【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
上下前次1-新
118: 09/22(日)00:26 AAS
p99
絵画の方では吉宗・家重・家治・家斉の初期にかけて明清画派が出現した。祇南海・池大雅・与謝野蕪村のようなそれである。これは清の伊孚九等によって伝えられ、支那南宋画の一派で、水墨を主として風雅な趣を重く見るものが、文人の間で流行したから文人画ともいう。
この明清画派に刺激を受けて大成したものは写生画派である。円山応挙は丹波の人、諸家の画風から出て、ついに一格を成し、写生画派として円山派の祖となる。その技が最も熟したのは家斉の初期天明頃で、遺品としては鯉魚の絵の他が多い。挿絵には虎が出ている。寛政七年七月十七日卒した。
喜多川歌麿は宝暦三年江戸で生まれ、文化二年五月二日没した人。浮世絵師である。浮世絵は肉筆のほかに版画が発達して、まま版画の別名かのように見られる位である。版画は錦絵と版元の挿絵との二種ある。
浮世絵は前にも述べたが、歌麿をもって最も傑出したものとする。おおよそ鎖国中太平の続くままに、文化の消化創造が行われたもの、今日は世界的鑑賞の材料となっている。
119: 09/22(日)08:13 AAS
p99(五)文化文政時代の裏面
化政時代には見るべく誇るべき文化も十分にあるが、上下はただ安逸奢侈に耽って、士風はおのずからくずれ、武士にして女師匠の元へ歌や三味線の稽古に行く者もあり、遊情安逸に流れた結果、町人から借財をしてようやく体面をつくろうというように、経済的な現実暴露を庶民の前に展開したのであるから、早晩当代の社会構成が崩れなくてはならない形勢になってきた。
武士でなくても一般でも遊情安逸をむさぼったから、ひいては射幸心を助長し、富くじ大流行の世であった。
将軍家斉にしても大奥の女中一千人、上下あげて感傷的・享楽的な世相を構成し、弾力性に乏しい、いわゆるらん熟味に富んだ退廃味がみなぎり盛んになった時代であった。
こうして天保初年から再び凶作が続いて、米価は次第に騰貴し、四年には陸奥・出羽に飢饉が起こり、五年に至ってますます甚だしく、江戸では餓死する者が多く、七年はまた大風雨が続いて、諸国一般に凶作であったが、遊情で無能な官吏は、救念の方法をもとらないので、ついに暴力に訴えて窮民を救おうとする者が出てきた。大塩平八郎の乱はそれである。
大塩は大阪町奉行の与力であったが、陽明学者で実行をたっとび、文政の末から隠居して洗心洞書院において門人に教授していた。天保八年二月上書して官米を使って窮民救助のことを建白したが、町奉行はこれを取り上げなかったので大いに怒り、窮民を救うと称し、その徒党と共に乱を行い、火を大阪中に放った。城代・町奉行はこれを防ぎ、三日で鎮め、平八郎は自殺した。実に一葉落ちて天下の秋を知る。江戸幕府の衰運も次第に表面に表れてきた。
※与力=行政・司法・警察などの任に当たった職業
120: 09/22(日)12:15 AAS
p100(六)天保の改革
家斉は大塩の乱後まもなく西丸に隠退し、世に大御所と称したが、治世五十一年間であった。次第に幕政改革の必要を感じる時に当たって、天保八年四月、庶子家慶が職を継いだ。この時より以前天保五年水野越前守忠邦は老中であり、以前から経世の志がある。今や将軍の代替を見るに及んで、かねての抱負を実現しようとし、たびたび倹約の令をしき、武芸を奨励したのを世に水越天保の改革というが、その法令はあまりに細かく取り締まりも厳しかった。
天保十三年四月八日の令をあげて見ると次のようである。
一、野菜ものなど季節がいたらない内に売買いたしてはならない旨を前々からお触れいたします
