[過去ログ] 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16 (758レス)
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(4): 九州王 2020/09/30(水)15:05 AAS
前スレ2chスレ:history
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
省12
739: 2021/08/12(木)23:38 AAS
また、役所を設置しただけでなく、>>714
わざわざ箕輪という地名まで残していること。

銅矛銅剣戦争で言うならば、銅剣勢力は当時敗者であったこと、
下関に名を残していること、
などから、
勝者として瀬戸内を巡視していた、のでしょうから、

そうなると、瀬戸内経済圏を担当する大倭、の海運を管理していたことにもなり、
また金印を保持していた=管理していた、ことからも、

彼が、初代の大倭長官=大物主であった、可能性が高いですね。
740: 2021/08/18(水)16:04 AAS
.

◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。

「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

外部リンク[html]:www.seibutsushi.net
 

ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
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省1
741: 2021/08/19(木)15:02 AAS
.

日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに木骨泥墻が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出して
土壁の住居の時代に入っていた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では7000年前に高床式住居も登場するが、先行した木骨泥墻に
吸収されて5000年前までに消滅し、4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
省3
742
(2): 2021/08/25(水)04:22 AAS
>>693
倭国の現地人である難升米が、司馬懿との対話において、
「伊邪國ではなくて、伊耶國ですよ。」と語ったわけですね。

ということは、
倭地の倭人たちは、や=邪ではなく、や=耶、と表記していたことを示しており、
魏志倭人伝に一か所しか記載されていない邪馬壹國の壹は臺の転写間違いとしたら、
倭人自身は、表音訓読では「耶馬臺國」と表記していたことになります。

それと、廣志に記された、>>671の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。
省9
743: 2021/08/25(水)15:47 AAS
>>673
やはり北部九州で決まりだな
畿内など最初からあり得なかった
744: 2021/08/25(水)21:50 AAS
>当時はまだ
なるほど。
考古学の成果が上がっているのだから、それを取り入れなければですね。

斯馬國の御床松原遺跡など、北部九州では紀元前の硯がどんどん見つかっています。
そして57年金印を貰った=外交文書で外交した。
木簡で長文を書いた痕跡である、細かいキズだらけの案も出土。
木簡での書き損じを削るための、弥生時代の消しゴム=金属製刀子も出土。

遅くとも後一世紀。
早ければ前二世紀くらいには、北部九州の知識層は文字を使用していた。
ということですね。
745: 2021/08/25(水)21:50 AAS
魏志倭人伝が初出で、魏略にすら記載されていない「邪馬壹國」というのは、
魏人の張政が充てた当て字でしょうから、ちょっと横に置いておきましょう。

漢魏人にとっては、倭国=わ国、であって、
倭人本人から、やまと国と聞いた漢魏人が、それに対して充てた当て字ですね。

倭面土國 107年 倭国王師升の謁見場にいた後漢の記録係
邪馬臺國 247年 来倭した魏の張政
が、それぞれ倭人から「やまと」という音を聞いて、それを表音で記したわけですね。

倭國 わ 音読み
倭面土國・邪馬臺國 やまと 訓読み
746
(1): 2021/08/25(水)21:51 AAS
考古学出土物から、
北部九州倭人は紀元前から文字(漢字)を使用していた可能性が高いわけです。

伊都説であれば、
三雲南小路1号2号がニニギとコノハナサクヤであり、
糸島平野が筑紫の日向。

そこから逆算すると、
吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。

神代=北部九州倭国の時代ということになり、
伊邪那岐・伊邪那美は、紀元前から漢字で記録されていたことになります。
747: 2021/08/25(水)21:52 AAS
伊邪那岐 伊耶那岐 イザナギ
伊邪那美 伊耶那美 イザナミ

前漢の武帝が楽浪郡を設置したのが前108年で、
楽浪土器の出土からして、楽浪郡使が伊都など北部九州倭国に常駐し始めたのは
ようやく0年前後からでしょうから、
紀元前に伊邪那岐・伊邪那美を木簡竹簡に記した倭人は、
漢字は知っていたかもしれませんが、
目の前に大陸の漢人はまずおらず、楽浪人が不定期にいたかどうか、という状況だったわけです。

つまり、一昔前の日本人の英語と同じで、
読み書きは非常に優秀だったが、
省9
748
(1): 2021/08/25(水)21:52 AAS
そう考えると、
伊邪國=伊耶國=いざ國、ということになります。

伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

見事に繋がりますね。
749: 2021/08/25(水)21:53 AAS
佐賀県の県の木も県の花も楠(クスノキ)ですね。

防虫効果のあるクスノキは、古代から重宝された木で、
舟の材料にもなりましたし、
樟脳の材料として、絹布の保存にも用いられてきました。

クスノキがある→絹布を維持できる→絹布で銅鏡など青銅器を綺麗に磨いて品質管理できる
ということで、
北部九州倭国では、クスノキによって、絹布→銅鏡をピカピカに維持できたのですが、
本州など東方に銅鏡を持っていっても、クスノキも絹布も無くて、すぐ錆びたり緑青がついたりしてただの緑の塊になったわけです。

