[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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354: 2021/02/20(土)01:09 AAS
結局、今日もすでに考古学的にも文献学的にも、地質学的にも完全論破されて破綻しているトンスル民族願望を
しつこく声高に叫ぶ声闘コピペに終止するしか能のない糸島朝鮮人はいい加減首を連れってwww
355
(1): 2021/02/20(土)22:58 AAS
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
外部リンク[html]:www.yoshinogari.jp

伊都国(福岡県糸島市)

百里

奴国(福岡県博多湾付近)

省17
356: 2021/02/21(日)03:27 AAS
AA省
357
(1): 2021/02/21(日)16:11 AAS
>>327
建御名方神は旧八岐大蛇系の本州水軍、
建御雷神は旧八雷系の豊国水軍、
となりますが、
では建沼河男命はなぜ「建」がついているのでしょうか。

八千矛神が沼河ヒメを口説いたのは銅矛銅剣戦争末期であり、
建沼河男命は荒神谷遺跡とほぼ同時期に産まれたばかりです。
成人する頃には銅剣銅矛戦争はとっくに終わっていますね。
358
(4): 2021/02/21(日)16:12 AAS
これはつまり、対馬からの半島出兵に従軍した、ということですね。

秀吉と同じに考えたらわかりやすいですね。
国内の戦争が落ち着いてから、約10年後に半島出兵しましたね。

中広形銅矛は対馬にも集結しており、
伊都国を挟んで二方向作戦を行うのは無理がありますから、
兵站の構築・維持を考えると、
銅剣銅矛戦争が終了して戦後処理が終わってから、半島出兵したわけです。

目的はもちろん、鉄資源入手ルートの確保でしょう。

鉄資源:半島→対馬海峡→瀬戸内海→五斗長垣内遺跡
木材・炭:北部九州←瀬戸内高地性集落群→五斗長垣内遺跡
省3
359
(2): 2021/02/21(日)16:13 AAS
土井ヶ浜遺跡の副葬品からはとても将軍がいたとは思えず、
むしろ貝輪以外は至って質素ですから、
建沼河男命という人はたいした軍功をあげられずに帰国し、
あとは故郷で貝輪だけ作っていた、ということになります。

一方の建御名方神は、
カモ系の阿遅鉏高日子根を差し置いて下関に名を残し、
国譲りの時はワニ系の事代主と並ぶリーダーですから、
ここまでの水軍を任せられるということは、
半島出兵でもかなりの戦果をあげた、ということになりますね。

元々が山口県の周防(すわ)の神で、
省3
360: 2021/02/21(日)16:13 AAS
15歳で元服として、
兄弟のいずれもが戦役に参加しているわけですから、

時系列としては、
>>341
>奴国より東側の中広形銅矛、つまりは旧銅剣女王国の領域を征服した中広形銅矛とは、
>10年未満の期間に収まる、

荒神谷遺跡から10年後くらいに、対馬からの半島出兵が始まり、
荒神谷遺跡から15年後から数年間は確実に戦争していた、
ということになります。

対馬以北の中広形銅矛ですね。
361
(3): 2021/02/21(日)16:14 AAS
55-56年に後漢の楽浪郡使が倭地の里程測定。(北部九州〜下関〜淡路島)

57年に倭の奴国が朝貢。印綬。
『建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬』

58年に金印後漢使が来倭。
『漢委奴國王』
漢は奴国王に(倭地を?東夷を?)委ねる。
(後の難升米は皇帝崩御に巻き込まれて洛陽に1年余計に足止め)

59年頃から国譲りイベント開始。使者で+11年。
70年に奴国王失脚。
362
(1): 2021/02/21(日)16:15 AAS
考古学的に、奴国で洪水があったことが確認されており、
金印授与という国際イベントのために奴国の木材を臨時大量伐採したことで、
大洪水を引き起こしてしまった、と考えられるわけですが、

