★あとはよろしく (379レス)
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125: 06/12(水)11:16 ID:zxbLDsqp+(6/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・37

 16〜17世紀のヨーロッパ戦争は、個々には、宗教的対立でカトリック対プロテスタン
トという対立が軸となっても、基本的な性格は、王位継承権による領土問題だったのだ
。ここで問題は、プロテスタント国であるプロイセン公国は、このときカトリック国で
あった事だ。オーストリアを支援し、その功績で、神聖ローマ皇帝からプロイセン王国
となることを認められていた。しかし、その支援したオーストリアの皇太子次期王様が
暗殺されたのである。ドイツが狂う事は当然だった。プロイセン公国からドイツ連邦に
なって、これからと言う時だったからだ。これまで、米国が台頭する前は、戦争という
のは、この宗教対立を解消したフランス+スペイン連合に対して、イギリス・オランダ
・オーストリアの同盟という、ヨーロッパを二分する陣営で戦われていた。が、同時に
省15
126: 06/12(水)11:18 ID:zxbLDsqp+(7/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・38

 即ち、地中海防衛のフランス海軍の優位性や独占権を認め、大西洋航海の英国の覇権
主義や海賊行為を認める。といった協定である。しかし、納まらない国がスペインであ
り、ドイツだった。モロッコ分割に、遅れて手を出し、新たな植民地帝国を目指した。
と言うドイツのヴィルヘルム2世は、フランスの同盟国ロシアが、日露戦争で苦戦して
いる形勢を見て、ヴィルヘルム2世は1905年3月31日、自らモロッコのタンジールに
上陸してスルタンと会見し、フランスのモロッコ支配を牽制し排除を願い出た。第1次
モロッコ事件(タンジール事件)である。これは「モロッコ問題」という、国際紛争と
なり、翌1906年にアルヘシラス会議が開催され、モロッコ国王も参加した上で、列強は
機会均等・門戸開放と共に、モロッコの主権尊重を取り決めた。がこれは、実質的に、
省14
127: 06/12(水)11:31 ID:zxbLDsqp+(8/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・39

 第一次大戦は、このドイツの孤立から始まっている。気が付けば、ドイツは孤立して
頼る国は、隣国オーストりアしかなく、欧州の食糧庫の、東欧も取られそうになった。
1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争は
じわじわと始まった。帝国主義国家の大国の、ドイツ・オーストリアが中心の同盟国と
イギリス・フランス・ロシアを中心とした、条約提携国、即ち協商国の二陣営に分かれ
、ヨーロッパを主戦場として戦う事になった。これは、ひとえに、敵国だったロシアや
イギリスと、フランスが相互防衛協定即ち、戦う時には味方する。と言う条約による物
であった。根本的な要因は、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こっ
た帝国主義戦争であったが、主因としてはバルカン問題における オーストリアとセル
省13
128: 06/12(水)11:41 ID:zxbLDsqp+(9/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・40

 第一次世界大戦中のスペインは、往時に植民地主義の開拓者で、国内には民族統一の
意志は既になく、国内が参戦し割れる事を恐れて、中立政策をとりました。スペインは
1914年〜1918年までの、大戦を通じて中立を保ち、国内の経済的困難にも関わらずに、
「1915年までにヨーロッパで最も重要な中立国の一つ」とみなされていた。また、スペ
インでは、共和制が宣言され、国王アルフォンソ13世に退位を迫られた時期もあり、既
に共和制の議会派と、伝統的国王に頂点をもつ王党派が、四つ組みになって、対抗し、
分裂していたのだ。スペインの歴史には、先史時代から古代、中世、近世、近代そして
現代に至るまで、さまざまな要所々々の時期に顔を表す大国である。ローマ帝国支配、
ウマイヤ朝の到来、レコンキスタ、フランコ体制など、興味深い出来事の数多くの先鞭
省14
129: 06/12(水)11:42 ID:zxbLDsqp+(10/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・41

