【無名】東京の武将たち【知りたい】 [無断転載禁止]©2ch.net (786レス)
上下前次1-新
655: 2021/11/02(火)07:30 ID:2O4FuQAY(2/2) AAS
実証主義が通じない
656: 2021/11/04(木)20:46 ID:6hJiAqT8(1) AAS
1番上の棟札
改行等も正確に書くと
相州故太守早雲寺殿天岳
欲建立而不果矣依之令
太守伊勢平氏綱新造畢
意識的に宗瑞は書かずにいるんではないか
657: 2021/11/04(木)22:59 ID:OrRCJGC5(1) AAS
もし件の伊勢氏が盛を偏諱として使用したとするならば、臼井盛胤はもしかしたら
伊勢盛時とのつながりがあったのかもしれない。さすがにそれは遠いか。
舎人氏
道灌死後の話を書かせてもらったが、この道灌死後の時期においてと考える舎人氏の
動向、その一つとして平手政秀の生母と沢彦宗恩の存在がある。まず舎人氏は近隣の
小見山氏同様いつの時代からは難しい。戦国時代中期に関しては舎人経忠や舎人孫四郎を
確認できる。では政秀母と沢彦だが、政秀母は舎人三河守輝季の娘で政秀が1490年代
生まれだとすると舎人氏と平手氏に関係ができるのは70~80年代、そして輝季は
享徳の乱の時期の生まれと推測でき、後年に舎人氏が存在することから一部が尾張に
移動したか、なんらかの政治の動きがあったかは不明。また沢彦の俗名が
省4
658: 2021/11/05(金)12:10 ID:Rub2bYF2(1) AAS
浅草と島津氏(後藤島津)
まず浅草だが1521年に氏綱の命によって古河公方の所へ富永三郎左衛門は赴いた帰り
に浅草に立ち寄った。氏綱はお金にまつわる話を富永から聞いて小田原に弁財天を
勧請した。(24年の太田資高の内応への誘いはこういった動きの中で
行われたのかもしれない。)24年に近い時に遠山新五郎屋敷への狼藉を禁止する
御触れを浅草郷へ出している。このことは24年の品川の妙国寺、本光寺への
禁制とは真逆(寺への狼藉)で、浅草近辺はまだ後北条氏との繋がりが薄いことが
窺える。仮定論では後年の太田資正の浅草寺や石浜宗泉寺や品川妙国寺、本光寺への
制札があったからといって収めたとはみないのと同様この時はまだ近隣の
義明を後ろ盾にする武蔵千葉氏とせめぎ合ってたと見ている。
省10
659: 2021/11/06(土)10:36 ID:ktQzpqu+(1) AAS
増島重明……1613年練馬高野台に弘法大師像を祀る庵をつくる。
その甥重俊が観音堂などを建て、1640年に小池坊秀算により十一面観音像が作られ
長命寺となる。十一面観音は妙見菩薩と並ぶ千葉氏の信仰である。
〇〇ー重胤ー重興ー重明とするらしいが、
なんとこの○○は北条早雲であり、つまり
そのひ孫だと言う。どちらかと言えば千葉氏な気がするが、刺激的なお話。
660: 2021/11/06(土)21:18 ID:lUYj+1G/(1) AAS
寛永系図か寛政譜の島崎氏も早雲落胤といってたな
661: 2021/11/06(土)21:44 ID:brpZJ4+s(1) AAS
自称落胤やら自称末裔やらがあっちにもこっちにもいたってことは、
伊勢宗瑞も将門公並みの「箔」になるのか。
662: 2021/11/07(日)12:57 ID:f2EZeI6a(1) AAS
まあ名門伊勢氏だもんな
663: 2021/11/12(金)14:28 ID:8g4M4Hao(1) AAS
河村氏
元々は河村城を収めていた通字が秀の氏族か。
河村城地域は戦国時代初頭は大森氏の支配になっている。小田原城になにか関連したか。
その後は遠山綱景の弟秀重が入り、おそらく新倉所領の川村氏も同一族。
