戦国時代の始まり?享徳の乱について (740レス)
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(1): 02/18(日)02:42 AAS
話柄を少し変えて。
 
享徳ノ乱は利根川を接攘線とする関東の東西戦争でもあった。
上に云う気候変動とも相俟って利根川の「越河」を巡る逸話にも事欠かず、
それが戦況を左右した局面も少なくない。
否、それはむしろ順序が逆で、
戦争などというヒトの矮小な営為も所詮は自然環境条件に規定される所でしかないことを如実に示すと共に、
関東ならではの地域特性を表す事例として顕著なものであろう。

簗瀬大輔氏は『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』に於いて両者の対決を解析する五つの座標軸の一つとして利根川の「越河」を設定しているが、
これを北條上杉の攻防に限らず関東の戦争の普遍要素と位置付けて、
省5
8: 02/18(日)03:05 AAS
>>6
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、
それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。

その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きなゲーム脳連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。
 
9
(1): 02/18(日)17:02 AAS
里見義実て実在したとみていいの?
稲村の変での歴史書き換えと系図書き換えで作られた架空人物だと言う説もあるそうだけど
10: 02/18(日)18:19 AAS
>>9
架空説も根強いな。
実在説の論者間でも出自については諸説紛々。
但し「古河成氏の意向により安房國に侵入して管領方勢力を掃討した里見某なる者」の物理的実在は争う余地が無い。

もちろん某の実名が義実であったか、その史実としての事蹟が軍記や系図の伝承と整合するか、と云うことはまた別の問題だ。
或いは里見某についても伊勢宗瑞の如くいつか実像解明の日が来るかもしれない。
11
(2): 02/18(日)21:34 AAS
最初から最後まで公方側についていたのはどの家だっけか
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね
12: 02/18(日)21:49 AAS
足利義教
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「了解しました」

足利義政
「鎌倉府が反乱した。鎮圧して来い」
小笠原、斯波
「嫌です」
13
(2): 02/19(月)00:41 AAS
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱終盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
 
14: 02/19(月)00:47 AAS
>>13
訂正。
× 乱終盤
〇 乱序盤
15
(2): 02/19(月)01:03 AAS
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
16
(1): 02/19(月)01:03 AAS
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
17: 02/19(月)01:54 AAS
>>15
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。

政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。
 
18
(1): 02/20(火)16:46 AAS
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても
永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに
従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ
19: 02/20(火)22:08 AAS
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。

災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。

時代は>>3に書いた惨状が標準仕様で在地はただ生きて行くことさえ困難な状況だった。
その上にヤレ永享ノ乱だソレ結城合戦だと駆り出されてヒトモノカネを搾り取られた大名群の各領国が荒廃を極めたことは想像に難くない。
それを早急に何とかしなきゃ大名権力体そのものが斃れる。
斃れても幕府が喰わせてくれる訳じゃ無いのに性懲りも無くまた動員とは正に「死ね」と云うに等しい。

ヤイこらヨシマサ黙って聞いてりゃ巫山戯た御託ばっかり並べやがってシゲウジだかゲジゲジだか知らねえがそんなに気に入らねえなら手前ェが行きゃァがれこちとら関東なんぞで遊んでられるほど暇なお兄ィさんたぁお兄ィさんが違うんでぃ篦棒メと、
関係者は尻を捲って啖呵の一つも切りたかったことだろう。
省1
20
(1): 02/22(木)15:08 AAS
越後上杉家の越山はこの時代からあった
21
(2): 02/22(木)21:45 AAS
>>20
慥かにそれはそうなんだが。
 
享徳ノ乱で越山していたのは真正の越後上杉房定とその子定昌で、
永禄以後に越山したのは同じく越後上杉房定の子房能を弑殺した越後府内長尾為景の子である景虎だ。
とは云え景虎は山内上杉家督を継承したわけで、
しかし当時の山内上杉はまたしても越後上杉房定の子である顕定の入嗣によって実質的に越後上杉になっていた。
この殊更にわざとらしく錯綜した経緯にはクロフツの『樽』や鮎川哲也の『黒いトランク』の如き巧妙なトリックの存在が匂う。
 
うむ、何だかよく分からない。
省1
22
(1): 02/23(金)04:13 AAS
初期の上杉勢の敗勢を覆して、講和の仲介となった上杉房定と
中盤古賀公方を圧倒して古賀を一時でも占領した長尾景信はもっと注目されるべき
太田道灌は長尾景春の乱鎮圧では目立ったが享徳の乱ではあくまで景信らの配下
23
(1): 02/23(金)20:59 AAS
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの
24
(1): 02/23(金)21:03 AAS
上条上杉とか能登畠山とか長尾臣下になっていったのは幸せだろうな
結城氏とかももはや家名の存続のみ願うようになっていった感がある
25: 02/23(金)21:31 AAS
>>22
戦争の表面的な経緯だけを追えばその見方も解らないではない。
しかし享徳ノ乱の構造的本質、即ち「権力構造の変革」に関して担った機能を考察すれば太田道灌家宰期扇谷権力体の画期性は疑いを容れない。
長尾景信は山内権力体の地域権力化についてはむしろ反動として機能したと思われる。
上杉房定や太田道灌と同列に論じられるものではないだろう。
 
26
(2): 02/24(土)18:39 AAS
外部リンク:www.nicovideo.jp
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