【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
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90: 09/17(火)17:08 AAS
p75(五)美術工芸進歩する
美術工芸もこの時代に至ってますます精巧を極めた。将軍家光の頃、狩野永徳の孫に守信が出て探幽斎と号し、初め家法を学び、それに熟するに及んで、宗元の風格筆致を取り入れ、新たに温雅にして巧麗という一風をつくり、いわゆる漢画の日本化を大成した人である。
探幽は当時の殿中に縦横に才能をふるって今に残るものも少なくないが、探幽畢生の妙をふるったのは、日光山秘蔵の日本山縁起だというのである。この時から後の狩野派は皆探幽を守ってその外へ出ることができなかったようである。
綱吉・家宣・家継の頃は探幽の他に土佐光紀が土佐派を復興した。朝廷の絵所に仕えて大いにその家風を上げ、ひそかに北宋の画風を併せて時代に適合し、北野天神縁起など有名な作を残している。元禄四年に卒した。
岩佐又兵衛ははじめ、土佐派に学び宗元画に参し、もっぱら当代の風俗人物を書題にとって彩筆をふるい、配色艶麗筆致精巧をつくし、後の浮世絵の元祖といわれる。浮世又兵衛ともいう。
家光に招かれて城中で卒するという。東照宮拝殿にかかげる三十六歌仙の絵額によってその書風を見ることができる。
菱川師宣はまた浮世絵の本領を発揮し、書風は土佐・狩野を合わせたものだが、彼の書風は元禄の時代、趣味にもあって甚だ盛んになった。江戸絵といって江戸土産には欠くことができないものとなった程その印本も流行した。
京都の尾形光琳はまた一格を出し、写生を基礎として巧みにこれを装飾化する手腕は古今独歩ともいうべく、光琳模様といって蒔絵にも陶器にも織物にも応用された。光琳は享保元年五十九で没した。
91: 09/18(水)01:34 AAS
p76 (六)元禄風
江戸時代には直垂など武士の正装と定められ、肩衣・半袴・羽織・袴などが広く士民の間で行われた。元禄頃は服装一般に華やかになって、女子の方は振袖・幅広の帯などで、はでをつくして衣装の美を競ったから、今でも元禄模様・元禄帯・元禄笠など伝わっている。男子も紅の肌衣を着る者さえあった。
貞享頃の草紙に「今世の女は、昔なかった事などをし出し、なんとまあ、身だしなみ道具は様々である。これに気をつけて見たところ、首筋から上だけにあるものは十六品ある」とあることから見ても、いかに派手を極めたかがわかる。
男でも頬・頤・鼻の下まで残りなく剃って女子のようにし、甚だしいのは眉を細く剃りつくる者がいて、また白粉をつける者もいた。
これでもこの後に来る文化文政の時代に比べると、まだ生き生きしたところがあったようである。
学習参考
(1)挿絵解説
「東海道の旅行」は安藤広重筆東海道五十三次の内によったもの、時は夏、伊勢鈴鹿郡庄野駅、路傍の小山は一里塚で榎が植えてある。
右の方へ走るのは早飛脚で公用の者らしく、先には御用と書いた提灯を持ち、次に状箱を担いで走っている。左の方へ走るのは早駕籠で、先引と本役2人と後押で、籠かきを代えて昼夜兼行で走る。乗り手は天井から綱を下ろしてそれをつかんでいるが、それでも非常に疲れるものだという。辺りは一面水田で田植えが始まっている。
「船運の便開かれる」の絵は、秋里裡島の「拾遺都名所新図会」所載のものによる。京都高瀬川曳舟の様子、舟は高瀬舟である。この舟は薪炭を積んでいる。ホーイホーイの掛け声で舟を曳(ひ)き、船の中では棹を使って岸にぶつからないようにしている。高瀬川のことは本文中に書いておいた。
省2
92: 09/18(水)07:58 AAS
p78 (2)指導要領