 最初のスペイン風邪のウイルスの発生は1918年3月の米カンザス州だと考えられてい
る。米国では1917年4月の参戦以来、徴兵制が敷かれ、全米中の田舎からの若者たちが
、訓練所に集められ鍛えられた。しかし、全米に数多く作られた訓練所の宿舎は、急ご
しらえの上に、詰め込みで、ウイルスが伝染する環境としては、かなり、適していた。
こうして、ウイルスを持った若者までもがやって来て、訓練を終了した順にヨーロッパ
の戦線へと、船に乗船し派遣されていった。3月の時点では、すでに25万人の米兵が、
欧州に渡り、本国では138万人が、渡航のために待機していた。が此の時、ウィルソ
ン大統領の理想である「自由と平和」を希求するはずの戦士達に、異変が起る。皮肉に
も病気の運び屋となっていた上に、船内がこの病気の培養所と化して、船旅にでたので
省11
130: 06/12(水)11:45 ID:zxbLDsqp+(11/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・42

 英国でも、1918年6月に軍港の街であるポーツマスから始まり、、ロシアででも同月
に、白海のムルマンスクに派遣された米軍によってウイルスが持ち込まれた。アフリカ
でも、石炭補給の港町であるフリータウン(シエラレオネ)から、アジアではインドの
ムンバイ、コルカタ、そして中国内陸部奥深く重慶まで達していた。米兵だけが運び屋
なわけではなかった。当時の日本は軍備軍拡に向けて、ドイツに将校養成の海外視察を
させていて、留学者も多かった。そこで日本でも、洋行帰りの多い陸軍で1918年6月に
陸軍の各連隊宿舎で広がりを見せ、『大阪毎日新聞』がスペイン風邪の記事を掲載した
。また1918年の大相撲夏場所では風邪による休場が目立ち「相撲風邪」とも言われた。
世界に広がったスペイン風邪の流行は3波にわかれて進んでいた。最初の第1波での、
省11
131: 06/12(水)11:57 ID:zxbLDsqp+(12/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・43

 米国では1918年10月24日に、戦費調達のための第4次自由公債の募集が計画されて、
9月から、全国で募集のためのパレードや演説会の集会が催され、大勢の人が集まった
。こうしたパレードが米国民間人にウイルスを拡散させた。と考えられてもいる。この
ウイルスでの病気も、かくして当初は小康状態になった後、次の年1919年2月には、大
きな第3波が伝播(でんぱ)して行き、米国国内では、翌1920年4月までに55万人が死亡
したのだ。また米兵の、戦場での戦死者は 11万人とされているが、その半数は戦争の
敵弾によってではなく、スペイン風邪によって死亡した。と考えられている。ところが
1920年の半ばになると、この世界を震撼させた恐怖のウイルスは、不思議にも 正に、
音もなく、跡形もなく、消え去ったのであって、人々は流行感冒のみを気にするのみ。
省15
132: 06/12(水)12:00 ID:zxbLDsqp+(13/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・44

 大戦前にドイツはアフリカ進出のためにアフリカ地域のモロッコに目を付け、1905年
、1911年に、モロッコ事件を起こしている。しかし、この事件で逆にドイツは譲歩を迫
られ、フランスのモロッコを保護領、保護国化することが認められ、撤退が決まった。
こうした事で、この領土拡張の欧州侵略の矛先は、バルカン半島一点に向ってしまう。
当時の、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われており、オスマン帝国の衰退と共
にセルビアなどの小国のナショナリズムが、高揚していた。ここに稀に見る不作が生じ
ていた。知っての通り、この東欧の地は、殆どの国の食卓を飾っていた。ロシアは大国
ではあったが、近代化が遅れ、度重なる戦争で、多くの債権を出し、アメリカ同様に、
戦時国債の支払いに、小麦輸出をして賄っていた。こうして国民は食えず、地権者たる
省12
133: 06/12(水)14:00 ID:zxbLDsqp+(14/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・45

