【日本史】GHQに焚書された書籍 (532レス)
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14: 09/08(日)00:16:06.72 AAS
(2)指導要領
「安土桃山時代の発展的な気分はどうして生じたものか。そしてどんなところへ表れているか。」このような事がこの教材の中心問題となるだろう。
発展の認識が中心となる教材だから、歴史性の豊富な教材である。
どうしてかというと歴史は「発展」の認識をおいて他にないからである。
海外発展は我が国現下の重要な問題であるから、考現的学習をするように注意せねばならない。
秀吉の対外方針によって、侵略心を養うのではなくて、愛国心を養うのである。愛国心はウブな罪なさにかえる時に正しいものである。愛国的なものは同時に国際的でなければならぬことを考察させたい。
本課は宗教のこと、学問のこと、経済のこと、芸術のことなど、多くの文化学習に触れるのであるが、よく吟味して理想はどこに置くべきかを常に考えさせなければならない。
できるだけ文化学習に適当な環境を整理することと、労作的に学習させることは特に必要である。
また前代の絵画と当代のそれと比較するとか、彫刻の比較をするとか、おおよそ比較法を多く採用するがよい。
特に前代の乱世と当代の文化的治世とを比較して、文化生活への憧憬、文化的奮闘心の養成をなすべきである。
31(1): 09/10(火)19:24:23.72 AAS
(二)家康との貿易
家康はまた明との貿易を修めようとして、慶長十五年、本田正純を使って書を福建総督に贈らせたが、答えを得ず要領を得なかった。
この時から、まず家康は琉球王を使って、我が国と明との貿易を周旋させようともした。琉球王はこれに応じなかっただけではなく、入朝を促したがこれにも従わなかった。
琉球は室町時代から薩摩の島津氏に属し、また一方明に入貢して封冊を受けていたのであるが、ここに至って慶長十四年、島津家久を使って琉球を征させた。島津氏はなお寧王以下百官を人質として連れ帰った。
二年ぶりでこれらを帰したが、この間に薩摩では、十分に琉球経営の方針を確定した。つまり琉球に薩摩のことを「お国元」と言わせながら、琉球王国を立て相変わらず支那の封冊を受けさせ、薩摩は貿易によって利を占められるということであった。この頃琉球へは支那からサツマイモの移植が行われたので、ようやく糊をしのぐことができたという程薩摩方面へ搾取されたわけである。
琉球はこの頃からの両属政策が、民族性にも影響したということである。しかしこの両属政策によって極度に貧困の苦痛をなめながら、海南の小天地に三百年の太平を保つことができたのである。
こうして明との修好はついに成功することはなかったが、しかしかの商人は毎年長崎に来て貿易を営み、のち、我が後西天皇の御代寛文元年(二三二一)明は二十世二百九十四年をもって亡び、清が興るに及び、清もまたもとのように通商をしていた。
明が滅ぶやその遺臣に鄭芝龍がいる。もっぱら明の回復を図り、助けを我が国に求めたが、幕府がこれを助けるということとはならず、その後、鄭芝龍の子、鄭成功、母は平戸の人で明主唐王から国性朱氏を賜って、朱成功といったので国姓爺(コクセンヤ)とも言ったが、彼は最初福建省廈門(アモイ)に拠り、次いで明の王族魯王を奉じて台湾に赴き、オランダ人を追い払ってこれを占領し、助けを幕府に願ったが幕府は応じない、彼はついに志を得ずに死んだ。彼の孫に至って清に降った。台南の開山神社は国姓爺を祀り、県社である。もってその忠魂を慰めている。
227: 10/03(木)16:41:40.72 AAS
p14(八)信長・秀吉の民政
信長は入京するや、まず兵士に命じて皇居を護らせ、また市中の乱暴狼藉を取り締まり、市内は静謐に帰したので、人々は大いに心服した。また当時は私関が多くて通行税を徴発するという習わしがあったので、信長はこれを廃止し、さらに諸国の道路を修繕して、道の両辺に松柳を植え、交通を便利にし、都市百姓の諸役を免じ、折々馬揃・相撲などを催して武芸をすすめ、その他一芸一能ある者は必ずこれを優遇した。
