【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
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450: 11/11(月)22:19 AAS
現代の生命線は台湾のシーレーンか
負けたら結局シーレーン使えないけれどあの広い中国大陸で勝算あるんか

朝鮮併合の理由も明治天皇の言葉は、世論がこうなので併合進めたと聞こえる
政府お得意の国民の自己責任論は昔から健在
451: ブログ転載 11/12(火)15:46 AAS
p283
第五十五 国運の進歩

学習目的

主として第四十九「文化の発達」以後、すなわち明治二十七八年頃以後における、明治時代の国防・経済・通信交通の機関・学芸・美術工芸・博愛慈善などの進展について学習し、当代がよく驚異的に文化の発展をしたことを認感させるのである。

学習事項

(一)国防整う
省4
452: ブログ転載 11/12(火)17:08 AAS
p285
こうして明治十五年一月四日明治天皇から陸海軍人に勅諭を賜る。その勅諭においては「朕はなんじら軍人の大元帥であるぞ、だから朕はなんじらを股肱と頼み、なんじらは朕を頭首と仰いでその親しみは特に深いに違いない」とおっしゃられ、

一、軍人は忠節を尽くすことを旨としべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尊ぶべし
一、軍人は信義を重んじるべし
一、軍人は質素を旨とすべし

と諭され、「右の五ヶ条は軍人であるだろう者はしばらくもおろそかにしてはならない。さてこれを行うとしたらそれには一つの誠心こそ大切である」とねんごろに教えなさる。なおこの勅諭中に「この五ヶ条は天地の公道、人倫の常経である」ともあるから、軍人がこの勅諭を遵守するのはいうまでもなく、一般人民も共に忘れず守るべきことは、あたかも教育勅語のようなものである。

この時から次第に軍備は充実されたが明治二十一年になると、親兵・鎮台を廃止して、近衛・東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の七師団を置いた。
兵式は明治の始めフランス国式に則ったといっても、これは活眼をもって比較研究して採用したものではなく、旧幕府に近づいたフランス国の式が、ここに延長されたもの、加えるとナポレオン三世が欧州に時めいた時であるから、それ以後もこの式によったのであろう。そのうちに陸軍卿大山巌が川上操六・桂太郎・野津道貫・三浦梧樓など十四名を率いて欧米を視察し、十八年に帰朝し、この時からドイツ式に代わり、これによって訓練した兵が日清戦役で働いたわけである。戦役当時は兵員二十二万、野砲は約三百門もあった。
省3
453: ブログ転載 11/12(火)18:01 AAS
p286
それなのに世界大戦後には世界をあげて軍備縮小の声がやかましく、我が国もこの大勢に鑑みて、大正十四年以降陸軍四個師団(高田の十三・豊橋の十五・岡山の十七・小倉の十二を久留米に移して十八師団)を廃止して、現に十七個師団、常備兵員約二十万人がいて、国防の責務に任じている。
海軍の方は明治の始め政府所属の艦船はわずかに七隻、三千五百トンであったが、明治五年海軍省が置かれた時には十七隻、一万三千八百トン以上となり、十九年には全国を五海軍区(横須賀・呉・佐世保・舞鶴・室蘭)とし、各海軍区に鎮守府を置くこととしたが、その後室蘭はついに鎮守府を置かず、そのうち日清戦役当時には二十隻、五万七千トン、日露戦時百五十七隻、二十八万四千トンとなり、大正七年には八十六艦隊(戦艦八隻・巡洋戦艦六隻を基本とする)を計画し、さらに九年には八十八艦隊に引き直す計画になっていたが、大正十一年軍縮の結果、六十四計画に止めることとした。現在は三十一万五千トン、横須賀・呉・佐世保の三軍港があり、舞鶴は軍港を廃止されて大湊・鎮海・馬公と共に海軍要港となった。
国防の成果はこのように備わり、我が国はよく世界の列強と肩を並べるに至ったが、もともとこの国防の事は、経済力と関連し、精神力と結ばれ、国際関係とふれて現在においても複雑な問題となっている。善処する工夫が必要である。
454: ブログ転載 11/12(火)19:53 AAS
p287
(二)経済界の進歩

(1)貿易の進歩

このような間に経済の方面も、すこぶる面目を改めてきた。中でも貿易の方は明治三十三年及び四十四年の改正条約実施によっ
て関税は改訂され、ますます便利を得たので大いに発展した。

日本貿易の趨勢(単位百万円)