この教材は高等科の教材らしい教材である。一般に高等科の教材中には尋小国史と重複したものが多いから、これはなるべく将来を期して改めてもらいたいものである。改められるまでは指導者が心して尋小国史に出たところはなるべく思い出させる程度にして、その材料が持つ意味に深く這い入るか、あるいは観点をかえていく通りにも観察するとか、あるいは重複材料で時間を少なくして新材料で多くするとかの工夫が必要である。
この教材では交通経済・利用経済の事、学問・文学・美術工芸・風俗などが出てくるが、特に経済のことと、民衆芸術のことは比較的新しい材料であるから有効に取り扱ったがよい。生活に則して取り扱うのである。
いずれの材料も精々生活化しなければ嘘である。それには文化の内容についても見識を持つことが必要であり、また現代化することも必要である。
出来るだけ事物環境や形式環境を整えて、空虚な話にならないように注意すると、これらの教材は子供に歓迎されるようになる。
93: 09/18(水)16:04 AAS
p79 第三十九 江戸幕府の中興
家光の薨後、家綱は幼くして職を継ぎ、国内に事変は起こったにしろ、名臣の輔弼に好ましい者を得て、善政多く太平をいたしたが、綱吉が出るに及んで弊政をしき、上下は大いに苦しんだけれども、やがて新井白石・徳川吉宗が出て、よく幕府中興の実を挙げるのに至った次第を知らせ、統制文化を中心として兼ねて学問・経済などの文化をも追求させたいものである。
学習事項
(一)家綱の政治
厳有公家綱は大猷院家光の第一子、慶安四年将軍となる。輔弼の臣に松平信綱・保科正之がいて善政を施した。松平信綱は幼名が長四郎で、武蔵川越六万石の城主、出て前将軍の幕政を助け、智彗伊豆と言われた人、今また家綱を、老中としてよく助けたのである。
保科正之は家光の弟で、保科正光の養子となり、会津二十三万石の城主である。寛文五年山崎闇斎を招いて仁義の道を奨励し、正之家訓十五則は有名である。また産業をすすめて民利を興し、賢明の聞こえが高かった人でもある。
家光が在職十九年で慶安四月正月、年四十八で薨去し、当時十一歳の家綱が将軍になるや、家光の喪を秘すべきか発表すべきかについて幕臣の間に議論があった程、それほど危ぶまれた幕府の運命を、幸いにこれを切り開いていくことができたのは、全く重臣の補佐が好ましいことを得たからである。
当時家綱が職につくという初め、慶安四年に浪士由井正雪は駿府に、丸橋忠彌は江戸にいて、互いに相結託し、党を結んで乱を起こそうとしたのを未然に発覚し、七月二十五日正雪は誅に伏し、八月十日丸橋忠彌も誅された。
次いで明暦三年正月十八・九両日、江戸市中大火あり。死亡十万八千人以上という惨禍であったが、救護の処置はよく行き届き、本所牛嶋新田に土地を頂戴し、大火で焼失したものの死骸を合葬させ、増上寺の方丈貴屋に命じて法事を行わせ、無縁寺を建てさせて死魂を弔わせた。これが国豊山回向院である。
また新たに市区を改正し、万治元年九月火消し四隊をおいた。なお寛文三年二月二十五日には、この頃流行になっていた殉死を厳禁した。
省1
94: 09/19(木)06:38 AAS
p80(二)綱吉の弊政
さて信綱は寛永二年に卒し、同九年正之は辞職し、その他の重臣も次第に卒するとか隠居するに及び、しかも家綱が多病であるのに乗じて、大老酒井忠清ひとり威権をほしいままにし、下車将軍の名があった。これは江戸城の下馬札では馬から下りるが、その他では将軍以上の権勢をもっていたからである。なんでも忠清に面会しようとする者は、深夜から門前に立たねばならなかった。
人々は忠清がいるのを知って、将軍がいるのを知らない有り様であった。こうして清忠にへつらうものも多く、政治も乱れていたが、家綱在職三十年、延宝八年五月八日薨じるに及び、大老酒井忠清は北条氏の例にならい、幸仁親王(有栖川宮)を京都から迎えて江戸の主人としようと主張し、老中堀田正俊は綱吉を上野館林(タテバヤシ)から迎えて嗣としようと主張し、大いに討論したところ、大衆は正俊の意見に味方したので、ついに決定した。
