戦国時代の始まり?享徳の乱について (739レス)
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1(2): 02/17(土)20:10 AAS
かたれる奴はいるか
720(1): 10/28(月)17:35 AAS
乱の後半から参戦だからかな
後半は長尾景春の乱までにらみ合いだけだったし
721: 11/01(金)22:10 AAS
長尾景信が家宰だった時から前線に出てたそうだけど
その時の古賀近辺の戦いで義政から戦功を賞されているのは
景春なんだよな
722(1): 11/01(金)22:11 AAS
長尾景春の乱のときに古賀公方側の宇都宮が長尾援護に出陣したが
打ち取られた戦いがあるがそれは道灌はあまりかかわってはいないという
というか宇都宮は地味に党首が何人も死んでる
723: 11/03(日)19:02 AAS
>>722
一度ぐらいは推敲してから書き込むことを奨める。
>>720
よく調べてから書くことを奨める。
724(1): 11/16(土)17:42 AAS
義政は成氏討伐の際には奥羽の諸将
伊達氏・最上氏・天童氏・大宝寺氏・蘆名氏にも出兵要請をした
しかしほぼ誰も応じなかった
725: 11/17(日)01:27 AAS
>>724
享徳ノ乱の段階で関東・奥羽に於いては幕権が失墜していたことの表象と云える。
より正確には、既に失墜していたからこそ足利成氏は大乱を発動した。
幕権失墜が不可逆の一線を切ったのは享徳ノ乱への導火線となった江ノ島合戦だろう。
長尾景仲、太田道真という「陪臣」たちが幕府の意志も威信も無視・蹂躙して統治秩序の破壊に走り、
事後に於いても幕府はこれを充分に処罰できなかった。
享徳ノ乱が永享ノ乱とは違って三十年の大乱となる伏線はここで張られたものと考えられる。
726(1): 11/17(日)05:21 AAS
乱の当初の状況は鎌倉公方に絶望的で、よく挙兵したなと思うけど
727(2): 11/17(日)13:46 AAS
>>726
何処で享徳ノ乱のことを調べたのか知らないが、全く事実に反している。
勃発時の山内憲忠に始まって島河原合戦、分倍河原合戦と公方方が圧勝、
その経過の中で扇谷顕房ら上杉各流の領袖たちを粗方殺害して圧倒的優位に立った。
壊滅状態だった管領方が持ち直したのは上杉房定、今川範忠、東常縁ら外部からの援軍が到着してからのことだった。
728: 11/17(日)13:48 AAS
>>727訂正補足。
× 勃発時の山内憲忠に始まって
○ 勃発時の山内憲忠謀殺に始まって
729(1): 11/17(日)14:29 AAS
>>727
その緒戦で圧勝する確信が無かったのに挙兵に踏み切ったことですよ
それにモタモタしていたら斯波氏や今川氏、それどころか先代同様、関東諸氏を敵に回すことになる
730: 11/17(日)18:51 AAS
>>729
机上の空論。
足利成氏による戦争発動は「殺られる前に殺る」喫緊必要の行動に他ならず、
有利だから起つ、不利だから起たないなどと云う悠長な選択の余地は無かった。
再三再四書いた如く、
戦国争乱の本質は気候変動と地殻変動に起因する危機を背景とした「飢えたる者が飢えたる者を殺して奪う」生存闘争であって、
争乱の火蓋を切った享徳ノ乱は正にその典型事例だと云える。
731: 11/17(日)19:04 AAS
「殺るか、殺られるか」と云うのは決して後世の我々の想像ではない。
放っておいても社会のパイが縮減し続ける状況下、
永享ノ乱と結城合戦で没落した公方方勢力の所領・権益を接収することで管領方勢力は一息つけた。
それも束の間、
鎌倉御所を復興した足利成氏は旧公方方諸家を再び取り立てて利を喰らわせることで強固な与党を再形成した。
原資はもちろん管領方から口実を設けて奪った所領・権益だ。
典型的なゼロサムゲームの中、
管領方が先に動いて江ノ島合戦を発動する。
所謂「御所巻」的な示威行動ではなくて明確に成氏殺害と公方方勢力殲滅を目指す一挙だった。
省2
732: 11/17(日)19:16 AAS
また足利成氏の視座からすれば「主観的に」有利と思える要素が幾つもあったかと思われる。
実力者山内憲實は隠遁状態で若き山内憲忠の政治基盤が未だ脆弱と見えたこと。
江ノ島合戦で自軍(一色、武田、里見ら)が長尾太田連合軍を一蹴したこと。
事後処理に於いて幕府の無策無力が曝露されたこと。
戦争発動の一箇月前の大地震二連発で社会的混乱が生じていたこと。
これらの状況に独善的な楽観判断を加えれば、
成氏にとって「享徳三年極月」はむしろ「今しかない」時機と見えたのではないか。
733(1): 11/17(日)21:04 AAS
状況が絶望的だからこそ破れかぶれの挙兵を行い、活路を見出したと思うがなあ
飢饉はもし自国に発生したらマイナスに作用するし、年齢的に政略的な判断は不十分だったはず
734(1): 11/17(日)22:08 AAS
>>733
> 状況が絶望的だからこそ
では公方方にとって「絶望的」な状況を示す史実事例を挙げて説明願う。
> 飢饉はもし自国に発生したら
この時代に於いて飢饉は「もし~たら」の対象にはならない。
その常態化は数多の史料が示しているし、
気象データからも1450年代から寒冷化の更なる加速が認められる。
飢饉が全ての社会事象の確定ベースラインであると認識されたい。
735(1): 11/17(日)22:17 AAS
> 年齢的に政略的な判断は不十分だったはず
また享徳ノ乱の如き巨大な事案の動因を個人の資質に求めるのは軍記思考、英雄史観と云わざるを得ない。
「鎌倉殿・足利成氏」は構造体の機能要素、或いは一つの機関=共同幻想であって、
その動向解析はあくまでも構造的に行わなければならない。
個人の資質は捨象されるべきだろう。
736(1): 11/18(月)05:04 AAS
>>734
江の島合戦こそ絶望ではないか
自分を殺そうとした関東管領家宰さえ隠退という名のお咎め無し
737: 11/18(月)05:05 AAS
>>735
関東諸侯からの後押しはあっただろうね
738: 11/18(月)21:51 AAS
>>736
咎めることができないほどに幕権が低下していた証だろう。
それ以前に山内・扇谷の中核軍を在鎌倉の奉公衆だけで撃破できた事実は重い。
739: 11/19(火)15:06 AAS
その関東諸侯も
本人たちでなく親の世代だが
永享の乱では幕府側だった
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