うながすけれどもこれが有るところ
近来初物を好みます事柄が増長いたし(中略)もし背く者においてこれがあるならば吟味の上厳重に罪科を申し付けなければならないのでございます
この調子で髪を結うには藁を用いること、贅沢な下駄を履いた者は獄に投じること、衣服のこと、櫛かんざしのこと、煙管のことまで規定した。
これによって忠邦は怨みをうけ、天保十四年閏九月十三日「御勝手取り扱いの儀につき、不行き届きの儀、これがある 老中職御免云々」という理由で職を免じられることとなった。この日府内の人民数百人は忠邦の邸内に集まり、瓦礫を投じ、夜に至ってますます甚だしかったという程、険悪な世の中になっていた。
こうして忠邦の改革も失敗に終わり、幕政中興の業は全く破れ、幕府衰亡の兆しはすでにこの時に現れるに至った。
121: 09/22(日)14:06 AAS
p101 学習参考
(1)挿絵解説
「昌平校」は昌平誌所載のものによる。林道春が寛永年間上野に設けた孔子の廟を、元禄三年綱吉が湯島に移して規模を大きくし、綱吉自ら大成殿の扁額を書いた。この大成殿はその後何度も焼けたので、寛政十一年造営復旧したが、この図はその頃の光景である。
大成殿は今日の東京帝大・東京高師・東京女高師の前身で、この地は東京女高師の地である。殿社にはそれぞれ名がついているから拡大鏡を使って読むと便利である。
「円山応挙の画」は讃岐金刀比羅宮蔵襖絵によったもの。原図は応挙四十六歳の時の作で、彼の特徴が最もよく現れた大作である。応挙は諸家の画風を合わせ、ついに一格をなし、円山派を開いた人。その周到な写実を味あわせるがよい。諸家を合わせて一格を完成するところ、絵画も次第に日本的独自的なものになったことも注意しなければならない。
(2)指導要領
幕府の一張一弛、ついに衰運に傾くに至った次第を知らせるのであるが「江戸幕府が衰亡に傾かなければならなかったのはどこにあるか」というようなことが中心の問題となる。
それで政治のこと、経済のこと、風俗のこと、文化のことなどが取り扱われ、同時に各立場の人となって見て、各その処すべき道はどこにあったかを考察させるのがよいと思う。
次には「どんな社会ができたら最もよいのであるか」が問題となる。これは教材の批判から自然に出きることなので、例えば田沼時代の政治は悪いと言えば、どんなのがよいかと問いたくなるし、定信の政治がよかったとすれば、これよりもよい方法がないかと問いたくなる。文化文政の時代、天保改革の時代全てそれである。こうして学習者は、常に理想の社会はどんなものであるかを求めていかねばならない。
ちなみに考古的よりも考現的にということはこの教材でもまた真理である。
122: 09/22(日)19:37 AAS
p103 第四十一 尊皇論と国学の勃興
学習目的
朝廷と幕府との関係につき歴史的に理解をさせ、かつ正当な観念を得させ、江戸幕府が朝廷に対し申し上げる態度から、尊皇論がだんだん起こり、国学の勃興は数多の尊皇家を輩出するに至り、やがて王政復古の大業を起こす原動力となって行く次第を学ばせ、国体観念を養うのを中心としながら他の文化にも触れる。
学習事項
(一)朝廷と幕府との関係
省7
123: 09/22(日)19:37 AAS
(二)江戸幕府の朝廷に対し申し上げる政策
江戸幕府は皇居の造営をした。例えば家康が慶長十年禁裏の規模を大きくし、新宮殿の造営をしようとする計画を立て、仙洞御所は十二年末落成、禁裏も十八年に竣工している。また松平定信の時、焼失後の皇居を寛政二年に増営した。それが嘉永七年に再び炎上したので、安政三年にまた建てられた。これが今の皇居である。
幕府はまた御陵の修築もした。久しきにわたる戦国兵乱のため荒廃していた御陵を、徳川綱吉が旧記に照らし合わせて遺蹟を捜索させ、これを修復した事実がある。