ここにおいて綱吉は八月二十三日征夷大将軍に拝せられ、その年酒井忠清が大老をやめ、翌年堀田正俊を大老として綱吉を補佐させた。
綱吉は家光の第四子で、寛文元年上野国館林で城下を下され、二十五万石に封じられていた者、学問が優れているのをもって名高かった。
堀田正俊は春日局の養子であり、大老となって鋭意前代の弊政を改め、治績をあげることに努めたが、峻厳に過ぎて上下の恨みを買い、これを忠告する者もいたが、性格が剛直の正俊はあえて一身をかえりみなかった。果たして貞享元年八月若年寄稲葉正休によって殿中で殺された。
正俊在世中は綱吉の政治に見るべきものがあったが、正俊が退いて綱吉自ら政治を行うに及び、次第にこれに飽きて、御用人柳沢吉保を寵用して幕政が大いに乱れるに至った。吉保ははじめ保明といったが、綱吉の偏諱を賜って吉保と改め、小姓から身を起こして一代の内に甲府十五万石に封じられ、老中の上に班して、権勢をほしいままにした。
綱吉は能楽などに耽り、また厚く仏教を信じ、貞享四年には「生類憐れみ」の愚法をだした。通称犬公方といった。この悪令は家宣が将軍になるに及んでやんだが、その時なお犬のせいで獄中にいる者は数百人という。
95: 09/19(木)06:39 AAS
また元和元年護国寺を音羽に、元禄二年護持院を神田に、同年霊雲寺を湯島に建て、城中に四脚門などを建てたりした上に、当代元禄の風尚と相待って奢を極め、その費用は巨額にのぼり、幕府の財政も大逼迫をしてきた。綱吉はかつて日光山に参詣しようとしたのに、ついに用逹し難かったくらいである。
ここにおいて勘定奉行荻原重秀の建議を容れ、従来の慶長金を改鋳して元禄金の出現を見た。元禄金は慶長金と形状重量共に同じであるが質が悪くなっている。そのために金相場(銀貨に換算するときの相場)に狂いを生じ、物価は高くなって財界が不安となり、上下は大いに苦しむこととなった。
96: 09/19(木)12:14 AAS
p82(三)新井白石政治を改革す
寛永六年綱吉が薨じて嗣がいなかったから、兄甲府宰相綱重の子、家宣が入って将軍となった。家宣は綱吉の棺前において、生類憐れみの令を改めた。家宣は学を好み甲府にいる頃から新井白石を儒職としていたが、入って将軍になるに及び、白石を伴って登用し、正徳元年従五位下筑後守に任じ、将軍の顧問としてその建白を容れることとした。
家宣は在職僅かに三年十ヶ月、四歳になる鍋松を残して享年元年に薨じた。翌正徳三年鍋松将軍となり家継といったが、これも在職三年で享保元年に薨じた。
白石は博学で特に歴史にくわしく、また政治の才あり、家宣・家継二代に仕えて種々の改革をなした。
まず財政上では寛永七年四月十五日貨幣改鋳の触れ書を出し、四月二十七日には乾字金を江戸で発行した。従来は年号の一部を貨幣に刻したものであるが、今度は乾の字を刻したからこの名がある。学者揃いの幕府であったから易経からとってきたという。この金は質において慶長と同じであるが、形量を減じたから小型金ともいう。大判の方は元禄にも改鋳されていないから、今度もそのままであったが、小判や一分金が改鋳されたのである。
この新金を出してから経済の安定をはかろうとしたが、勘定奉行荻原重秀が密かに悪質銀貨を発行したりした上に、新金が小判であったために、元禄金が悪質ながら通用するというわけで、中々目的が達せられなかった。ここにおいて家継の正徳三年ついに慶長金銀と同質同大の正徳金(正徳小判)が発行されて、初めて白石の目的が達せられたのである。