いきなり大洪水+疫病だと、その時点で奴国王は古代出雲へ避難するでしょうし、
天菩比や天若日子も被災地の奴国に留まろうとはしなかったはずです。

ということは、順番としては、まず疫病発生→11年後に大洪水、だったわけですね。
363: 2021/02/21(日)16:16 AAS
疫病は金印後漢使が洛陽から直輸入で持ち込んだわけです。

麻疹、天然痘、インフルエンザなどが考えられます。
抗体保有率ゼロパーセントの島国で、しかも弥生時代なので医療設備がありませんから、
麻疹が流行すると致死率が40%を超えてきます。

これは後の『親魏倭王』金印の時も同じことが起きたと考えられます。
魏の四万の大軍が遼東半島まで押し寄せ、帯方郡と倭国は緊密に連絡し合い、
倭使が何度か洛陽と往復しています。

三国志によると、
青龍二年に魏で、
青龍三年には魏の洛陽で、
省4
364: 2021/02/21(日)16:16 AAS
>>361
58年に金印後漢使が来倭して、59年頃から疫病が発生します。

奴国の混乱に乗じて、
伊都国王家は奴国征服のために軍を発動します。
天忍穂耳は天浮橋(海の中道)から、那珂川河口を遠望したところ、
奴国二万戸ですから、数万人の死体が河口に漂い、大量の病人が倒れてのたうち回っている。
疫病をうつされてはたまりませんから、引き返したわけですね。

軍で入るわけにはいかないので、弱体化した奴国に降伏するよう使者を送ったが、
うまくいかなかった。

並行して、荒れた山による洪水が毎年のように頻発していて、
省1
365: 2021/02/21(日)16:17 AAS
奴国も不彌國(雀居遺跡)の館も洪水で流され、
奴国王は古代出雲(宗像)に避難します。

伊都国王から奴国王を討つよう依頼された伊都之尾羽張は、
天安川(伊都説だと室見川)の川上にいたとのことですね。

川を塞き止めていたとのことで、
豪雨によって、室見川水系も土石流や流木で天然ダムとなっていた可能性もありますが、

能動的に塞き止めていたのであれば、
洪水で住居を流された奴国被災民が、周辺地域にどっと溢れ出したので、
室見川上流の伊都之尾羽張は、現在で言うと263号線と室見川の交点の辺りで交通を遮断して、
被災民の流入を防いでいたということでしょう。
省3
366
(2): 2021/02/21(日)16:19 AAS
>>339
古代出雲に避難した大国主が討たれたのは、
気多の前(神湊)でも、肥河(宗像の釣川)でも、稲羽(鐘崎)でもなく、
伊那佐の小浜、ですね。

おそらくですが、これは芦屋町山鹿の旧狩尾神社ではないかと思われます。
今は廃社となってしまっていますが。
海に出た鳥居。
千畳敷があるので、剣を刺してその前に座れますね。

厳密には古代伯耆国ですが、
「出雲に避難した大国主」を討ちに行った軍が、
省2
367: 2021/02/21(日)17:21 AAS
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

郷土愛に狂う糸島朝鮮人を筆頭に、思考を停止させた古田信者や在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。無論だが、女王国は「九州」である。

【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
省12
368: 2021/02/21(日)17:21 AAS
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

歴史の真実は一つだけ!
日本史板に糸島朝鮮人の妄想は不要です!