 このヴィルヘルム2世の世界政策は、海軍力を増強してイギリスと対抗するだけでな
く、新たな帝国主義政策にあった。それは、ベルリンから、イスタンブル(ビザンティ
ウム)そしてバグダードを結ぶ鉄道建設構想であり、それは3B政策と言われた。これ
は、ドイツの中東進出しようとするもので、イギリスの海の航路を呼んだ、3C政策(
アフリカ〜インドの帝国主義支配)に、対抗する名称であろう。この世界政策では、西
アジアに帝国主義的進出を進めていたイギリス3C政策と対立要因となって強く対抗策
が取られる事となり、第一次世界大戦をもたらした。ナチスドイツで、ヒットラーは、
よく第三帝国と言う言葉を発したが、カイザーヴィルヘルム、すなわち、ヴィルヘルム
2世(1859年〜1941年)は、産まれながらにして、第9代プロイセン国王、第3代ドイ
省12
134: 06/12(水)14:01 ID:zxbLDsqp+(15/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・46

 ビスマルクは「現下の大問題は言論や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ
解決される」――これが1848年、49年の大きな間違いであった――という有名な
演説を行った。この演説は「鉄血演説」、それ以後のビスマルク政策は鉄血政策と言わ
れ、ビスマルクにも鉄血宰相の名称が付けられた。しかしこの第3代ドイツ皇帝に即位
し、祖父ヴィルヘルム1世の時から仕えていたビスマルクとは、折り合いが悪く対立し
た。ドイツ統一の実質的な立役者でもあり実力者で「ビスマルク外交」といわれる絶妙
なバランス感覚の、外交手腕を発揮して、欧州に平和をもたらしていた。が、1890年、
ヴィルヘルム2世はそのビスマルクを辞任に追いやって親政を始めた。ところがすぐさ
ま行き詰まり、危機を招いてしまう。つまりドイツが望んだ、独露との再保障条約更新
省14
135: 06/12(水)14:06 ID:zxbLDsqp+(16/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・47

 ドイツの戦争の主導権は参謀本部の手に委ねられ、内政は議会多数派が実権を握り、
ヴィルヘルム2世はそのいずれでにおいても実権を奪われていた。それでも、ロシアの
革命に乗り込んだユダヤ人達、つまり、民衆蜂起によってロマノフ朝を倒した革命で出
来たブルジョワ権力である臨時政府との交渉に行って、北欧東欧を、ドイツの手中に、
治める交渉に成功していた。しかし、同時に並んで、1918年、アメリカ大統領ウィルソ
ンの書簡で休戦提案(14箇条)が発表され、急速に軍の戦意が落ちていた中、さらに
11月、キール軍港の水兵反乱から社会民主党左派によるドイツ革命が勃発していた。
暴動が起こると、ヒンデンブルクとルーデンドルフらが、政権画策し社会民主党の穏健
派エーベルト代表権にまかせ、イギリス・フランスとの講和を有利にするために、ヴィ
省13
136: 06/12(水)14:07 ID:zxbLDsqp+(17/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・48

しかし、ヴィルヘルム糾弾が結局実施されなかった事で、責められ蹂躙されたフランス
国民は大いに怒った。そして、国際世論も戦争責任の追及よりも、賠償金の額や領土の
獲得へと移っていくのである。知恵と勇気と、辛抱をもって努力しても、低地・平地の
諸国のように、国土の地勢が不利では、たちまち侵略にあってしまう。諸国はスイスの
ような山岳を持たず、かつドイツにとって重要な交通路にあたり、そのため厳正な中立
政策をとったのに、あえなく蹂躙された。又山の存在するスラブの地も、中立政策は、
維持することも至難だが、運にも国土の地勢にも恵まれていなければ守れない。という
ことでも、民族の自立を願い、数々の東欧諸国が産まれ、国際社会に独立を宣言してい
った。しかし、ここで、派遣されていたロシア兵が、母国に戻って、ソビエトには、更
省13
137: 06/12(水)14:09 ID:zxbLDsqp+(18/18) AAS
  中立のリアル・・・・・・・49