秀吉はまた天正十五年に、銀銅を使って天正通宝を鋳造する。十六年には大判小判を鋳造してこれを流通させた。
我が国の貨幣は村上天皇以来中絶し、室町時代には永楽通宝など通用していたのであるが、ここに至って本邦貨幣が復興した。
秀吉は天正十七年聚楽第に金銀三十六万五千両を積み上げて、これを一族公卿諸将に分配した。これを「金賦」といい、秀吉の遺品分であり、財力の豊富を示したのであり、民政に注意したのである。
大茶湯は天正十三年のことであるが、北野の松原に八百以上の茶席を設け、風流に志ある人々を広く国内でつのって大茶湯を催し、士民と共に楽しんだことは挿し絵解説においても述べる。寒夜静かに渋茶を方丈ですった室町の風情と相対比して、豪華な桃山時代の風尚に接することができると共に民政に心を用いた例証にもなる。
職制も次第に整い、前田玄以は京都の市政及び社寺のことをつかさどり、長束正家は財政、浅野長政・増田長盛・石田三成は訴訟その他の庶務をつかさどり、これを五奉行といい、のち更に徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初小早川景勝)の五大老、または生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴の三中老などおかれて大事を議することとした。
こうして京都を洛中洛外へ区画し、御土居をつくって境とし、大いに市街の整理復興に努め、また全国に検地を行い、曲尺六尺三寸四方を歩とし、在来の三百六十歩一段を改めて三百歩を一段とした。十段を一町、三十歩を一畝としたのである。
鎌倉以来、貫高を使って田地をはかったのに対して、石高を使ってするようにしたのを「天正石直」とも「文禄検地」とも「太閤検地」ともいうのであるが、この時には全国は一八二五万石になった。
※馬揃=騎馬を揃えて優劣を競い合う
省2
246: 10/05(土)16:23:47.72 AAS
p174 第四十六 辺境の開発 隣国との修好
学習目的
明治維新が成功し内地がだんだん整頓するにつれ、北海道拓殖の業は進み、千島樺太交換のことは決し、台湾事件を経て支那と修好し、琉球問題も解決し、江華島事件を経て朝鮮と修好し、こうして我が南北の辺境は整理開発され、隣邦とは次第に親密の度合いを加えるに至った次第をわからせ、国家的発展を中心として認知感得をさせる。
学習事項
(1)北海道の開拓
省2
269(1): 10/06(日)22:33:20.72 AAS
>>268
慶応二年1866正月探索書控え
(略)昨夜フルベッキより内話を極密に承け取りました。右の段に記し上げ差し上げます
去る七日、(英国の)大軍艦が薩州へ出航の期日は、アトミラール、ミニストルの二人からフルベッキへの書状を越猿がお知らせ申し上げるとのことで、前に述べた人(フルベッキ)は、来日後の年数は久しくあります。多分に日本士人へも互いに交際します。
事故当時の形勢に付き承って居ります。理由もこれは当然有るはず。諸事承りたいとの旨とのことで、話して寄越しますゆえ、フルベッキから返答致すとのことで、この人の意見は、理由が有ると。
ながながと事情を書き記し、ただちに英国女王殿下へ手紙で説明して納得させるとしても、今しばらく形勢を観察の上と存じ、差し控えて居り申します。もとより事情、これを見聞きされ、理由これが有ります間、こちらへ伺いご承諾されますよう返答に及びます。
よって同八日ミニストル、アトミラ−ルならびに領事館が承ります間、フルベッキが道理を説き明かすことの大概は左の通り(略)
六月十一日
道家角左衛門様
??荘村助右衛門/肥後藩国事史料巻六
省1
288: ブログ転載 10/10(木)20:23:16.72 AAS
※難去者は去りがたい者?
