★あとはよろしく (379レス)
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110: 06/12(水)02:00 ID:xGGOIpCDF(5/14) AAS
  中立のリアル・・・・・・・27

 このように中立は簡単な政策ではない。ある一時だけの中立ならともかく、ずっーと
中立を国是として貫くのは、至難の技といっても良いでしょう。中立国は戦争に勝手に
巻き込まれることもない代わりに、他国に守ってもらうこともできない。時には友好国
を見捨てる事になり、恨みを買う。同盟国を持たないため、単独で国防をせねばならな
い。自主防衛どころか、これでは孤立防衛である。この中立を守るに、マキャベリズム
の「狐の知恵と獅子の勇気」にとどまらず、そのうえさらに「貝の辛抱」が求められた
のである。別の言い方によると「(中立政策とは)氷のように冷血で、利己的、かつ、
生存のための可能性の政策」とされる。これが試されたのが、スペインである。スペイ
ンは第一次世界大戦でも出遅れた国とされた。かつて大国だったスペインは、まだまだ
省11
111: 06/12(水)02:01 ID:xGGOIpCDF(6/14) AAS
 世界は金に飢えていたのか
112: 06/12(水)02:01 ID:xGGOIpCDF(7/14) AAS
  中立のリアル・・・・・・・28

 しかし、にわかに起った、1848年カリフォルニア・ゴールドラッシュが起り、それに
続いて1856年のアヘン戦争とアロー戦争の後始末や、1854年の日本の開国には。その後
のアラスカ州での数回のゴールドラッシュ(ノーム、フェアバンクス)が発生までも、
世界の帝国銀行の金庫を満杯にした。そしてその金はスエズ運河や、中東の鉄路という
砂漠の開発と、石油掘削に使われたのである。第一次世界大戦は1914年〜1918年の間に
起こった戦争だが、実はその前哨戦に中東クリミア戦争があった。1853〜1856年ロシア
は、南下政策を積極化させて、オスマン帝国に宣戦したことで、イギリスとフランスの
この中東投資の回収に赤信号が灯ると、積極的に参戦した。サルデーニャも、オスマン
帝国を支援し、列強間の戦争となったが、かろうじて近代科学の石炭船で、ロシアを、
省12
113: 06/12(水)02:02 ID:xGGOIpCDF(8/14) AAS
 世界で急に ユダヤが 溢れ出す。
114: 06/12(水)02:03 ID:xGGOIpCDF(9/14) AAS
  中立のリアル・・・・・・・29

 パレスチナの地は、長い間イスラーム国家の支配下だった。が、突然にこの地をユダ
ヤの地である。とユダヤ人がプロパガンダし広報作戦に出た。これまで居住していた、
イスラム教徒は、さんざん十字軍の遠征などでキリスト教徒と対立していたのに、今度
は、ユダヤ教徒との三者は共存関係を維持する事になる。当時のパレスチナを支配して
いたのはオスマン帝国であり、こうした入植は、規制されなかった。何故ならそもそも
イスラム教も、旧約聖書の、商人の誓いとして成立した、経済宗教であり、自由な往来
を護る事に宗教主旨があったからだ。しかし、ドレフュス事件などの影響もあって、パ
レスチナ入植の、ユダヤ人の数は徐々に増え始めた。これまで一人もいなかった砂漠の
地に忽然と現れた横暴な白人の金持ち集団である。更に世界の一連のゴールドラッシュ
省11
115: 06/12(水)02:04 ID:xGGOIpCDF(10/14) AAS
 歴史の中の 幸せな国家は、乗り遅れて大帝国を築いた
116: 06/12(水)02:09 ID:xGGOIpCDF(11/14) AAS
 歴史の中の 幸せな国家は、乗り遅れて大帝国を築く
117: 06/12(水)02:09 ID:xGGOIpCDF(12/14) AAS
  中立のリアル・・・・・・・30