またこの頃は海外貿易において正貨の流出が甚だしく、窮迫の状態に陥ったので、白石は正徳五年幕府に建議して、長崎における支那・オランダとの貿易の額を制限し、支那は毎年三十隻、オランダは毎年二十隻、支那は銀六千貫限り(内銅三百万斤を用いる)オランダは銀三千貫限り(内銅五十万斤を用いる)と定めて、金銀銅が海外流出するのを防いだ。
97: 09/19(木)15:16 AAS
p84
白石はまた国内においては皇族が出家しなさる習わしがあるのをとどめようとして、寛永六年上奏文書を上り、朝廷はこれを受け容れて翌年中御門天皇の皇弟秀宮に一家を建てさせなさる。享保三年親王宣下があり直仁親王と申す。これがすなわち閑院宮家の始まりである。
ここにおいて親王家は伏見・京極・有栖川・閑院の四宮家を数えるようになった。白石は「これらの事ども、我、この国に生まれて、皇恩に報い差し上げた所の一件である」と言っていたが、後に後桃園天皇が崩じなさり、皇統が絶えたとき閑院宮家から光格天皇が入って大統を受けなさる。光格天皇から仁孝・孝明・明治・大正を経て今上天皇に至っている。白石もまた慮るところが空しくなかったことを喜ばねばなるまい。
その他朝鮮使節の待遇を改めて百万両の経費であったものを六十万両に節減し、不平であった朝鮮使節と大論争を始め、白石は我が国は三千年の古から礼楽そなわる国であることを説明してついに使節を屈服させ、我が国の権威を重くさせた。白石がとった自主的外交は今もなお真理とされている。
(五)吉宗は心を民政に用いる
紀元二三七六年中御門天皇の享保元年、将軍家継は幼くして薨じ、世嗣ぎがいないことにより、家康の曾孫吉宗が紀伊家から入って八代将軍となる。
※礼楽=礼節と音楽。社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽。中国で、古くから儒家によって尊重された。転じて、文化。
98: 09/19(木)15:28 AAS
AA省
99: 09/19(木)17:15 AAS
p85
吉宗が江戸本丸に入って将軍となったのは年三十三の時であるから、白石の補佐を必要としない年齢でもあったが、しかし根本的に白石と吉宗とは、性質や主義が違っていた。
吉宗は白石を「文飾の者」と言って斥けた。なるほど白石は京都主義の礼文政治を取り入れて礼文国を建設するところに目的があった。いわゆる文治主義の人であった。
吉宗は闊達にして賢明、簡素を旨とし実用の上に立脚する幕府主義であったから、白石の政治が繁文辱礼なものに映ったらしい。
従って吉宗が立つと共に白石は退けられ、室鳩巣が用いられた。吉宗は実用の学を重んじ、鳩巣に命じて六諭衍義を日本語訳させて平易な教訓書とし、享保七年これを江戸市域八百以上の寺子屋に配って児童の教科書とさせた。
六諭とは清の康?X帝の勅語に、
※漢文
父母に孝順にせよ、年長を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々暮らしに満足せよ、悪事をしてはならない。
とあるのをいい、蠡城范なる者、これが衍義をつくり、物徂徠がこれを漢文に直したのを今、鳩巣が国文に直し、しかもそれを省略しているから六諭衍義大意というのである。
吉宗はまた江戸の町医者小川笙船という者が、施薬院を設けて貧民を救済するならばきっと仁政の一端となるだろうと建白したのを受け容れて、小石川後薬園のわきに養生所を開き、貧民に施療させ、衣食をも官給した。
省5
100: 09/19(木)22:19 AAS
p86(五)勤倹尚武の道をすすむ
吉宗は何事も「権元様御定之通」を主義として勤倹をすすめ尚武をはげました。元禄以来の文弱の風を正そうとしたのである。吉宗は度々の発令でも微に入り細に穿って倹約をすすめた。料理のこと、衣服のこと、娯楽のこと、全て厳しく規定し、子供の遊ぶホウズキの売買を享保六年には止めたくらいである。当時の落書きに「お上はしまる、下はつまる、商売はとまる、町人はこまる」といったものがある。