年次  総額  輸出  輸入  出超  入超   人口一人当(単位円)輸出  輸入
省2
455: ブログ転載 11/13(水)15:35 AAS
p288
この表によって明治十年の貿易総額と昭和三年のそれを比較すると八十倍となっている。ちなみにこの表に現れている入超のことは今後における問題となる。
貿易品についてみれば、原料輸出・製品輸入をしていたものが、大正三年以降原料輸入・製品輸出の時代となってきた。これはたしかによい傾向といわねばならない。
貿易と共に海運の事業も大いに発達した。十八年九月日本郵船会社(資本金一千一百万円)十七年五月大阪商船会社(資本金百二十一万円)、二十年浅野迴漕部(資本金二十万円)ができたことは前に述べた。これが日清戦役後進んで海外航路を開拓し、政府はこの機会に海運業の発展を助長しようとして、明治二十九年三月航海奨励法及び造船奨励法を制定した。浅野迴漕部は東洋汽船会社として活躍し、日本三大汽船会社といわれるようになった。
我が国の海運は戦争がある毎に画期的発展をとげ、欧州大戦があって世界第三位の海運国にまで漕ぎ着けた。欧州大戦後は各国競って自国の貿易挽回と海運保護政策に出たので、我が国の海運界も不振であるが、それでも量的には第三位の威容を示している。なんでも次の表によってその状況をほぼ知ることができる。

年次    汽船(船数 t数)   帆船(船数 t数)

明治三   35隻   15498t     11隻 2454t

昭和元   7779  3662447    42161 1266601
456: ブログ転載 11/13(水)23:00 AAS
p289
(2)産業の進歩

農業の方面でも明治四年海外留学生を米国に派遣し、米人技師を雇用し、駒場農事試験場を開設し、明治十年駒場農学校を起こし、この前後から各地に農学校が漸次設置され、明治十四年勧農局が拡張されて農商務省となるや、従来の保護政策を廃止して民間の自由発達に委ねた。明治三十二年には耕地整理法がしかれ、産額の増加、品質の改良は著しくなった。例えばアメリカでは明治十年頃には二千五百万石であったものが、大正元年には五千万石、昭和五年頃は内地及び殖民地合わせて八千四百万石というに至った。
工業の方面は全く幼稚であった。明治新政府は四年官営主義のもとに模範工場を設立し、工部大学を設け、その他あらゆる方法によって保護奨励を行った。しかしこの政府の積極的保護の産業政策は明治十三年の工業払い下げ規則の発布、同十四年の農商務省の設置を画期として、消極的保護政策に転向し、もってその発達を望んだ。我が国工業発展の跡を回顧するため、参考として左表を掲げる。

↓表
外部リンク:dl.ndl.go.jp
457: ブログ転載 11/14(木)10:45 AAS
p291
右表中生産力指数というのは、明治二十七年を一〇〇.〇として算出したものである。
ここには生糸・綿糸・織物・造船について記したが、その他製鉄業にしても、化学工業にしても、皆著しく発展を遂げ、電気を利用することは日露戦後急激に拡大し、個人企業を去って会社企業が普及し、漸次大資本による経営に移って今日に至った。
またこれら産業に関する行政事務を司っている農商務省は、大正十四年五月には農林・商工の二省となり、時勢の要求に応じることとした。時代は今経済の時代に動いているのである。精神的な人間の一面を忘れることがないことをひたすら望むのである。
458: ブログ転載 11/14(木)13:12 AAS
p291
(3)貨幣の制度

明治十七年七月一日から施行した兌換券条例の第一条には「銀貨をもって兌換するものとす」と定めてある。すなわち銀貨本位性であった。
政府は日清戦後の経営に当たり、低利大資本金を外国に求めようとしたが、外国は多く金貨資本制であったから、多いに不便を感じた。そこで明治三十年十月、清国から受け取った償金があるのを幸いに金貨本位に戻ったのである。
銀は価値が常に高下して一様ではなく、本位貨幣としては適当なものではなかったから、これで世界の体勢に順応したわけである。
明治三十年三月二十九日交付の貨幣法には貨幣の種類を次のように定めてある。これがすなわち現行の貨幣法である。

金貨  二十円、十円、五円
銀貨  五十銭、二十銭、十銭
白銅貨 五銭
青銅貨 一銭、五厘
省2
459: ブログ転載 11/14(木)13:14 AAS
(三)通信交通の機関が備わる