現在の糸島市という広大な土地ををそっくりそのまま伊都国だと思い込むから早良区も伊都国ニダ!志賀島も伊都国ニダ!徳蔵谷遺跡から出土した石鋸も伊都国ニダ!などと色々と妄想が弾むのだろう。
少なくとも同地は明治初年まで怡土郡と志摩郡と明確に分かれており、雷山系の東側は早良郡、唐津湾から西は肥前松浦郡、なんとか取り込もうと躍起になっている志賀島は少なくとも8世紀から江戸時代までは糟屋郡、金印発見の口上書では那珂郡となっている。
何の理由もなく伊都国だった地域が松浦郡(末廬国)に取り込まれたり、志摩半島だけ独立した郡に切り分けられたりするはずもなく、稜線で生活空間の隔たりのある早良郡、沖という生活空間の隔たりのある志賀島が伊都国だったなど世迷い言でしかない。

常識的に考えれば怡土郡の平地30平方キロメートル程度が伊都国比定地となり、やはり魏略より魏志の記述通り1,000戸程度。

外部リンク:i.imgur.com
369: 2021/02/21(日)17:22 AAS
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

地質学的に判明してるのは、ASO4の火砕流や火山灰で甚大な被害を受けなかった九州島の平地は筑前平野くらいで、
縄文人が生き延びられたのもこの地域くらいだってこと

現在の2/3しかなかった筑前平野で発達したのは自ずと彼ら縄文人で、のちの山祇族→(中臣氏、大伴氏、水間君など)

敵対する部族も勢力もない土地でどんぐり拾ったり陸稲しながら狩猟生活でノホホンと暮らしてた彼らの土地に乗り込んできたのが百越で、
のちの海神族→海人族(阿曇氏、三輪氏など)

青銅器と水稲技術を持った半漁半農の海神族たちに筑前平野を追いやられた先は9万年かけて豊かな緑を取り戻した筑後川以南
省8
370: 2021/02/21(日)17:24 AAS
糸島朝鮮人の妄想は考古学的にも文献学的にも、民俗学的にも、地質学的にも完全論破されてるんだから死ねってwww

糸島朝鮮人(別名:糸チョン・伊都クズなど多岐に渡る)は声闘(ソント)という朝鮮に古くから伝わる伝統芸を得意としている。

声闘を平たく説明するなら、声の大きさで相手の言論を封じること。 すでに破綻した妄想のコピペと連投が糸島朝鮮式声闘。

議論が発生したときに論点や内容とは関係なく、ただ妄想長文やこじつけファンタジーをダラダラと居丈高に書き殴り
相手が呆れて相手をしなくなったら勝ちという思考形態を採っており、そこには道理も真実もない。

古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。 現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である。
省4
371
(1): 2021/02/21(日)21:43 AAS
>>358
紀元前2、3世紀の扇谷遺跡も、
1世紀の五斗長垣内遺跡も、
支配地域の最も遠方に鉄工房を作っていますね。

それぞれ、日本海沿岸、そして瀬戸内「木俣」の木材を燃料として大量消費して、
北部九州の森林を保全するためでしょう。

扇谷遺跡から、五斗長垣内遺跡までは100〜200年の間が空いているのですが、
現代の我々が、100年だけ自動車の無い生活を送ることが出来ないのと同じことで、
弥生人も、100〜200年だけ鉄器無しの生活は送れませんから、
どこかにまだ未発見の鉄工房遺跡が眠っていることになります。
省3
372: 2021/02/21(日)21:44 AAS
>>366
芦屋町山鹿といえば、山鹿貝塚があります。

山鹿貝塚は、イザナミなどワニ族女性指導者の墓地だったと考えられますから、
同じワニ族と思われる須勢理ヒメも、女王では無いにしても、
この辺りの砂丘墓地に埋葬されていた可能性が高いですね。

奴国が崩壊して、築き上げた栄誉が一夜の夢と消え去り、
もはや逃れられぬ身と覚悟した年老いた大国主。

数多くの女性と交わった人生でしたが、
最期の時になって思い出したのは、二人若かりし頃の須勢理ヒメが甘えてくる姿。
山鹿の砂丘にある須勢理ヒメの墓前で涙していたのでしょう。
373: 2021/02/23(火)13:24 AAS
ナギラってたぶん柳なんだよ
イザナギもイザの柳
鹿児島か宮崎あたりがクサイなあ
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