新倉は元々武蔵千葉氏の所領の可能性があり、改編後に入植したか。
他にも麻布、府中を収めた狩野氏や同じく府中の井田氏が先の時代や別地域の者と姓が同じものが
多くいるが安易に結んではいけないと感じつつ、徳川氏の幕府設立時の再雇用と同様に
伊勢氏後北条氏によって再台頭した氏族や蕨城の渋川氏系図から義鏡の代ではなく、
その孫の代で枝分かれした三河板倉氏(つまり蕨から移動した氏族)のように人の移動の波が
解明されればまた戦国史が違ったイメージになるような気がする。織田信長徳川家康でさえも
省2
664: 2021/11/13(土)21:41 ID:wXHv2/1K(1) AAS
渋江氏や岩槻が武蔵千葉氏の所領の可能性の補完
岩槻には原氏が居た残り香が存在する、原氏館や妙見信仰があったとされる。
伝承では小西原氏系の原虎胤ではあるが、行方氏と同様に異なった原氏が
移動してしていた可能性を感じる。史料が比べれば残っている下総千葉氏にその影が
ないことから地理的にも単純に武蔵千葉氏と考える方が筋が通る気がするところである。
665: 2021/11/14(日)17:14 ID:6rJozIXT(1/2) AAS
山内・扇谷(旧太田道灌勢力を除く)の最前線、大石・三田・平山(山内)
難波田(扇谷)を想像したいのだが……通説では前の三氏は1546年河越城の戦い後に
後北条氏に従い、難波田氏は同戦いで没落している。また1537年の河越城奪取の際の
少し前に両家共々の最前線に深大寺城(調布)を扇谷上杉氏の命によって難波田氏が
増築している。堅固な守りだったか戦略的にか後北条氏は北上より東征の道を歩んだ。
ただし、難波田氏は扇谷上杉氏の防衛に勤しんだと考えられるが、前三氏が南下し
なかった理由はなぜであろうか……
666: 2021/11/14(日)17:32 ID:6rJozIXT(2/2) AAS
いや武田信虎と合わせて後北条を攻撃しているわけだから南下はあったということか……
667: 2021/11/14(日)18:01 ID:E0RMPSCW(1) AAS
そこが他地域とは全く違う、関東平野・武蔵野台地の怖い(?)ところ。
此処ぞ必争の巷也と見定めて守りを固めたり攻め寄せたりしても
「いつになっても敵が来ねえええええ」ということがよくある。
他地域の如く狭隘な地形に規定された不可避の会戦というのはよっぽど敵味方双方の気が合わなければ(笑)起き難い。
広闊茫洋の地形故に行動経路・順序の自由度が高いから相互が勝手に「独自の戦い」を遂行できてしまう。
敵の拠点を焼いてやったぜ、と凱旋したら己の拠点が焼かれてました、とか。
氏綱期の北條と上杉の闘争には特にこの愉快なパターンが目立つように思う。
668(1): 2021/11/15(月)20:29 ID:LtnQx0vZ(1) AAS
勝沼氏と勝沼城(青梅市)には関連があるだろうか。勝沼氏は勝沼信友(武田信虎弟)で
勝沼城は三田氏の居城である。勝沼氏は小山田氏と近く、小山田氏はその東で
武蔵国との境界に位置するところである。また同じく境界には加藤氏が居て、
同じ景を通字とする加藤氏が里見氏の家臣に存在する。15世紀中期から16世紀前期に
人が大移動しているので意味を深く求めすぎるとはまってしまいそうではあるが
興味深いことでもある。小山田氏は郡内地方との結びつきが強いが、現町田市も
後北条氏から所領もそれ以前から持っていた可能性も考えたい。安房加藤氏は
上総武田氏に一部が従ったか。勝沼はたまたま同じとも考えられるが、いやそれが通常だが
武田氏の大移動、武田氏と三田氏の関係など含めてなにかあるのかもしれない。
669: 2021/11/19(金)09:27 ID:rvoOE5rL(1) AAS
中条氏