維新以来、通信交通が進歩したことは既に述べた。その後の発展はまた著しく、鉄道においては私設のものも各地に敷かれたが、明治三十九年に至り、その重なる鉄道を国有とするという制度をとり、後大正九年五月には特に鉄道省を新設して、これが管理に当たることとなった。今や延長一万マイルを突破し、昭和四年度における国有鉄道の機関車数は実に四千二百輌を越え、その収入は二億八千万円を数えている。
電車がはじめて我が国で経営されたのは、明治二十八年の京都市街電車、それから三十年名古屋市、三十二年横浜市と順次大都市から起こり、明治四十四年には三百六十九マイルとなったが、昭和元年には一千六十マイルに達し、その乗客数は十七億百六十万人を数える。
この他に地方鉄道に電化鉄道があり、昭和元年七百十一マイルに及んだ。
自動車は明治三十年頃、横浜在留の一外国人が米国からオリエント号という蒸気自動車を購入したのがはじめだというが、明治四十年になってもわずかに十一台に過ぎなかった。それが大正元年に五百二十台、三年に一千台、昭和元年には四万七十台、昭和七年七万台というように発達している。
また乗り合い自動車の営業マイル数は四万マイルを越え、ガソリン臭がすべての交通機関を圧倒しようとしている。
交通の発達と共に郵便も発達をなし、昭和二年内国通常郵便引き受け数は四十八億六千万通、人口一人あたり七十九通、一戸一日につき一通よりも少し多い程になっている。
電信は次第に多く用いられるようになったことは言うまでもないが、無線電信(明治三十六年実用の確信を得た)によって万里の外とたちまち音信を取り交わし、また無線電話は明治四十年頃から研究したが、大正五年から実用に提供し、今日の盛況を見て、飛行機も、ようやく実用に提供されるに至った。
実に科学の進歩ははかりしれないと共に、社会がこの時から受ける便益は限りないであろう。
460: ブログ転載 11/14(木)16:01 AAS
p294
(四)学芸大いに興る

明治二十年頃までは、ただ欧米文化の輸入に没頭した。しかしこの間常に、国体の大義を培えとか、我に還れとかいう日本主義を説く者もいた。加えると明治二十二年憲法発布があり、二十三年教育勅語の御下賜があり、こうして二十年頃から二十七八年頃までは、むしろ国粋保存の色彩が強かったが、二十七八年戦役から三十七八年頃まではようやく自覚期に入り、洋学も国粋保存も、各その所を得て、文化は大いに興り、外国人が研究視察に来る者もまた少なくなかった。三十七八年日露戦後においては次第に自由に発展し、西洋文明の弊害も現れてきた時である。
こうした時代を背景として、学術も文芸も盛んになったわけであるが、学者の研究で欧米をしのぐものをあげてみるならば、二十七年コレラ血清療法を発表した北里柴三郎、大正十三年発疹チブス菌を発見した草間滋、その他青山胤通の医学、明治三十五年いわゆるZ項を発見した木村栄、その他平山信の天文学、明治三十六年原子構造論を発表し、大正十三年水銀から金を得た長岡半次郎、その他物理学の田中館愛橘、工業科学の高峯譲吉、地震学の大森房吉、東洋哲学の井上哲次郎、仏教哲学の井上円了、東洋史の那珂通世、国史の重野安釋など、碩学を多く排出して、もはや今日においては世界の学会に頭角を表し、受けることの多かった時代から、一転して与えることが多い文化国となりつつある。
文芸の方面では明治三十年頃の正岡子規をあげなければならない。子規は伊予松山の人、芭蕉の禅味ある雄大に加えるのに蕪村の豊艶の趣味をもって、独自の境地を開いて、俳句を改造した。