従って吉宗自らも綿布を服し、草履履きで度々鷹狩りを催し、あるいは単騎奔馳縦横をもって武を修めることが相応しいのを示し、自ら砲術を学ぶなどしたので、群士は心を尽くし、力を励まし、馭槍・射銃・游水は急激に発展するに至った。
(六)裁判を公平に行わせる
吉宗は享保二年、大岡越前守を登用して江戸町奉行とし、享保六年には目安箱を評定所の前に置き、政事の得失、役人の不正、訴訟の延滞などを直訴させ、その後元文元年には大阪・駿府・甲府にも訴訟箱を置いた。
宝保二年四月には、寺社奉行牧野越中守・町奉行石河土佐守・勘定奉行水野対馬守などが、吉宗の主旨を奉じて公事(クジ)方御定書を制定した。その上巻には令八十一条、下巻には律百三条がある。世に御仕置百ヶ条とか、御定書百ヶ条と称すのは、この公事方御定書の下巻に名づけたものである。この百ヶ条(実は百三条)は従来の判決例を調査して成文律にしたもので、奉行の他は他見をゆるされず、公布を見なかったが、これによって司法制度は大いに改善され、戦国時代以来の残酷な刑罰も除かれ、裁判はあくまで公平に行われるようになり、これが明和四年の科条類典、寛政二年の寛政律などによって幕府刑法も次第に整備するようになったのである。
※勤倹尚武=よく働いて質素につとめ、武勇を尊び励むこと。▽「勤倹」は勤勉で倹約なこと。「尚」は尊ぶこと。武士たる者の生活態度として重んじられた考え方。
省1
101(1): 09/20(金)07:32 AAS
p88(七)産業を興す
産業もまた将軍の奨励によって興った。当時珍重されていた朝鮮人参も輸入されていたし、砂糖なども支那から輸入されていた。吉宗はこの輸入を防ごうとするのに関して、人参の種を朝鮮から取り寄せて諸国に植えさせ、また諸方に薬園をつくらせて一般薬品の輸入をも防いだ。サトウキビの種は琉球から取り寄せ、支那人から製糖法を学ばせ、次第に砂糖の産額を増やし、寛政頃には氷砂糖も日本にできるようになっている。
凶年に備えようとするのに関してはサツマイモの栽培を奨励した。当時江戸の人青木昆陽は、もっぱら実用経済の学を修め、蕃藷考という書を著した。大岡忠相はこの書を読んで、昆陽を吉宗にすすめた。吉宗は昆陽を用い、サツマイモを薩摩から取り寄せて、小石川薬園(今の植物園)に作らせ、種芋を増やすのに昆陽の蕃藷考を使ってこれを諸国に配布した。やがて上総下総辺りにこれを作るものが多く、次第に全国に広まった。
またハゼノキ・竹の用途が広いのを見て、紀州からハゼノキの実を取り寄せ、吹上の庭に植え、後にこれを芝の御殿山・新堀などに植えて蝋を取った。竹笛はこれも紀州から取り寄せて逆井(サカキ)の渡の辺りに栽培した。
ことさらに米は経済の本になるのであったから水利を興し、新田を開くことをすすめ、上総東金の荒地、下総行徳の海岸、武州の多摩・高麗の両郡など、幕府の経営によって開発された地も甚だ多かった。このために米の産額は大いに増加した。元禄三年の調査では、二千五百七十八万石であったが、天保七年では三千四十三万石となっている。すなわち百四十年以上の間に四百六十万石以上の増加をしたわけである。人々は吉宗を称して米将軍といったのも理由があることであった。
諸藩もまた将軍の意を受けて、競って産業の奨励につとめ、各地の名産例えば上野・下野の織物、関東の生糸、紀州のみかん、薩摩の煙草、土佐の鰹節、これらは皆この頃に起源を有し、国豊にして民は太平を楽しんだ。
※蕃藷=サツマイモ
102: 09/20(金)11:23 AAS
>>101訂正
国は豊かで民は太平を楽しんだ。
103: 09/20(金)14:24 AAS
p89(八)江戸幕府の中興
吉宗は心を民政に注ぎ、勤倹尚武をすすめて悪習や弊害を正し、裁判を公正にさせ、産業を起した他に、なお見るべき善政は数多い。
