごれ、けがれから離れており、小さな煩悩も離れており、
柔軟にして不動であったとこういう状態だったわけです。
つまりこれが解脱している状態なわけです。
そこで解脱した比丘は神通に心を向ける。
すると刀を鞘から抜くように身体から心が離れ
身体が巨大になったり微細になったり壁をすり抜けたりという神通を体験することができた。
心を向けただけでそうなったわけです。
省15
658: ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR 2022/05/17(火)00:12 ID:4xA9G5Im(2/4) AAS
しかもその心を向ける、観察するというのは「ありのまま」の観察なんです。
ありのままに心を向ける、観察する、その結果煩悩が尽きて無くなったということです。
じゃあ煩悩がまだ残っているアナゴンあたりがありのままに観察したら煩悩が全て尽きて無くなるんですか?
そんなことはありえませんね。
煩悩が全て尽きて無くなっていたアラカンだったから、ありのままに観察したら、まさにその通りだったということです。
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