朝儀の復興をしたこともある。例えば東山天皇の御代に将軍綱吉が、天皇の即位の年つまり貞享四年十一月、大嘗祭を復興し、元禄七年には加茂の葵祭を復興したかのようなそれである。
宮家を建てたことは将軍家宣の時である。新井白石の建議により東山上皇の皇子秀宮直仁親王を閑院宮と申し、ここに四宮家を数えるに至った。
御料献上のことはたびたびあった。家康の時に一万石、家光の時にも一万石を皇室御料とし、寛永七年三千石を上皇の湯林邑として献じ、後でまた七千石を進めた。その後次第に献上によって御料は増し、寛永三年(綱吉の時)には御料の合計は十二万石以上に達した。しかし幕府の天領は普通「幕府八百万石」というから比較にもならないものである。
124: 09/22(日)23:25 AAS
p106
こうして幕府は表で朝廷を尊崇して、内で朝廷を畏れ申し上げ、陰で朝廷の御権勢を抑制申し上げ、幕政を維持し発展させようとしたあとが歴然としている。
慶長五年関ケ原の役後、奥平昌信に命じて京都の制法を掌(と)らせたところ京都御所司代にはじまり、翌年板倉勝重がこの職に任じられ、以来、京都所司代は禁闕守衛・官用弁理・京都町奉行や奈良・伏見町奉行の管理・訴訟聴断・社寺総掌と中々の重役で慶長三年まで続いた。この職は鎌倉幕府の京都守護、北条氏の六波羅探題にも相当するものであった。
また大阪役ののちすぐに元和元年七月十七日禁中並公家中御法度を作り、
一、天子の諸芸能の事第一は御学問である
を始めとして全部で十七条あるが、これによって朝廷の御事に干渉し申し上げることも少なくなかった。
徳川氏はまた藤原氏の例にならい、皇室の外戚となって幕府の基を固めようとし、元和六年秀忠の第七女和子(東福門院)を後水尾天皇の中宮といたし申し上げ、後に興子内親王が御誕生遊ばされ、寛政六年わずかに七歳になる興子内親王は即位しなさり、これを第百九代明正天皇と申す。
我が国では推古天皇をもって女帝の始めとし、その時から皇極(斉明)持統・元明・元正・孝謙(称徳)天皇が立ちなさったが、奈良時代から久しく絶えていた女帝の例がここにまた開かれ、明正天皇の後では後桜町天皇が女帝として立たせられた。この間第百八代後水尾天皇は、幕府の専横を憤りなさることがあり、次いで第百十代後光明天皇は大いに幕府をおさえて皇威を張ろうとしなさったが、御志成らずして、御在位わずかに十二年、御宝寿は実に二十二の御壮齢をもって崩じなさってからは、幕府はもはや憚るところもなくなった。
125: 09/23(月)08:12 AAS
p107(三)尊皇論だんだん起こる
水戸の藩主徳川光圀は尊皇の志高く、大義名分を明らかにする国体史編纂の大計画を立てた。光國が修史の事業を起こしたのは明暦三年(家綱の時)で、江戸駒込の下屋敷に史局を設け、諸国から学者を集めて、古書記録を捜索して国史を撰修した。後にこれを小石川の本邸に移し、名を彰考館と称し、のち光國が水戸西山に退隠するのに及んで、元禄十一年彰考館は水戸に移った。この後は水戸と江戸の両方で事業を継続した。しかし文政年間には水戸だけでしていた。
光國の集めた学者は人見卜幽・辻了的・栗山潜峯・三宅観瀾など主として山崎闇斎の学派の人々であった。
この書は神武天皇から後小松天皇に至る全部巻数三百九十七巻、それを本紀・列伝・志・表の四部にわけてある。本紀は天皇紀、列伝はその他の伝記、志は官職制度など、表は系図その他の表である。この間大義名分を正し、神功皇后を摂政としたこと、弘文天皇をお立て申し、吉野朝廷を正統としたことは、三大特筆といって有名である。
元禄十年に本紀はだんだん脱稿し、皇妃・皇子・皇女の三伝が成り、元禄十三年十二月に光國は薨じた。年七十三。私に謚して義光という。