仮定としていくつかのルートの中条氏を示したい。まず熊谷市の中条氏は藤原氏・横山党
ではないという話を採用したい、熊谷中条氏は上野、越後と移動しているようだ、
なので熊谷ルートはここでは除く。そのほかに3ルートを書きたい。
はじめに吉良氏家臣系中条氏、1300年代には吉良氏は世田谷を所領の一つとして持ってたと
され、さらに地侍中条出羽守が世田谷と大牧(浦和市)を預かってたようだ。
後述の中条氏も出羽守であると考えられるが、調布の一族はこの一族ではなかろうか。
と、すれば吉良氏の動向と合わせ想像したいところだ。
次に三河国高橋荘などの中条家長の末裔の一族で結城合戦で下向した中条満秀の子
(当主は弟の満平が継ぐ)で持の付く中条氏でおそらく持胤に続く、もしも胤が
省26
670(1): 2021/11/20(土)02:18 ID:xRczVrpe(1/2) AAS
仮定論で小田原城を親今川派大森氏が譲渡し山内に下った者と今川氏に付いた者と
大森氏は分かれたと見た。また山内に付いた大森氏は小田原城に居城していなかったと
見た。根拠としては後北条氏で存在する大森殿。特別な格の待遇を受け江戸衆として
存在する。小田原城に関しては氏康を入城させ、後北条氏初期の根幹を担った。
少しあとの時代で上田朝直の元に居た難波田憲次(大森氏)が憲重の死後、憲重の娘で
ある母のつながりよってつまり孫が難波田氏を継いでいる。この憲次の父が顕定(実頼)
、藤頼の兄または憲次自体が実頼藤頼の弟、山内に付いた者であろう。この大森氏は
上田氏の元に赴くまでは扇谷上杉朝昌から山内が奪った七沢要害に入ってたのでは
ないだろうか。仮定論では小田原城も真田城から攻めやすく山内が一時のみ在城したと
見ている
671(1): 2021/11/20(土)02:35 ID:/2i0OQPM(1) AAS
>>670
下記にその辺りに関する愚見を書いた。
暇があれば御一読の上、御批判を。
2chスレ:history
672(1): 2021/11/20(土)21:33 ID:xRczVrpe(2/2) AAS
>>671
拝読しました、興味深かったです。
黒田先生のあとがきの受け売り何ですが、本当にこの時代は全貌さえも難しく、
今ようやくで、これからの研究の動きなどドンドン進むだろうと。本当に思うのは
関東甲信越に東海(そこまで行くと中央もですが)連動した動きがあり、またその
個々の内部における動きを時間軸、地理軸の二方向にさらに文化軸、経済軸、軍事軸、環境軸
を加えて同時に脳内で動かそうとするとどうしてもメモリ不足か脳がクラッシュする。
言い訳になってしまう部分があるんですが、なので自分はある程度史観に重きを置いて
見ています。ですから自分が他の方の学びに関してなにかというのは、恐れ多いというか
単純に成程と、脳に入れて出し入れさせて頂くという感じです。だから地震の観点から見る
省17
673: 2021/11/22(月)21:55 ID:zFGH4SRV(1) AAS
>>668
加藤氏は元々通字が景
遠山氏の通字が景なのも加藤氏流だから
674: 2021/11/23(火)06:32 ID:FhNF2b3x(1) AAS
確かに加藤氏おもしろいな、wikiをパッと読んだけど
上野原加藤氏の項か武田信長から景春、小山田から独立しながら武田氏に従ってる
で、確かに里見の加藤が信長に従って上総に流れてって説があるみたいだな
あと勝沼信友の子が加藤氏に養子ってのも確かになんかあるのかもな
小山田と一緒に北条を助けるために八王子に出陣したり、攻めるために出陣したりまぁ忙しいなw
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