◆三島由紀夫の遺訓◆ (511レス)
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371: 2011/06/16(木)12:13 ID:RYzTl98n(6/6) AAS
(政治家も、)一投票者も、政治的意見において本当に一対一で、人間的に一対一だという考えが含まれなければ、
民主主義は成立しない。だから暗殺というのはアクシデントではあるけれども、民主主義に暗殺はつきものだと
私がいったのは、そこなのです。
ところが、共産主義ないし全体主義というものはそういうことをやらん。彼らは権力を握って、邪魔なやつを
粛清すればいい。全体主義は人を粛清するのに、そんな暗殺のような自分の危ないことはやりません。ニュースを
隠して、秘密警察で守り、その中で一番憎いやつをそっと殺す。犯人もわからなければ、何もわからない。
民主主義というのは非常にペシミスティックな政治思想です。(中略)
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、いつまでたっても
無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものをやろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
372: 2011/06/17(金)11:28 ID:26WSd8ie(1/7) AAS
アメリカの民主主義はフロンティアなんかの自警団的なものが基盤にある、(中略)どんな政治体制でも歴史的な
基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では日本の天皇制もまったく同じだと思います。
ですから民主主義が悪いとか、天皇制がいいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に
立った政治体制ができていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。(中略)資本主義国家も
国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の国家の時代という点では、国家の管理機能は
むしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、
そんなことは先のことである。我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんと
いうように私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、それに対する
防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
省1
373: 2011/06/17(金)11:29 ID:26WSd8ie(2/7) AAS
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。そして
この階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、
日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。というのは、
ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、
クラブというのがありますね。みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブを
ステイタス・シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段をするわけです。
(中略)そうすると自分の息子に来るお嫁さんが違ってくるのです。(中略)アメリカにはステイタス・シンボル
というものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
374: 2011/06/17(金)11:29 ID:26WSd8ie(3/7) AAS
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。(中略)一つの社会風俗的
現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金で
キャデラックに乗っている、それがブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けばそれがブルジョアなのか。
そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に別荘を持っている。(中略)私は階級差というものの
甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
そして富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を使ったってできるのだ。
(中略)権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、我々はむしろ
権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
375: 2011/06/17(金)16:32 ID:26WSd8ie(4/7) AAS
人間の考えは――全部の人間が同じ考えをするということができれば、本来民主主義なんていうものはこの地上に
成立する余地はないのです。そんなものは要らない。したがって戦争も要らないわけだ。ところがどうしても
人間というものは全部同じ考えを持ち得ない。しかも言語を共有しながら同じ言葉を持ち得ないというところで、
バベルの塔のような神話があるわけだ。これは人間観の根本的な問題です。
大体ソヴィエトへ行った人の話を聞きますと、非常にアメリカ人とよく似ているそうです。アメリカ人は別の方法で
あんなコンフォーミティな人間ができちゃった。誰に聞いても、同じような冷凍食品を食べていますから頭の中は
同じになっちゃう。しかし実に親切で、自分の身の周りのことについては気持よく話してくれる。ただ、国家・
社会の問題になると何もわからないという人間達ですね。それは確かにソヴィエトでもできつつあるでしょう。
けれども、人類全部がそうなることが人類の幸福であるかどうかというと問題はまた残りますし、本人が幸福なら
いいじゃないかということになりますと、これは人間観の相違としか思う他にない。
省1
376: 2011/06/17(金)16:34 ID:26WSd8ie(5/7) AAS
行動には必ずリアクションがある。そのリアクションはどこからくるかというと、自分の敵からくるわけですね。
敵がなければかなわん。(中略)
大体韓国の人達はいろいろな面で反共精神が強いのだけれども、これは実際に自分の親族が殺され、あるいは
自分の親兄弟が共産主義者から酷い目に遇ったりしている。(中略)
インドネシアでは役人の中にも共産党が入っていましたから、こいつらがみんな私腹を肥やしたり、宗教を
弾圧したりして農民に嫌われちゃった。農民も何年か我慢して、いまにあの野郎どもと思っていたから、いざ
共産クーデターを起そうとしたらば、逆に鋤、鍬で殺されちゃったわけだ。この恨みというのはすごいですね。
しかし、私は別に何ら危害を受けたわけではない。ただ敵として私が選んだ。これは私独特のものですね。私は
自分の行動を起すにはどうしても敵がなきゃならんから選んだ。そこで私は何ら矛盾を感じてないわけです。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