鶯の 湯殿覗くや 春の雨    子規
〔鶯が風呂を覗いているなあ春の雨の中で〕
雲の峯 水なき川を 渡りけり  同
〔山の峯のように高くそびえ立つ入道雲は暑くて水のない川を渡ったことよ〕
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり 同
省5
461: ブログ転載 11/14(木)16:20 AAS
p295
小説の方では明治十八年坪内逍遙の「小説神髄」によって写実を主とする小説が現れた。逍遙の「当世書生気質」はいうまでもなく、二十年に出した長谷川二葉亭の「浮雲」もそれである。二葉亭は言文一致の先祖といってもよい。
この新気運に乗って頭角を表した者に、尾崎紅葉・幸田露伴がいる。紅葉は東京の人、文章は西鶴に基づき、描写の態度は写実の脈を追ったものが多かった。二十六年の「伽羅枕」及び「心の闇」は代表作である。晩年には「金色夜叉」をも出した。露伴も東京の人、紅葉と同じく文章は西鶴に基づき、描写の態度も写実であったが、紅葉の客観的であったのに対してこれは主観的で、その構想の内には余程理想を加えたところがあったようである。明治二十五年に「五重塔」を出している。これらの人の態度には、固有のものに基づきながら新しいものを摂取し、己において融合して、独自の創作を出したところがあらわれている。明治における自覚期の作として相応しいものである。
462: ブログ転載 11/14(木)16:21 AAS
次に西洋文学の翻訳紹介に功があったのは、坪内逍遙・森鴎外などであるが、逍遙は特にシェイクスピアを紹介し、鴎外は主としてドイツ文学を翻訳した。
夏目漱石は英文学から出て、独自の天分をもって巧妙に心理描写を行い、「吾輩は猫である」を出したのは三十八年であった。
この写実主義の文芸から、やがて三十一年頃から日露戦争の終わる頃までは、個人的自覚が主となって、センチメンタルな方向に赴いてロマンチシズムを宣伝する力となった。詩歌の方がロマンチシズムの思想を守るのに適していたのだろう。
次いで三十六年前後から動きかけていた自然主義的傾向の作品が日露戦争の終わり頃から盛んになり、小杉天外・永井荷風・国木田独歩・田山花袋・島崎藤村などの先駆者を出した。
463: ブログ転載 11/14(木)16:21 AAS
活動写真は明治二十九年神戸や東京で、米国エジソンの発明に関係する覗き眼鏡キネトスコープの紹介があり、次第に盛んとなり、民衆娯楽には欠けてはならないものとなった。
こうして新旧は互いに交わって日本の文化は発展をしたものである。

※キネトスコープ=映画観賞装置
464: 11/14(木)17:06 AAS
好色五人男などを著した井原西鶴は古い文壇を壊した新進気鋭の句風で「オランダ流」「オランダ西鶴」と陰口を叩かれたが、本人は気に入って自分でもオランダ流の言葉を使っていた。
西鶴の著作の登場人物は金が好きらしい。本人も金儲けを肯定しているようだ。
オランダ流とは新しいものという意味だけしかないのだろうか。
そのままオランダのやり方、みたいな意味で使われてはいないんだろうか。
大本教の出口王仁三郎は円山応挙の子孫という。円山応挙にはオランダ人の血が入っているという噂。

何が言いたいかというと、文学でも絵画でも江戸時代からの日本のものを否定し、西洋の写実主義をあがめて日本文化を捨てた明治時代。
坪内逍遙が八犬伝を人間じゃないと否定して、写実文学を書いた露伴や紅葉が、わざわざ西鶴風文体を用いたのには西洋との関わりがあるのか?
夏目漱石が千円札になったのは英文学の紹介に一役買ったからだろう。
465: 11/14(木)18:54 AAS
ボストン美術館が“至宝の絵巻”を所蔵するワケ〈誰が「国宝」を流出させたか〉
2018年08月18日
外部リンク:www.dailyshincho.jp
466: 11/14(木)20:07 AAS
うちの犬の名前をヒロヒコに改名するか…
467: ブログ転載 11/14(木)20:07 AAS
p297
(五)美術工芸発達する