光國の養子綱条はまた業をつぎ、正徳五年本書に命名して大日本史といい、享保元年列伝脱稿、この時から歴代の藩主は相ついで修撰に励み、約二百年ののち明治九年十二月徳川國順は大日本史全部を進献して乙夜の覧に提供した。
この書の編纂に関して、水戸藩でにおいて毎年五千石の米を経費に充てていた。これがやがて国民の尊皇心をひき起こすのに大いなる力となったのである。
※乙夜の覧=天皇が読書すること
126: 09/23(月)12:25 AAS
p108
尊皇の大義を説いた者に山崎闇斎がいる。闇斎は京都の人で元和四年から天和二年までいた人で、はじめ妙心寺にいたが、後に土佐の谷時中に朱子学を学び、別に吉川惟足に吉田派の神道秘伝を受け、別に垂加流の神道を唱えた。その尊重するものはいわゆる神道五分書、日本書紀神代の巻であるから、尊皇愛国の精神を鼓舞することが多かった。闇斎は江戸で教授したこともあり、会津の保科正之に仕えたことがある。門下ないし学統を受けた者の中からは、尊皇論者が続出するという有り様であった。
竹内式部や山懸大貳なども闇斎の学を奉じる人々であった。式部は越後の人で、京都に出て徳大寺家に仕え、闇斎の高弟玉木葦斎について、垂加流の神道を学び、兵学武術にも通じ、浅見絅斎の靖献遺言や栗山潜峰の保建大記の説をとって大義名分論を唱え、皇室の衰運を回復して幕府を抑制しようとすることを述べた。
公卿が聴聞する者は多く、門弟は七、八百人もいた。その人の学説は第百六代桃園天皇の天聴に達するに至ったが、すぐに幕府に忌まれて追放され、関係した公卿十五人以上も罰せられた。これが宝暦九年で、将軍家重の時である。あとまた八丈島に流され、船中病になって、途中三宅島で没した。年五十六であった。
山懸大貳は甲斐の人で、闇斎の高弟三宅尚斎の門人加加美桜塢に学び、大義を明らかにし、兵学・儒学・天文地理・有職故実などの諸学に通じ、最も兵学に通じていた。宝暦六年江戸八丁堀で弟子に教えるのに従い学ぶ者は数百人もいた。柳子新論を著して皇室が衰えたのを嘆き、激しく幕府を攻撃した。
藤井右門は越中の人、大貳に推服して、京都から来て大貳の家に寓居するとき、大貳の説を受け継いで述べ、甲府及び江戸の攻撃法を説いたので、大貳は斬られ、右門は獄門に処せられた。時に大貳は四十二、右門は四十八、明和三年将軍家治の世であった。
127(1): 09/23(月)12:59 AAS
p109(四)国学勃興と尊皇思想
このように、天下に率先して尊皇の大義を唱えた者は、たちまち罪にされるに及んで、公に幕府の不義を唱える者は衰えたが、この思想はおさえられるはずもなく、かえって国学の勃興と共に根強く尊皇の思想が培われ出した。
さきに水戸光國が国史の勉強をはじめた頃に僧契沖がいた。契沖は寛永十七年摂津尼ケ崎の藩士下川元全の子として生まれ、十一歳で出家し、諸所を周遊したが、博学にして特に古語に詳しかった。
契沖が大阪近くの今里妙法寺にいる頃、水戸光國は万葉集の善註がないのを恨み、下河辺長流に命じ註釈のことにかからせていたが、長流はその業を終えないで卒したので、光國は、契沖が長流の親友であり、かつ学徳ともに高いのを慕ってこの人を招聘しようとしたが、契沖は辞退して行かなかった。
しかし契沖は密かに光国の志に感じ、万葉集代匠記二十巻、総訳二巻をつくってこれを光圀に献上すると、光圀は大いに喜び、白金一千両、絹三十疋を贈ってその志に報いた。すでに契沖は大阪高津に、よい土地を占って移り住み、室を円珠庵と名づけ、俗客を絶って清修自適し、元禄十四年六十二年で寂した。
この万葉代匠記は万葉註釈書のうちでも特に傑出したもので、著者の自筆本が今日に残っているから、直接契沖の学説を伺うこともできる。