 こうして、ドイツが第一次大戦を終わった後に、フランスは法外な賠償金をかけたし
、アメリカは、これ見よがしに投資資金を貸し付け 最新鋭の工場を建てて、労働者の
就業に貢献した。そして、左翼リベラルな新興資本家が、保守転向し元祖ネオコンとし
て世界を動かす。英国は、そうした技術への投資や技術進展の結集に大いに賛同して、
諜報活動をしての技術収集に邁進した。本来、ドイツでは、兵器は造れない条約だった
。しかし隠れて戦車や砲弾を、ソビエトに発注していた。先のレーニンがドイツ経由で
亡命した様にロシアとは、とても近い存在だった。その上に、この 世界の工場施策に
よって、こうした国際条約違反しても、経済封鎖とは出来なかったのである。ここで、
スペインのフランコ将軍が登場する。本名はフランシスコ=フランコ=イ=バーモンテ
省12
138: 06/14(金)04:54 ID:+sLCpRey2(1/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・50

 フランスでは第一次世界大戦後にフランス社会党から多数派がフランス共産党として
分離し、コミンテルン支部として活動した。この両者は、社会主義政党でありながらも
、路線をめぐって激しく対立している。特に1928年にはスターリンとコミンテルンは、
「社会ファシズム論」をかかげ、「社会民主主義」路線は資本主義ブルジョワ達の政治
権力に協力するファシズムの一形態にすぎない。と批判した。「社会民主主義」は暴力
革命を否定して、議会制民主主義の枠内での 政権獲得による社会改良を目指す路線と
してあった。しかし、産党はそれらとの、階級的な戦いを強めることを、社会共産党に
指示したため、ますます激しくなった。選挙にて、レオン=ブルム内閣だった。ブルム
ははじめは文学者として出発した政治家だった。ジョレスと知り合ってフランス社会党
省15
139: 06/14(金)04:54 ID:+sLCpRey2(2/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・51

 隣国フランスの、この共和制や議会民主主義の流れが、頑なにブルボン王朝スペイン
にやって来る。フランコ体制の前の内閣は、ブルボン王朝支配の末裔である。現代では
「主権国家」と呼ばれる国家で、言い換えれば、主権と領土が明確になっている国家で
独立国家であるが、かつて中世時代には、領土は関係なく神聖国家と言う仕様だった。
中世ヨーロッパの時代は、国家は存在した、国王や皇帝の力は強くなく、それ以上に、
教皇や権威のある他国の王や、地方にも実力をもった諸侯がいた。王の権力の届かない
そういう領土と言うものと、国家の法制の効く部分とは、必ずしも一致しなかったのだ
。こうした中世の領首王に比べ、圧倒的な権力を誇った王政を「絶対王政」、または、
絶対主義といい、主権国家を築き上げる事が理想となった。カルロス1世は、1516年に
省11
140: 06/14(金)04:55 ID:+sLCpRey2(3/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・52

 当時のフランスは、ヴァロワ王朝、即ちヴァロワ家のもとで、既に国家統一を成し遂
げて、治世が施されて平和だった。しかし、そのフランスにも、大きな脅威となる存在
になったのが、隣のハプスブルク家であった。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の支配
地(ドイツ)の皇帝を輩出し、さらにフランス付近のネーデルランドなどの領土も獲得
していた。フランスにとっては目の上のタンコブである。そこでフランスはイタリアの
占有に入った。その頃に、イタリアは大きく経済発展していた。その為政治分裂抗争を
繰り返している状態となった。イタリアの高い経済力に目をつけて1494年、フランスの
国王シャルル8世は、イタリアに侵攻。しかしこれは、教皇や神聖ローマ皇帝らが同盟
を結び対抗し大きく失敗する。広い意味でのイタリア戦争はこの1494年から始まった。
省16
141: 06/14(金)04:55 ID:+sLCpRey2(4/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・53