377: 2011/06/17(金)16:35 ID:26WSd8ie(6/7) AAS
(日本では)惨状に対する異常なヒューマニスティックな同情から革命衝動が起るということは現在ではほとんどない。
(中略)被圧迫者が傍にいるという状況は、インドでホテルの二階で食事をとっていますと、窓から街路には
飢えた乞食がいっぱい見える。かわいそうな佝瘻(くる)病の少年が痩せこけた自分の弟を腕に抱いて、
もう一方の手を伸ばしています。それを見るとこっちは御飯が食べられなくなっちゃうですね。そういう国でこそ
共産革命ないし革命の情熱が涌き起るかというと、インドの共産主義者ってみんな金持ちなんです。なぜかというと、
共産主義の文献を読むにはお金がなければならない。金をかけて大学を出なければ……。みんなオックスフォード、
ケンブリッジへ行くのです。そういう上流階級が主に共産主義者の中心になって、しかも共産主義の知事のいる県は
他の県に米を移出しない。ですからその県に、米があっても、隣の県の飢え死にを放棄する。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
378: 2011/06/17(金)16:36 ID:26WSd8ie(7/7) AAS
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に同情する人がなく
なっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン動物愛護協会というものなんです。
これは生活の余裕がなければできないことで、オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方は
わかりますが、犬を可愛がって、犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうに
なっちゃうものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中からどうやって
社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
ちょっと問題が大きくなりましたが、その中で自我というものは大きくなればなるほど本来今言ったようなものが
溢れているはずなんですが、その溢れる対象に使われない場合には、何かでそれが捩じ曲げられてぶつかって
いくことになるわけですな。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
379: 2011/06/18(土)11:55 ID:52xFyZvr(1/5) AAS
天皇と国民を現代的感覚で結びつけようということは小泉信三がやろうとして間違っちゃったことだと思うのですよ。
小泉信三は結局天皇制を民主化しようとしてやり過ぎて週刊誌的天皇制にしちゃったわけですよ。そして結局
国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのは、ディグニティをなくすることによって
国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった。それでアメリカから
変な女を呼んできて皇太子教育させたり、そういうふうな形でやってきたわけです。ですからその考えはまだ
宮内官僚に随分残っているから、当然天皇制というものがそういう形でうまく国民と結ばれるということについては、
私は悲観的ですね。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その二」より
380: 2011/06/18(土)11:56 ID:52xFyZvr(2/5) AAS
人間は未来ということを考えると、必ず現在というものを犠牲にするか手段化するという不思議な動物だと私は
思います。未来社会がもし理想的な社会になる。その社会のために現在我々が動いているとすれば、我々は
その社会への橋であり、プロセスであり、道具なんですね。(中略)これがあらゆる未来というものに関する
思想の――私は左とか右とかいうのじゃない、未来というものを想定した思想にからむ一つの危険だと思います。
(中略)
私はいわゆる革命家、社会運動家、改良主義者、こんな人達と話します時に自分との一番の違いだと思いますものは、
私は「未来がない」という考えなんです。(中略)もちろん我々は一週間や十日のところは大体未来ということを
考えて暮しておりますが、それはもうすでに現在に繰り込まれた実務的な時間の問題で、私がいっているのは
そういうことではないことはおわかりだと思います。つまり自分の行動のモラルの根拠として、未来を置くのか、
あるいは現在ないし過去を置くのか、ここで人間の行動の様式とモラルが完全に変ってきちゃうのです。
省1
381: 2011/06/18(土)11:57 ID:52xFyZvr(3/5) AAS
世間では進歩的、未来に向って、明るい未来に向って、人類の将来に向って、お手々をつないでというのが
大好きですな。(中略)ですが私はそういうミーハー受けのするスローガンにはいつも疑いの目を向ける。なぜ
私が未来がないかと申しますと、未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、
連綿たる過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、その一番ラストに
自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は日本というものの一番の精髄をになってここにいま
立って、そこで自分は終るのだ。そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な
誇りは持てないと思います。(中略)
文化というものはずっとうしろからつながってきて自分のところで途切れちゃう。そうするとこれから未来へ
つなぐには誰がやるだろうか。それは私より若い人がいるのだし、また自分がおしまいだと思っている若い人が
次々と出てくるからこそ、いつも文化というものはそうやってつながっていくのだ。
省1
382: 2011/06/18(土)11:57 ID:52xFyZvr(4/5) AAS
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
自分がどうやって死ぬかということは大体五十、六十になってくると先が見えてきちゃう。それを未来を所有する
というのです。青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
(中略)青年が未来に対して野心を燃やし、幻影を持つのは当然のことであります。ただその場合に、最後に
自分というものが未来のためだけにいま生きて怠けているのではないのだ。明日死んでも十分な生き方をしなきゃ
ならんということが青年らしい考え方だとむしろ思うのです。「葉隠」なんかでも、日々死を心に当てて生きろと
いうことをいっておりますが、朝起きた時に今日死ぬかもしれないという気持だったらば、どれだけ人間は
全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない。そういう表現の中にしか人間の生死観も、文化というものの力も
自分を護る決意もないのじゃないか、こんなふうなのが私の未来観であります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その三」より
383: 2011/06/18(土)11:58 ID:52xFyZvr(5/5) AAS
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。(中略)もし美しき社会主義を夢見れば
醜き社会主義にやられてしまうんだ。