この時から国学の研究が盛んになり、享保八年には荷田春満が伏見稲荷山の祠官の家に生まれ、もっぱら国史国典によって国体の真髄とそれに付随した神道とを明らかにしようとすることを主張し、国学の学校を京都に建てることにしていたが果たさずに死んだ。元文元年六十九であった。春満は国史・律令にくわしく、神代巻・万葉集に創見あり、加茂真淵はその門人である。
ふみ分けよ 大和にはあらぬ唐島の
あとを見るのみ 人の道かは ー春満ー
※日本人なら朱子学だけじゃなく日本の書籍を読もうよ!みたいな歌
省2
128(1): 09/23(月)13:32 AAS
ふみ分けよ をわきまえると訳してあるのが多いが、文(ふみ)を区別するという意味と思う。
国文と漢文を区別して理解していく
履歴の履は履(ふ)むという意味で人の踏んで来た道これから踏みゆく道
わきまえるの意味も似ていて
1 物事の違いを見分ける。弁別する。区別する。
2 物事の道理をよく知っている。心得ている。
3 つぐなう。弁償する。
129: 09/23(月)17:09 AAS
p110
加茂真淵は浜松在岡部村の人元禄十年生まれ、父は加茂社の祠官であった。はじめは浜松に住んでいたが、三十七の時に京都に出て春満に学び、師の没後江戸に出て田安宗武に仕えていた。その居を縣居(アガタイ)といった。宝暦十一年辞職して家を養子定雄に譲り、もっぱら著述に従事した。
万葉考・冠辞考・祝詞考・その他著すところが多く、古典を研究して古道を明らかにしようとすることを目的としていたが、明和六年十月没し、品川東海寺内松林院に葬る。その門人は三百人、本居宣長はその一人である。
もろこしの人に見せばや み吉野の
吉野の山の 山ざくら花 ー真淵ー
(※支那の人に見せたいものだなあ 吉野の山の山ざくらの花を→日本すごい)
130: 09/23(月)19:26 AAS
>>128
このわきまえるという解説自体も古語な気がする
古語で「わきまえる」というと区別するという意味
131: 09/23(月)21:37 AAS
p111
本居宣長は伊勢松坂の人。享保十五年七十二歳で没した。真淵の門人で鈴の屋と号し、深く古史・古文をきわめ、明和元年(家治の時)に古事記を説明するという稿を起こし、三十五年の長年月を費やして、寛政十年六十九歳に至って古事記伝四十八巻(内三巻目録)を大成し、彼の没後二十二年の文政五年に至ってようやく全部の刊成は成った。宣長の著書はこの他に数多いが、明和八年彼が四十八歳の時には有名な「直昆霊(ナオヒノミタマ)」を著している。その一節に曰く
神の御心のままに安国(ヤスクニ)と平穏に統治なさっている大御国であったので、古の大御代には、道ということも言挙(コトア)げも全くなかった
と言っている。つまり我が国の天皇は神そのままの天皇であらせられ、治(シ)らす御精神つまり仁愛を垂れなさったもので、そこには言挙げの必要はなくて、道自ら定まるというように、自然の大道が組織化していることを述べて、我が国体の基礎の強固な所以を明示している。実に宣長によって国学は大成したといってもよい。
輝き出す この日の本の光から
朝鮮支那も春を知るだろう ー宣長ー
宣長の門人は四十以上の国にわたり、門人帳には四百八十八人の名がのっているが、没後の門人を加えると四百九十人になる。平田篤胤のような者は没後門人の一人である。
省2
132(1): 09/23(月)22:09 AAS
篤胤は安永五年出羽に生まれ、天保十三年六十八歳で没した。春満・真淵・宣長と共に国学の四大人と言われた人。儒仏をしりぞけて純粋神道を大成し、平田流神道を開いた人である。篤胤はどこまでもわが古典の精神に復帰しようとし、尊皇愛国・至誠・優美・尚古・祖崇・孝義・快活・現実ということを重んじた神道を唱えている。