あの諸大名の参勤交代を改めて、半年在府一年半在国とし、その代わり一万石につき百石の割合で毎年上米(アゲマイ)を行わせ、それによって幕府の財政を整え、十年間これを続けたのも吉宗である。
また足高(タシダカ)の制といって、職の高下によって役高(ヤクダカ)を定め、その職に任じられた者は、世襲の奉禄が役高より少ない時はその差額だけ、在職の間、増給する制度によって、人材の登用につとめたのも吉宗である。
こうして吉宗は在職三十一年、延享二年職を子家治に譲り、大御所と称してなお政務に関係していたが、宝暦元年六十八で薨じた。
総じてこれを顧みれば、徳川太平の流れは元禄に高潮し、元禄系統の世相が文化文政の時代に連絡しようとしていたのである。その大勢を挽回すべく吉宗が現れ、松平定信が立った。彼らは時代に欠けるところを補おうとして独特な政治を施行したところに大いなる意義を有する。吉宗の時代は実に江戸幕府中興の時代で世にこれをたたえて享保の治といっている。
学習参考
(1)挿絵解説
「寺子屋」は東京博物館旧蔵のものによったので、今はこの原画は焼けてない。挿絵は今習字の稽古で、お師匠様は字つきで手本文字の読み方を教えている。手習いの弟子の中には字を書いている者、手本を読んでいる者、よそ見をしている者、いろいろある。机間巡視をするのはお師匠様の助手である。
寺子屋は中世戦国の頃、寺の僧侶が子弟を教育したのに起源を有し、江戸時代には僧侶でなくとも郷里の物識りが自宅などで庶民の教育をした。これを寺子屋といい、学科は読・書・算を主とし、個人教育がその特徴である。明治初年までこの教育が続いた。
省3
104: 09/20(金)14:24 AAS
そしてこの教材では、完全に文化社会の姿を展望させるのである。元禄時代の文化においては何がすぐれて何が足りないのか。中興時代には何をもって補おうとしたのか。これらに注意して指導をしたならば、完全な文化生活の姿が浮かび出るはずである。
なお当代の業績で、今日に投影するものもかなりあるから、この点現代化する事を怠ってはならない。
※役高=家禄の他に支給される役職手当
105: 09/20(金)15:13 AAS
ここには書いてないけれど、綱吉の弊政は確かにそうだが、元禄文化が終了した原因は綱吉というより、元禄年間(1688〜1704)の後の1707年に起こった南海トラフといわれる宝永地震や、その49日後に起こった富士山の宝永噴火が原因で、その復興で幕府の財政も苦しくなったり、復興資金の使い込みもあったり大変だったのだと思う。
そして1716年に将軍吉宗が紀伊から江戸に来て、デフレだったのをリフレ政策で好景気にした。
106: 09/20(金)20:28 AAS
p91第四十 江戸幕府の衰運
吉宗が職を辞め、田沼の弊政、松平定信寛政の治、文化文政の文芸の隆盛と人心の退廃、そして水越天保の改革という風に、幕府は一張一弛、次第に衰亡の兆しが現れるに至る事実と次第を知らせ、学習者の政治的統制の生活その他の文化生活上に資するところとあるようにさせる。
学習事項
(一)中興の政治ゆるむ
延享二年吉宗は職をやめ、子家重は三十五歳で将軍に任ぜられる。この時から吉宗は大御所として後見すること六年、宝暦元年に薨じた。家重の代は、吉宗中興の後を受けて、天下はよく治まった方だが、しかし家重は大の吃音で上意を伝えることができず、「言葉代」という大岡忠通とか、御側衆田沼意次などが重く用いられ、自然と権勢をほしいままにするようになっていた。
家重在職十六年、五十の賀を機会に長子家治に譲って翌年薨じた。