 1914年に国際的異常、は更に天候不順での不作もあって、農業関係は、3つの元凶が
農奴の特に植民地化していた、欧州のパン籠である東欧には、大きな不幸が押し寄せた
。そこで、オーストリア=ハンガリーのフェルナンド大公の皇太子暗殺事件が起こる。
サラエボ事件である。オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナでボスニア系セル
ビアに襲撃されたのである。当初、各国はよくある暗殺事件であり、大事件のままで、
戦争になるとは、誰も思わなかったのであるが、ここに大国オースリアの後ろ盾を無く
した事で、小公国の集まりで出来たばかりドイツ連邦の舵取りに、ドイツ皇帝ヴィルヘ
ルム2世に暗雲が垂れ込める。これが2つ目の不幸である。当時、プロイセン皇帝から
ドイツ皇帝になりたてで、共和制議会政治を始めたばかりであった。その上で、この、
省10
118: 06/12(水)02:10 ID:xGGOIpCDF(13/14) AAS
 アラゴン王女はプロセン帝国に、そして息子はドイツ帝国に
119: 06/12(水)02:11 ID:xGGOIpCDF(14/14) AAS
  中立のリアル・・・・・・・31

 しかし、カールの時代は、まさに大航海時代にあたり、この大航海時代の知見は富者
を蔓延らせ、農民の抵抗運動と宗教戦争が起こった時代だった。カールは、ドイツ王・
神聖ローマ帝国皇帝を出すハプスブルク家の出身ではあったが、昔からのハプスブルク
家の、全ヨーロッパに巡らした婚姻政策が続き、純粋なドイツ人とは言えなくなってい
た。父(フィリップ)の両親つまり祖父と祖母は、祖父マクシミリアンでドイツ人(そ
の母はポルトガル王女)、祖母マリアもブルゴーニュ公国の王女でフランス人。また母
のファナ(狂女ファナ)は父フェルナンド(アラゴン王)、母イザベラ(カスティリャ
女王)で両方ともスペイン人。だから3代前にさかのぼればカールにはドイツ人の血は
8分の1しか流れていないと言うスペイン血脈であった。生まれた場所は父の領地の里
省12
120: 06/12(水)09:24 ID:zxbLDsqp+(1/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・32

 宗教改革と三十年戦争で、オーストリア帝国は、カトリック体制の強化が進んでいく
のだが、修道士会の、フランチェスコ会や、イエズス会などが出て来て、その改革は、
依存するようになり、宮廷文化が開花し、バロック建築やバロック音楽が出来ていく。
その後も、幾つもの戦争を嵩ねながら、オーストリアは、国内の体制を固め、1683年に
、オスマン帝国による第2次ウィーン包囲の危機を脱し、オスマン帝国の弱体化に乗じ
て、バルカン方面への進出を開始するのである。フランス生まれの、軍事的天才オイゲ
ン公の活躍もあって、1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国からハンガリーを
奪回を果たしたのであるが。……カルロヴィッツは、現在のセルビアの首都ベオグラー
ドの事で、オスマン帝国はオーストリア・ポーランド・ヴェネツィアに土地を切り刻ま
省10
121: 06/12(水)09:24 ID:zxbLDsqp+(2/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・33

 オーストリアはイギリス、オランダ、プロイセンなどと共に、対フランス同盟を結成
していた時代だった。、有利な戦いを進める事が出来て。結局、スペイン王位は、ルイ
14世の孫フェリペ5世が継承することで、戦争は終着をみたが、此の時、スペインと
フランスが敗けて、1714年のラシュタット条約では、スペイン領であった南ネーデルラ
ント(旧オランダ)、ミラノ、サルデーニャなどを獲得して実利を得て、大国としての
地歩を固めるのである。このスペイン継承戦争でのハプスブルク家同士の身内の闘いは
、その後に身内の結束は無く、同じ様な身内が戦う事を示唆していた。更にこの条約に
イギリスが全く関わっていなかったのだ。この戦争ではフランスとスペインが実質的に
敗れたので、それまでスペイン=ハプスブルク家領であった南ネーデルラント・ミラノ
省11
122: 06/12(水)09:25 ID:zxbLDsqp+(3/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・34