私が共産主義を嫌いなのは美名をもって人間をたぶらかすからです。そして私は偽善というものが嫌いなんです。
共産主義は自由な未来に向って人間を唆す毒薬だと思います。
第二次大戦後に(アジアで)民族自決主義がリバイブしたのはあくまでも大東亜戦争の直接の影響だと思います。
それによってアジアの諸民族が自信を持って民族独立の道を歩き出したのだと私は信じて疑いません。
文化というものは結局マルキシズムの階級史観では絶対に解明できない。あらゆる哲学者が文化論、芸術論になると
失敗するのです。
十九世紀の主権国家の理論で私は日本の国家を規定して、その国家を守れといっているのじゃないのです。国家は
さまざまなんです。国家は我々なんです。
省3
384: 2011/06/21(火)11:38 ID:v4Hbjp4D(1/2) AAS
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。そういうときに何が
あるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
ぼくの考えをいうと、「わだつみの像」というのは、ある悲しい記念碑ではあるけれども、どこに根拠があるかと
いうんだ。テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか
出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる。「きけわだつみのこえ」なんていうセンチメンタルな本を誰かが
作為的に集めて、平和主義の逆の証明にして、ああいう像をおっ立てた。全学連は、何だかわからないんだけれども、
この野郎、大学の進歩教授と一つ穴のムジナだろうと、ひっくり返しちゃった。(中略)この次ひっくり返すのは、
広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本は
よくならないぞ。
「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ。前からぼくは反発していた。
省2
385: 2011/06/21(火)11:39 ID:v4Hbjp4D(2/2) AAS
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは
“正しい”という意味なんだから。(笑)
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田:昭和維新ですね、今は。
三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
省4
386: 2011/06/22(水)12:35 ID:iuz5AX3g(1/4) AAS
三島:戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは必ずしも信じない。
(中略)客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的条件というのはないんだ、
それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかが
かもしだされてくる。
三島:ぼくは、戦後の人間というのは、新左翼でもなんでも、西洋人になっちゃたんじゃないかと思うな。
西洋人はそんな行動(犬死)はとらないよ。必ずリミットがあるんだ。
けっきょく、人間の生命ほど尊いものはない、という考えだよね。その考えが、どっかで掣肘するんだ。
野坂:だから自分の生命ほど尊いものはないんであって、実際問題としては、人間なんて他人が何百人死のうと、
どういうことはないわけでしょ。彼らは、そういうことがはっきりわかっている人なんですね。
三島:ウン、そうなんだよ。
省2
387: 2011/06/22(水)12:36 ID:iuz5AX3g(2/4) AAS
未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに
続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に
反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。高見順がああいう気の毒な一生を送ったのは、
そういうことなんだよ。
ただしね、自分が終りだということは、谷崎潤一郎もそうだったろうな。川端さんもそうなのかもしれない。
人のことをいっちゃ卑怯なら、おれもそうだ。(笑)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して
自分をプロセスと規定しないことだよ。
滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。(中略)客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。
しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
省2
388: 2011/06/22(水)13:49 ID:dJ/bcZmJ(1) AAS
いま石原慎太郎のやってる右巻き放言が三島の劣化コピーって気もしてくるな
石原の方は馬鹿を引っかけて信者として確保程度の効能しか感じないが
389: 2011/06/22(水)16:16 ID:iuz5AX3g(3/4) AAS
村上:日本人というのはどうしてこう人がいいのですかね。だまされやすいというのか。
三島:ぼくはだまされやすい云々よりも、言葉が軽視されたということがすべての間違いのもとだというふうに
思うのですけれども、たとえば戦術的にいっても、政治の基本は、言葉で「おれはあした羽田から発つ」というと、
羽田から発たなければならないというのが政治のルールと基本であって、(中略)こっちも「あした首相官邸を
占領する」といったら、その言葉は文学の言葉と本質的に同じ重さを持つべきだ。
村上:武士に二言はないと言う。
三島:それでね。ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたら
やらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから「十一月に死ぬぞ」といったら絶対
死ななければいけない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗するのはその一点を措いてないのですよ。ぼくはそう
思うのですね。
省2
390: 2011/06/22(水)16:17 ID:iuz5AX3g(4/4) AAS
それを全部戦術である、あれはああいって敵をだまかしたのだ、実は死ぬ気はなかったので、ちゃんと戦力は
温存してある、首相官邸をどうせ占領できないことはわかっているが、敵の目をくらますためにそういったのである、
などと言う。これは戦術というものの一番最低の戦術ですね。欺騙行動というのですけれども、ぼくはそれは
もう言葉がばかにされている段階だと思うのです。一度言葉をばかにしたら、あと永遠にこれをばかにしなければ
ならない。
「言霊の幸ふ」というのは、紀貫之が「猛きもののふの心をも慰むるは歌なり」ですか、「古今集」の序に
ありますね。言葉が現実というものを支配しているのだ、そうして現実の人間感情というのは結局その言葉から
出て来たものでできているのだという、現実に対するアンチテーゼを立てる立て方なんですね。(中略)あの言葉は、
言葉が先であって、現実が先なんだということは一言もいってない。(中略)
しかしぼくが一歩言葉の外に出ればそこじゃ責任は完全にかかってくるという考えですね。
省2
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