家治は成長して癇癪が強く、人を受け容れる度量を欠き、便侫の田沼意次を寵用して、明和四年側用人に進め、安永元年老中に登らせ、天明三年には意次の子意如を若年寄にした。ここにおいて田沼氏ひとりが威権をほしいままにしたので、諸役人は彼の鼻息を伺い、賄賂・饗応は未曾有の盛行を見、「近年最も少ないものは御上洛・社参・鹿狩・敵討ち・金を使わずになった役人」とまで言われ、幕政大いに乱れ、士風は崩れ、風俗は乱れて、吉宗中興の政も再び乱れ出した。
くわえると宝暦十一年三月、大風雨大洪水、同十二年若州台風、明和二年近畿大風雨、同三年江戸大洪水、四年七月尾州山津浪、六年八月江戸大風雨、山城大洪水、七年大干ばつ、八年大風雨、近畿大洪水、明和九年(迷惑年)二月江戸大火その他に大風雨、安永二・三・四年近畿大洪水、六年奥羽地方大洪水、大島の三原山噴火、八年機内・関東・北国大洪水、桜島噴火、天明三年のち数年の飢饉、特に関東・奥羽で甚だしく、天災地変しきりに至ったので、人心は恐々として世は甚だしく穏やかでなくなり、明和元年暮れには武州秩父郡の農民が神奈川へ集まって富豪を襲うことがあり、天明七年五月には大阪において町人が数十人暴動を起こし打こわしをやった。江戸でもこの月から同様のことをやって三日三夜にわたった。
石の巻・和歌山・郡山をはじめとして騒がないところがなかったという。当時の暴動は、米屋・酒屋・質屋などを打ちこわしたようである。
107(1): 09/20(金)20:32 AAS
このような間に天明四年意如は佐野政言(トキ)に城中で刺され、意次はなおも威権をほしいままにしていたが、天明六年八月退けられ、将軍家治は騎射の催しに臨むとか、絵をもてあそぶとかして日をくらし、在職二十七年、天明六年九月ついに薨じる。
※便侫=口先は巧みだが心に誠実さのないこと。
田沼意如
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「父子ともに現役の幕閣であったため、意次と別居するために田沼家中屋敷または下屋敷へ移ったが、新たな屋敷を構えたのは暗殺の直前であった。江戸市民の間では、佐野を賞賛して田沼政治に対する批判が高まり、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。江戸に意知を嘲笑う落首が溢れている中、オランダ商館長イサーク・ティチングは「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残した。」
フリーメーソンのオランダ商館長イサーク・ティチング>>67
108: 09/20(金)21:06 AAS
イサーク・ティチング
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「一方、ティチングは当時の日本の機密を、11代将軍徳川家斉の岳父であった島津重豪を通して収集していたことが、フランスの博物学者で旅行家のシャルパンティエ・ド・コシニー(Joseph-Franois Charpentier de Cossigny)らによる「ベンガル航海記」に記載され、その本はオランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。
そこには、将軍の義父がティチングと始終文通を行い、ティチングの目的に必要なあらゆる知識と情報を好意的に与え、日本に関する彼のコレクションを増加させているとある」
109: 09/20(金)21:27 AAS
p93(二)松平定信勤倹貯蓄をすすめる
家治の薨後、家斉が職をつぐ。はじめ吉宗は家重の二人の弟宋武・宋尹を田安・一橋の門内に十万石を給して住まわせ、家格を三家に準じさせた。家重はまたその子重好を清水門内に住まわせた。八省の卿に任命されたから、世にこれを三家に対して三卿といった。家斉はこの一橋宋尹の子治斉(ハルマサ)の子である。
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