 ナントはフランスの黒人奴隷貿易の拠点港で、商業も盛んであった。ブルジョワ階級
が一定の成長を遂げ、フランス革命が起きるとジャコバン派共和国政府の拠点都市とも
なった。1793年3月、南西部の農民のヴァンデーの反乱が起き、農奴軍はナント攻撃を
目標として進軍した。共和国の総督カリエが防衛するが、彼は非情で、反乱軍捕虜を、
集団で溺死させる。など残虐行為で反乱軍を撤退させ鎮圧した。この共和派の虐殺行為
が「ナントの虐殺」で、「ナントの王令廃止」を行った意図であった。自ら熱心な信者
でありカトリックの保護者と自認していたルイ14世は、「一国一宗派」にこだわった
。ナントの王令が廃止され、結果、数十万のプロテスタントが密かにフランスを逃れ、
イングランド、オランダあるいはプロイセン、スイスなどに亡命したのである。ユグノ
省15
123: 06/12(水)09:26 ID:zxbLDsqp+(4/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・35

 この、鉄とガラスと蒸気機関は、やがては石油の燃料機関と電気通信を産んでしまう
。こうして、第一次世界大戦が勃発すると、中央同盟国側に立って 参戦したオスマン
帝国に対して、協商国側のイギリスは、侵攻を開始した。イギリスは諸民族の混在する
中東地域に目を付けて、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んでいた。まず
、1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーと、イギリス
の駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間で、「フサイン=マクマホン協定
」が結ばれていた。ここでは、中東地域のアラブ人の独立支持を約束したのである。次
いで1916年5月、秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間で「サイクス・ピコ
協定」が結ばれて、この3国協定によるオスマン領中東地域の分割が決定されている。
省14
124: 06/12(水)09:59 ID:zxbLDsqp+(5/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・36

 ヨーロッパ戦線が世界戦争へと発展する前に、列強といわれる国々が帝国主義を掲げ
覇権を争う大規模な争いを展開していく。帝国主義を背景とした戦いはしかし、此の時
の背景に、各国の思惑が交差していて、「サラエボ事件」をきっかけに爆発し、瞬く間
に広まってその前段には、スペイン内乱、独立戦争が起こっていたのだ。フランスで、
共和制議会が出来ても、スペインはブルボン王朝の格式に於いて、王朝の廃止を望まな
かったし。ナポレオンは1808年に、スペインに軍隊を侵攻させたが、激しい抵抗を受け
挫折、スペイン=ブルボン朝を倒し、兄ジョセフをスペイン王とした。が尚もスペイン
の民衆は、ゲリラ戦で抵抗する。と言う構図になり、ナポレオンは、自らスペインに、
遠征し反乱制圧に向かう。鎮定するも今度は反転し1812年、ロシア遠征に向かう事にな
省15
125: 06/12(水)11:16 ID:zxbLDsqp+(6/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・37

 16〜17世紀のヨーロッパ戦争は、個々には、宗教的対立でカトリック対プロテスタン
トという対立が軸となっても、基本的な性格は、王位継承権による領土問題だったのだ
。ここで問題は、プロテスタント国であるプロイセン公国は、このときカトリック国で
あった事だ。オーストリアを支援し、その功績で、神聖ローマ皇帝からプロイセン王国
となることを認められていた。しかし、その支援したオーストリアの皇太子次期王様が
暗殺されたのである。ドイツが狂う事は当然だった。プロイセン公国からドイツ連邦に
なって、これからと言う時だったからだ。これまで、米国が台頭する前は、戦争という
のは、この宗教対立を解消したフランス+スペイン連合に対して、イギリス・オランダ
・オーストリアの同盟という、ヨーロッパを二分する陣営で戦われていた。が、同時に
省15
126: 06/12(水)11:18 ID:zxbLDsqp+(7/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・38

