[過去ログ] 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)50【ダメ工作員】 (373レス)
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186: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:00 ID:BdtTryWp0(134/227) AAS
いる。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)
」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置さ
れている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に
、石造りの祠が設置さエムゾネれている。写真祠の写真A4須走口
登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅
間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿
は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の
規模である。その際、御エムゾネ室浅間神社を合祀した。神社の前
には鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝
殿、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志
省18
187: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:06 ID:BdtTryWp0(135/227) AAS
至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自
然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立
入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素
が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5?
、天照教社の西南西約エムゾネ1?の地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは
188: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:07 ID:BdtTryWp0(136/227) AAS
山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の
登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場
所にあったが、雪崩によって流されてエムゾネ別の場所に転がって
いたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。
日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉
田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口
登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点エムゾネとし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田口
登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から
省18
189: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:12 ID:BdtTryWp0(137/227) AAS
の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭
和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた
という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口
登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に
約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ
る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平
坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸
時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま
省18
190: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:12 ID:BdtTryWp0(138/227) AAS
れを烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称される食行身
禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐
国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小
屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝スエムゾネ」と
あり、江戸後期にはすでに身禄の聖地として信者が登拝していた
ことがわかる。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真
烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要
191: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:17 ID:BdtTryWp0(139/227) AAS
年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見
つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ
った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動
明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧
本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有
来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる
。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈
によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7
号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置
省18
192: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:17 ID:BdtTryWp0(140/227) AAS
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのエムゾネつ
ながりが強く1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄
進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神
社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。エムゾネ
富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である
。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点などが
ある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守エムゾ
ネ成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
省18
193: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:23 ID:BdtTryWp0(141/227) AAS
でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡
の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した
ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して
いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(
標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である
。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を
通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登
山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ
ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな
省18
194: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:23 ID:BdtTryWp0(142/227) AAS
、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49−写真西宮本
殿の写エムゾネ真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富
士山を遙拝した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所
と位置づけている。さらに、788年には新たに浅間明神を建て
、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられ
る。現在エムゾネこの地は、流山状の小高い丘をなしており、日本
武尊を祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図
・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日
にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読ま
れる祝詞のエムゾネ一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる
省18
195: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:29 ID:BdtTryWp0(143/227) AAS
神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に
ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀
した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地
を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御
岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9
合目(3,570m付近)に建てられている。かつては
196: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:29 ID:BdtTryWp0(144/227) AAS
浅間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の
北側にある丘陵地一帯エムゾネは神立山と称される。神立山及び富
士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩
流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積
物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため
指定地内の一部では溶岩エムゾネ礫が露出し、縄状溶岩も散見され
る。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿
いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(16
70)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物
が描かれ、発掘調査で石畳エムゾネや護摩堂跡が確認されている。
省18
197: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:35 ID:BdtTryWp0(145/227) AAS
、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ
冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170
3)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師
之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに
祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手
向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久
須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以
前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物
の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「
日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ
省18
198(1): (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:35 ID:BdtTryWp0(146/227) AAS
造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。
1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟エムゾネ造、2階上層は桁行
3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40年(
1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定
され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿
全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平エムゾネ面図(幣殿・拝殿
含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁
199: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:40 ID:BdtTryWp0(147/227) AAS
構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設
や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから
急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ
の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地
ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の
周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、
登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登
山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写
真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ
の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役
省18
200: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:41 ID:BdtTryWp0(148/227) AAS
の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれて
いないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひ
はだぶき」と書き込まれており、本殿の全エムゾネ景がよく見える
ように描かれたと推測される。県指定文化財として保護されてい
る。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっ
ている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面
に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らエムゾネせ、背面は幣
殿に接続している。県指定文化財として保護されている。[透塀
]本殿周囲を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七
之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延
省18
201: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:46 ID:BdtTryWp0(149/227) AAS
の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を
起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や
吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著
な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など
がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守
成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装
省18
202: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:47 ID:BdtTryWp0(150/227) AAS
石造りの橋が架けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山
宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵図で
は橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向エムゾネ
かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の絵
図には既に描かれているが、大正4年(1915)に石造りに改
められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図
・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、護摩堂跡エムゾ
ネと考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出された。
石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。また、
石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎石が確認された。
省18
203: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:52 ID:BdtTryWp0(151/227) AAS
こを浅間明神の創建にかかわるエムゾネ場所と位置づけている。さ
らに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、
大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は
、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てら
れている。写真大塚山の写真図大塚山のエムゾネ図・御鞍石吉田火
祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石
上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる
204: (ワッチョイ 560c-KRCF) 2018/01/29(月)19:53 ID:BdtTryWp0(152/227) AAS
石段には、鉾立石が置かれている。明治の初めまで行われていた
山宮御神幸の際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・
欄干橋(神路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けら
れているエムゾネ。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、
寛文10年(1670)の絵図では西側にのみ架けられている。
写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石
鳥居から参エムゾネ道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流
上に展開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶
岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子
省18
205: (ワッチョイ 560c-EzTQ) 2018/01/29(月)19:58 ID:BdtTryWp0(153/227) AAS
一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の
写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点エムゾネ在してい
る平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの
富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対
象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸
術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要エムゾネ
素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8
精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖
を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている
省18
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