明治二十年頃ともなれば日本画も西洋画も各その所を得て発達するようになったことは前に述べた。
絵画は明治二十八九年頃から急速な進歩をなし、京都で開かれた第四回勧業博覧会には、画家は各大作を発表し、この時から日本画も西洋画も進歩して、日本画には日本画協会が起こり、西洋画には白馬会が起こった。しかも日本画が洋画の長所を参考して新しい画風を開く者もあり、西洋画が日本化する傾向も現れた。また明治四十年から政府の事業として文部省美術展覧会を毎年一回開き、大正七年まで都合十二回開かれた。翌年からは帝国美術院となり、大正十二年を除いては毎年開かれてきた。
民間の展覧会としては、日本画を主とした日本美術院、西洋画の二科会、春陽会・太平洋画会などがあり、日本画にして西洋画の傾向をもつ図画創作協会ができるなど、美術国として将来に期するところがある。
画家の方で芳崖や雅邦の復古的復旧は前に述べたが、文人画の直入、円山派の森寛斎・山本春挙、四條派の幸野楳嶺、その門人竹内栖鳳・上村松園なども有名である。雅邦の門人に寺崎広業・川合玉章の大家がいる。二十一年にできた美術学校では、雅邦や広業の指導によって第一期卒業生横山大観、第二期卒業生下村観山は出藍の誉れがあった。また西洋画家の方で、フランス国に留学していた黒田清輝、久米桂一郎の二人は帰朝した頃、明治二十九年に美術学校西洋画科が新たにおかれたから、二人は教授となった。二人は帰朝の後、日本美術にもよいところがあると言って感心したものであるが、清輝の画は挿絵にもあり、また「昔語り」は小督昔語りをあらわしたもので、清輝帰朝後の大作であると共に苦心の代表作であり、想においても深いものがある。次いで和田英作・岡田三郎助もフランス国から帰って美術学校で教鞭をとり新進を導いた。
この他川上冬崖の門に高橋由一・五姓田芳柳・山本芳翠・松岡寿があり、国沢新九郎の門に、浅井忠・本多錦吉郎・守住勇魚などあり、原直次郎の門に和田英作・三宅克己・木下藤次郎などあり、小山正太郎の門下に中村不折・満谷国四郎がいる。多士済々という様で、この時から美の本質を狙って新進大家がむらがり出て今日に至ったのである。
468
(1): ブログ転載 11/15(金)15:35 AAS
p298
彫刻の方は偶像彫刻も時代に合わないし、迷ったもののようであるが、唯一の活路は横浜開港であった。横浜が開港されると、欧米人が好奇心から、我が国の彫刻を求めるようになり、したがって我が国では各種の小彫刻があらわれた。明治十年頃まではこれ位のことで、大きな発展もなかった。明治十年の第一回勧業博覧会には象牙彫刻という新しいものが出て、十四年の第二回博覧会には、会場が雪が降ったように白く見える程であった。また我が国特有の木彫りも復興し、仏像彫刻その他に妙技をふるった高村光雲がいる。光雲の「鹿」が挿絵に出ているから、その解説において光雲を詳述する。光雲と共に竹村久一がいる。光雲の門下に米原雲海・山崎朝雲がいて名高い。
牙調家で木彫りを兼ねた人に石川光明がいた。明治三十年頃から西洋風の彫刻も行われ、材料としては大理石・銅・石膏を用いるようになり、朝倉文夫・北村四海などの名工が出ている。
建築方面では西洋建築がはじまったことは特筆すべきことであろう。明治三年龍の口に煉瓦造りが出来、五年に銀座改築、六年に工学寮ができた。この頃はまだ和洋折衷という方であったが、明治七年工部省が出来て、西洋建築の主なるものは外人の設計により、遊就館とか東大文学部本館とかが出来た。
その後ようやく日本建築家の手によって設計が出来るようになり、二十一年には東大工学部本館が辰野金吾博士によって設計された。博士は工科大学の前身である工部大学造家学科の第一回卒業生で明治十二年十一月に卒業した人である。博士の設計に関わるものはその他にも多数ある。同期の卒業生は片山博士と共に四名いたが、片山博士が二十七年設計されたものに奈良博物館がある。その後続いて邦人建築家が出て、主としてルネッサンス式の洋式建築が出来、近時丸の内ビルディングのように米国式四角な建物も出来るようになった。
この石材アーチ式の洋建築の中にあって、木造式の日本建築もまた失われないで二十五年工部大学卒業の伊東忠太を始めとし、塚本靖・関野貞その他によって古建築の真価をあきらかにし、これが修理を行うようになった。大正九年に出来た明治神宮は伊東博士の設計で千古不易の国民精神の表徴している。
その他染め織の術・陶器・漆器の製作など、いずれも洋風をいれて精妙を競うようになった。
469: 11/15(金)15:54 AAS
>>468
明治維新・廃仏毀釈で日本の貴重な文化財が流出、もう戻らない
2017.08.29
外部リンク[html]:www.news-postseven.com

「流出した日本美術の至宝」書評 海外の評価加わり、より豊かに
外部リンク:book.asahi.com

「モース、フェロノサ、ビゲローの収集家3人は、ボストンを世界一の日本美術コレクションの拠点にするという明確な意図のもとに収集を始める。
流出には日本人も加担していた。山中定次郎と林忠正の2人の美術商。醜聞で野に下った岡倉天心もボストンに美術品を持ち出す。」

※この本の作者は美術品を海外流出させた方が知名度が上がるから得策という考え方の人間。アメリカ人とその手先になった日本人を擁護して、流出を功績として評価している風潮は今も続いている。
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