 即ち、地中海防衛のフランス海軍の優位性や独占権を認め、大西洋航海の英国の覇権
主義や海賊行為を認める。といった協定である。しかし、納まらない国がスペインであ
り、ドイツだった。モロッコ分割に、遅れて手を出し、新たな植民地帝国を目指した。
と言うドイツのヴィルヘルム2世は、フランスの同盟国ロシアが、日露戦争で苦戦して
いる形勢を見て、ヴィルヘルム2世は1905年3月31日、自らモロッコのタンジールに
上陸してスルタンと会見し、フランスのモロッコ支配を牽制し排除を願い出た。第1次
モロッコ事件(タンジール事件)である。これは「モロッコ問題」という、国際紛争と
なり、翌1906年にアルヘシラス会議が開催され、モロッコ国王も参加した上で、列強は
機会均等・門戸開放と共に、モロッコの主権尊重を取り決めた。がこれは、実質的に、
省14
127: 06/12(水)11:31 ID:zxbLDsqp+(8/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・39

 第一次大戦は、このドイツの孤立から始まっている。気が付けば、ドイツは孤立して
頼る国は、隣国オーストりアしかなく、欧州の食糧庫の、東欧も取られそうになった。
1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争は
じわじわと始まった。帝国主義国家の大国の、ドイツ・オーストリアが中心の同盟国と
イギリス・フランス・ロシアを中心とした、条約提携国、即ち協商国の二陣営に分かれ
、ヨーロッパを主戦場として戦う事になった。これは、ひとえに、敵国だったロシアや
イギリスと、フランスが相互防衛協定即ち、戦う時には味方する。と言う条約による物
であった。根本的な要因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こっ
た帝国主義戦争であったが、主因としてはバルカン問題における オーストリアとセル
省13
128: 06/12(水)11:41 ID:zxbLDsqp+(9/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・40

 第一次世界大戦中のスペインは、往時に植民地主義の開拓者で、国内には民族統一の
意志は既になく、国内が参戦し割れる事を恐れて、中立政策をとりました。スペインは
1914年〜1918年までの、大戦を通じて中立を保ち、国内の経済的困難にも関わらずに、
「1915年までにヨーロッパで最も重要な中立国の一つ」とみなされていた。また、スペ
インでは、共和制が宣言され、国王アルフォンソ13世に退位を迫られた時期もあり、既
に共和制の議会派と、伝統的国王に頂点をもつ王党派が、四つ組みになって、対抗し、
分裂していたのだ。スペインの歴史には、先史時代から古代、中世、近世、近代そして
現代に至るまで、さまざまな要所々々の時期に顔を表す大国である。ローマ帝国支配、
ウマイヤ朝の到来、レコンキスタ、フランコ体制など、興味深い出来事の数多くの先鞭
省14
129: 06/12(水)11:42 ID:zxbLDsqp+(10/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・41

 最初のスペイン風邪のウイルスの発生は1918年3月の米カンザス州だと考えられてい
る。米国では1917年4月の参戦以来、徴兵制が敷かれ、全米中の田舎からの若者たちが
、訓練所に集められ鍛えられた。しかし、全米に数多く作られた訓練所の宿舎は、急ご
しらえの上に、詰め込みで、ウイルスが伝染する環境としては、かなり、適していた。
こうして、ウイルスを持った若者までもがやって来て、訓練を終了した順にヨーロッパ
の戦線へと、船に乗船し派遣されていった。3月の時点では、すでに25万人の米兵が、
欧州に渡り、本国では138万人が、渡航のために待機していた。が此の時、ウィルソ
ン大統領の理想である「自由と平和」を希求するはずの戦士達に、異変が起る。皮肉に
も病気の運び屋となっていた上に、船内がこの病気の培養所と化して、船旅にでたので
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