他人は例え支那につくとしても私の杖は
やまとの島国へ立てるつもりだぞと思う ー篤胤ー
また宣長と時を同じくして塙保巳一がいる。保巳一は延享三年武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、七歳の時に失明したが、彼は博覧強記で、和漢の学を修め、松平定信から麹町の裏六番町に三百坪の土地を賜り、和学講談所を設け、のちに表六番町に移した。保巳一の著書も多いが、郡書類従一千八百冊以上の出版は最も有名である。これは我が国古今の小冊の書を収集合刻したもの、実に本邦一大叢書のはじめで、国学研究の便をはかった功績は多分に大なるものがある。
133: 09/23(月)22:11 AAS
ヘレン・ケラーは幼少時母から「塙保己一を手本にしろ」と教育されてたの知らなかった
134: 09/23(月)22:28 AAS
不勉強なだけかもしれないが現代日本人でも知ってる人少なそうなのにヘレン・ケラーの母ちゃん何で知ってるの
135: 09/23(月)22:49 AAS
息子の塙忠宝を伊藤博文と山尾庸三が暗殺したと渋沢栄一がばらしたのは知ってた
お父さんだったのか
136: 09/23(月)22:53 AAS
初代総理大臣の暗殺伝説が大々的に知られるとまずいから保己一すごいのにマイナーなのかな…
137: 09/24(火)07:12 AAS
p112
(五)数多の尊皇家あらわる
古史古文の研究は国体の尊厳を明らかにし、大義名分をおろそかにするべきではないことを世人にさとらせ、尊皇家が相次いで出るに至った。寛政三奇士のようなそれである。寛政の三奇士とは高山彦九郎・蒲生君平・林小平である。
高山彦九郎は名は正之、延享四年上野に生まれ、寛政五年四十七で没した人。学者に任じないけれど気節あって尊皇の心深く、京都をはじめ諸国を周遊して有志と交わり、ついに久留米で自殺した。その原因は明らかでないけれど、田沼の弊政によって民心が次第に幕府を離れるのを見て、 密かに快であるとし、すぐに事を起こそうと企てたところ、松平定信が幕閣に入って、再び幕政を引き締めて盛んにしたので、志が成るはずがないのを嘆いたという説があるいは事実に近いのであろう。彦九郎の京日記には次のような一節がある。
皇統綿々天子の位は長久のしるしと嬉しくて手が舞い足が踏む事がわからない(勝手に動くくらい嬉しい)
蒲生君平は名は秀実、明和四年下野に生まれ、文化十年四十六で江戸に没した人。皇室再興の志厚く、朝廷の制度を明らかにしようとするため、九志の著述に志したが、職官志と山陵志だけ世に伝わっている。君平はまた露艦の北辺入寇を憂いては、不恤緯(海防策)を著した。
幕府は不恤緯にしても山陵志二巻(山陵八四)にしても浪人処士が言ってよい範囲ではないとし、重刑に処そうとしたが、君平は抗弁して屈しなかった。この時林大学頭は「草野に危言の士がいるのは国家の福である」と言ったので事なくすんだ事もある。
頼山陽は名は襄、安永元年大阪に生まれ、天保三年五十三没し、京都東山長楽寺に葬った人。二十年以上の苦心を積んで日本外史を著し、源氏・平氏・北条・新田・楠・足利・武田・上杉・毛利・織田・徳川の武家荒廃の歴史を説いて、政権が武門に移った由来を論じ、また晩年病をおして日本政記を作り、神武天皇から後陽成天皇までの編年史によって、順逆の区別を明らかにし尊皇の意をよせた。外史は脱稿の上松平定信に献上し、定信から題言を賜っているが、政記は未稿のまま筆を握って没したと言われる。
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