 さて、このスペインは、いち早く、現代の様な主権国家となって、皇帝の元に、中央
集権化されていったので、国王の手足となる官僚と、徴税や地方行政、常備軍が揃い、
情報判断と責任が、国王の元に決定されたのであった。こうなると、国内は整備されて
国外にその敵を見出すのは常であった。1538年にオスマン帝国に戦いを挑んで行くが、
敗れてしまう。プレヴェザー海戦である。スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇の連合
艦隊は、簡単に オスマン帝国に敗れてしまいました。その結果、地中海の制海権が、
オスマン帝国にもっていかれてしまう。1538年、オスマン帝国のスレイマン1世は
、オスマン帝国海軍が一番強い時代だった。、スペイン(カルロス1世=神聖ローマ帝
国カール5世)・ローマ教皇・ヴェネツィア共和国の、連合海軍を破り地中海の制海権
省10
142: 06/14(金)04:56 ID:+sLCpRey2(5/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・54

 この敗戦で、1556年にカルロス1世は、政界から引退し、弟であるフェルディナント
に神聖ローマ帝国の皇帝を、息子のフェリペ2世にスペイン王位を譲った。この判断は
的確で、カルロス1世の息子の、フェリペ2世の時代は、スペインは大西洋に出て行き
、最盛期を迎えるのだが、実はその前に1571年にはレパントの海戦で、スペイン、ロー
マ教皇、ヴェネツィアが、再度オスマン帝国に挑んで、勝ってしまう。父親カルロスが
成し得なかったオスマン帝国撃破と言う快挙を成し遂げたのだ。スペインでは、レコン
キスタで、征服されキリスト教に改宗した元イスラム教徒(モリスコ)が、この頃に増
えて、スペイン南部のグラナダで反乱を起こした。反乱軍が、オスマン帝国に援軍を求
めたことで、スペインはオスマン帝国との対決を決意。キプロス陥落を知った ローマ
省11
143: 06/14(金)04:57 ID:+sLCpRey2(6/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・55

 午後1時過ぎ、中央部の戦いで、司令官アリ・パシャが戦死し、総司令官の戦死で、
浮足立ったオスマン帝国軍は、敗走を始めた。これを見て、ほぼ無傷だった、ウルグ・
アリの艦隊も、戦場を離脱し、戦いは連合艦隊の勝利に終わりました。この戦いでは、
勝者・敗者とも多くの犠牲を出した。連合艦隊の、戦死者は7000名以上、雄間艦隊も、
5000名以上が戦死したとされる。つまり大砲が飛ぶ以上に弓矢や槍・鉄砲が主役だった
と言う事になる。指揮官クラスでは、連合艦隊ではヴェネツィア海軍のバルバリーゴが
戦死。オスマン帝国側は、総司令官のアリ・パシャが戦死、シロッコことマホメッド・
シャルークは捕虜となって3日後に死亡。レパントの海戦での敗北は、それまで快進撃
を続けてきたオスマン帝国軍にとって初めての大敗北となった。これまでオスマン帝国
省12
144: 06/14(金)09:58 ID:+sLCpRey2(7/15) AAS
  中立のリアル・・・・・・・56

 しかし、この勝利は、ヨーロッパ社会での、スペインとローマ教皇庁に大きな称賛と
輝かしい未来と権威をもたらした。即ち、かれらのスペイン艦隊に「神に護られた無敵
艦隊。」とか、彼の領土は「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれたのであった。1580年には、
空位だったポルトガルの王位を継承。そのことで、ポルトガルの植民地の支配権も継承
することとなり、南イタリア、ブラジルなどの中南米、フィリピンなどのアジアなど、
スペインは世界最大の版図を持つことになった。スペインは、地球の裏側にまで領土を
持っていたので、彼の領土はどこかしら太陽の光を浴びているということで「太陽の沈
まぬ帝国」と呼ばれたのだ。しかし、それから10年も経たないうちにスペインの没落は
始まっていく。そのきっかけが イギリスとの戦争に敗北したことやネーデルラント(
省11
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