過去スレで検討しましたが、
東方の開拓最前線における、収穫期のJアラート<銅鐸>などは、
省4
750: sage 2021/08/25(水)21:54 AAS
肥前国風土記によると、
ヤマトタケルが今の佐賀市の辺りを巡幸した際に、
クスノキの大木が生い茂っているのを見て、
「この国は『栄(さか)の国』と呼ぶがよい。」
と言ったことから、栄の国となり、
後に転じて、佐嘉の国となった、とあります。

明治維新で、佐賀県、佐賀市、に統一されましたが、
佐嘉川→嘉瀬川 川上に與止日女神社(壹與)
佐嘉神社
など、佐嘉の字もある程度残っていますね。
省6
751: 2021/08/25(水)21:56 AAS
そうなると、
>>671
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國』
の輪郭が浮かび上がってきますね。

>>742のように、
廣志に記された、『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國』の部分は、
景初二年八月の時点で、難升米と司馬懿の共通知識だったことになり、
つまりは、「魏人が来倭する以前から存在する文字情報」だった。

>>735
>魏志倭人伝に書かれた里程は、57年金印の時に測定されたものでした
省11
752: 2021/08/25(水)21:57 AAS
現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、大和町の七ヶ瀬遺跡と、
吉野ヶ里遺跡の北にある、二塚山遺跡とを比較した場合、

後者は、東側、つまり奴国王時代の広義の奴国領域に近く、
副葬された銅鏡は内行花文鏡のみであり、
小型仿製鏡や、免田式土器など、奴国や狗奴国と繋がる性質がある。

前者は、西側で、末蘆國から佐賀平野へ進出する地点に近く、
副葬された銅鏡には方格規矩鏡が含まれており、
末蘆國の桜馬場遺跡の時代、つまりは伊都の井原鑓溝遺跡=107年師升の時代まで栄えており、
伊都天神族系の形質がある。

ことから、
省4
753: 2021/08/25(水)21:58 AAS
現在の佐賀市を中心とする、佐賀県南部に、
末蘆國から峠を越えた、「邪馬嘉國」ざまか、さまか、国があった。
その首都は、現・嘉瀬川=旧・佐嘉川の川上にある、
大和町の、都支國であった。

>>689
>狗奴国を立ち上げて、久留米〜吉野ヶ里を急襲制圧したのでしょう。
>狗奴国軍は陸路で小城市→末蘆國(唐津)へ進軍。
倭国乱に乗じて、狗奴国が勃興し、
佐賀の邪馬嘉國王家と、
唐津の末蘆國王家を、
省14
754: 2021/08/25(水)22:00 AAS
狗奴国の息の根を止めるべく、
第12代が鉄鏡回収作戦を発動した。

大分→宮崎→熊本→筑後と、
狗奴国王の退路を断ちながら、
時計回りに侵攻して、北へと追い立てる。

挟撃して鉄鏡ごと捕獲回収する作戦であり、
神夏磯媛(與止日女=壹與か、その次代)並びにヤマトタケルには、
牽制のみしておくよう指示しておいたが、
若いヤマトタケルが血気にはやって、
西の肥前川上(旧邪馬嘉國の首都=都支國)に逃げ込んだ
省15
755: 2021/08/25(水)22:01 AAS
伊耶=伊邪 いざ

伊佐 いさ

諫早

邪馬嘉國 ざまか(さまか) 天神族系

狗奴国によって一旦滅亡(魏志倭人伝の時期)

天神族系ヤマトタケルによって栄国=佐嘉 さか さが として復活
省2
756: 2021/08/25(水)22:04 AAS
57年の記録の一部抜粋なわけですね。
『廣志曰 倭(誤字)國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國安倭(誤字)西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 百女國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 安倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』
『倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國 自奴國以北其戸數道里可得略載次斯馬國次巴百支國次伊邪國 案倭西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也』

後漢から倭国に到着して、夏至の太陽を基準にした方角で、
末蘆國から東南に短里=東夷伝里で五百里で、伊都国の吉武高木宮殿へ到着する。
また、
末蘆國から南に行くと、邪馬嘉國(さまが国=現・佐賀市など)へ至る。

57年当時に倭国の南界を極めていた、奴国王全盛期の広義の奴国(中広形銅矛分布域)
広義の奴国よりも北の部分、つまり北部九州倭国の各地については、
省14
757: 2021/08/26(木)18:34 AAS
>>746
>そこから逆算すると、
>吉武高木大王がアマテラスで、早良平野が高天ヶ原。

吉武高木はもっと古いよ。
イザナギやその祖先の世代。

>神代=北部九州倭国の時代ということになり、

まあ、これは概ねその通りだと思う。
神代の王都である筑紫の日向は福岡県。
758: 2021/08/26(木)20:34 AAS
三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ

ところが記紀では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い

「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく
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