314: 10/13(日)16:42:39.72 AAS
ペスタロッチはイルミナティの支部の共同設立者
その後興味を失ったというけれど…
「1783年、啓蒙主義の先駆者たるペスタロッチはイルミナティ教団チューリッヒ支部の共同創設者となり(彼の教団名はアルフレッド)、1784年にはフロント組織であるチューリッヒの「善良なる人々の協会」(Gesellschaft zur Aufnahme des Guten)の共同創設者となった。しかし、彼は比較的短期間でこの関係に興味を失った。」
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
スクショ
画像リンク[jpeg]:i.imgur.com
415: 11/04(月)08:04:13.72 AAS
p246 第五十二 北清事変と日英同盟
学習目的
北清事変の始めから終わりより、第一次日英同盟が締結される次第を学習し、我が国が東洋平和の中心であり、世界に重きをなすに至った国家的発展を主として、認知感得させたい。
学習事項
(一)諸外国は清国に利権を求める
省3
416: 11/04(月)15:09:39.72 AAS
野心を包蔵しながら列強の意向を憚っていたロシア国は、これを視て、直ちに軍艦を派遣して旅順口を占領し、清国がドイツに許したと同じ条件で、旅順・大連の租借を要求した。英国はこれに抗議を申し込んだが、結局三十一年三月二十七日、期間二十五年で租借条約が成立した。
こうしてこれを放任する時は、ついに列国の清国分割という勢いに導かれるであろうとも見られたので、米国政府は清国の領土保全と門戸開放との必要であることを宣言し、三十二年九月には、英・露・独・仏及び我が国に同意を求めた。清国の内地を開放して列国通商の公市場とし、かつ清国の領土の保全を原則とする主意であったから、列国は直ちにこれを受け容れたが、北清事変勃発のために一の空文に帰してしまった。
(二)義和団の乱
だから清国民の間には、これら諸外国の圧迫を憤る者が多く、したがって排外の思潮が強く起こり広がるようにして巻き起こった。ちょうどその時、明治三十二年三月山東省の一角に、義和団または拳匪と称する一団が現れた。彼らはいずれも義和拳と称する一種の体術を備え、これがあれば弾丸も刀剣もその人の身体を傷つけることができないと言い、保清減洋を標榜して、キリスト教徒を虐殺し、教会堂を壊して勢いを逞しくした。翌三十三年四月から五月にかけては、直隷省においてあらゆる乱暴狼藉を加え、天津の外国人居留地を襲い、やがて官兵も加わって北京を囲み、ドイツ公使ケットレル及び我が国の公使館書記生杉山彬を殺害するに至った。
452: ブログ転載 11/12(火)17:08:29.72 AAS
p285
こうして明治十五年一月四日明治天皇から陸海軍人に勅諭を賜る。その勅諭においては「朕はなんじら軍人の大元帥であるぞ、だから朕はなんじらを股肱と頼み、なんじらは朕を頭首と仰いでその親しみは特に深いに違いない」とおっしゃられ、
一、軍人は忠節を尽くすことを旨としべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尊ぶべし
一、軍人は信義を重んじるべし
一、軍人は質素を旨とすべし
と諭され、「右の五ヶ条は軍人であるだろう者はしばらくもおろそかにしてはならない。さてこれを行うとしたらそれには一つの誠心こそ大切である」とねんごろに教えなさる。なおこの勅諭中に「この五ヶ条は天地の公道、人倫の常経である」ともあるから、軍人がこの勅諭を遵守するのはいうまでもなく、一般人民も共に忘れず守るべきことは、あたかも教育勅語のようなものである。
この時から次第に軍備は充実されたが明治二十一年になると、親兵・鎮台を廃止して、近衛・東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の七師団を置いた。
兵式は明治の始めフランス国式に則ったといっても、これは活眼をもって比較研究して採用したものではなく、旧幕府に近づいたフランス国の式が、ここに延長されたもの、加えるとナポレオン三世が欧州に時めいた時であるから、それ以後もこの式によったのであろう。そのうちに陸軍卿大山巌が川上操六・桂太郎・野津道貫・三浦梧樓など十四名を率いて欧米を視察し、十八年に帰朝し、この時からドイツ式に代わり、これによって訓練した兵が日清戦役で働いたわけである。戦役当時は兵員二十二万、野砲は約三百門もあった。
省3
474: ブログ転載 11/16(土)13:04:53.72 AAS
p303
(2)指導要領
この教材などは高等科独自のもので、少し時間を余計にかけても、詳しく取り扱っておきたいものと思う。
各種文化の内容、その発展経路をわからせるばかりでなく、その奥底を流れる思想の体勢を掴ませ、これを善導して、将来の児童を導かなければならないと考える。結局は「世界文化に貢献できる日本独自文化の創造」ということを展望させたいものである。
国防と平和、物質と精神、自然科学と精神科学、現実主義と理想主義、写実主義と観念主義、個人主義と協調主義、洋と和、外来と固有、これら相対する生活を一元に繋ぐ新しい生活を発見させるところに、この教材取り扱いの要点があるように思う。
取り扱いとしてはまず郷土の文化現象に着眼させる。その他の環境の力をも使って現生文化史的考察に遡ればそれでよい。この考えで指導していけば、現在及び将来とかけ離れることはなかろう。労作的に取り扱う部分も甚だ多い。いつも児童自ら何をなすかに注意を払うことが極めて大切である。
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