【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
上下前次1-新
423: ブログ転載 11/06(水)15:35 AAS
p258
すなわち「帝国の重きを韓国の保全に置くのか、いや、一日のためだけではない。これは両国累世の関係に因るだけではなく、韓国の存亡は実に帝国安危の繋がるところであるからだ」とか「ひょっとして満州はロシア国の領有に帰すだろうか、韓国の保全は支持するのに理由がなく、極東の平和はまた始めから望んではならない」とか「時すでにここに至る、帝国が平和の交渉によって求めようとした将来の保障は、今日これを軍旗と太鼓の間に求めるの他はない」とか仰られている。
ロシア国皇帝の宣戦詔勅も同日に発せられた。その詔勅には「日本は朕が我が国の政府が最近回答において行った提議に接するのを待たないで、ロシア都との商議及び外交関係の断絶を通知して来て、この外交関係の断絶はすなわち軍事行動の開始を意味するとの予告を与えることなくして、日本政府はその水雷艇を使って、旅順の砲台の外にあった朕の艦隊を突然襲撃したのである。よってロシア国はやむなく宣戦を布告する」と言って挑戦の責任を我が国に仮そうと努めている。
しかし列国は、むしろロシア国艦隊の怠慢を責め、日本水雷艇の夜襲に備えがなかったのを嗤った。公使館の旗を下ろした時に戦ってもよいのである。これは国際上、十分に認められていることなのである。
(二)我が軍大勝する
(1)陸軍の進撃
二月八日我が国の陸軍はまず第十二師団の一部を動員して仁川に上陸させた。二月二十七日大同江を踏んで平壌に入り、二十八日我が国の将校・斥候は敵兵五騎に追跡され、彼の国我が国の距離二百mに示されようとするや、七星門外にあった吉村中尉の一分隊は撃破してこれを退けた。これが陸軍開戦の始めである。
そのうち近衛・第二・第十二師団をもって第一軍を組織し、司令官黒木為禎(タメモト)大将がこれを率い、三月二十五日鎭南浦に上陸して北進した。
424: 11/06(水)22:01 AAS
p259
次いで第一・第三・第四師団を第二軍として司令官奥保鞏(ヤスカタ)大将がこれを統べて、五月五日大連の東北塩大澳に上陸して北進、陸軍中将川村景明の率いる第十師団は五月十九日、大弧水に上陸して、第一・第二軍の連絡をとって北進し、そのうち第二軍のうちの第一師団と新米の第十一・九師団と合わせて第三軍をつくり司令官乃木希典大将はこれを統べて旅順に向かった。後第二軍には第五・六師団を加えた。六月二十二日には陸軍大将大山巌が満州軍総司令官に任じられ、台湾総督児玉源太郎が総参謀長となった。次いで川村景明の第十師団及び第二軍中の第五師団をもって第四軍を編成して司令官野津道貫大将がこれを率い、析木城を占領して北進した。
こうして全線敵をやぶって、第一・二・四軍が協力して九月四日遼陽を占領し、十月九日激戦して沙河に勝ち、この時から泰天に向けて敵を追った。
(2)海軍の活動
海軍はその主力を三艦隊に分かち、第一艦隊は海軍中将東郷平八郎、第二艦隊は同中将上村彦之亟、第三艦隊は同中将片岡七郎、第四艦隊は海軍少将瓜生外吉、それぞれ司令長官となり、次いで第一・二艦隊をもって連合艦隊を組織し、後には第三艦隊も加わり、東郷平八郎は総司令長官となった。
我が国の艦隊は国交断絶と共に二月六日佐世保を出発し、七日早暁朝鮮沖の南西で商船ロシア号を捕らえ、この時から瓜生第四艦隊を仁川へ向かわせ、東郷第一艦隊は旅順を去る六十海里において、九日午後敵艦三隻を損傷させ、二十日午後敵の戦闘艦四隻、巡洋艦三隻の戦闘力を奪った。この日仁川では敵艦二隻を撃沈した。この時から東郷司令官は旅順に閉塞を企て二月二十四日第一回敢行、三月七日第二回閉塞において広瀬中佐がたおれ、五月三日には第三回閉塞と相まって、旅順背面の陸軍の攻撃は猛烈を極め、八月十日敵艦が大挙してウラジオストックヘ逃れようとしたので、我が国の艦隊は追跡して、旅順港沖約三十海里の地点で午後一時五十分から二時間の激戦を行い、敵の提督ウィットゲットを倒し、敵艦は算を乱して逃走、膠州湾・上海・柴棍に逃げ走って武装を解いた者各一、樺太へ逃れて沈没した者一、桑港へ逃げた者一、残艦は旅順に逃れ帰ろうとしたが、これらも我が国の攻囲軍の間接射撃によって撃沈された。これを黄海の戦いと言う。
425: ブログ転載 11/07(木)12:07 AAS
p261
黄海の戦いに遅れること四日、ウラジオストクにあった大暴行艦隊は蔚山〔※ウルサン韓国南東部〕沖に現れた。これは巡洋艦四隻、仮装巡洋艦一隻、水雷艇十隻以上あり、旅順艦隊と声息相通じ、ひそかに我が国の近海に現れて金州丸や常陸丸を撃沈するとか、国民は大いに激昂し、上村艦隊を批難する者さえいたので、上村艦隊は切歯扼腕、苦心惨憺(さんたん)時を待っていたのであるが、八月十四日その艦隊を発見したのであるから、勇躍してこれを打ち、五時間くらいでリューリックを撃沈し、ロシア・グロモボイの二艦に多大な損害を与えたので、敵はウラジオに逃げ帰った。この時敵が溺死するだろうとする者は、将卒六百人以上、これを救助して我が国の艦隊に収容したことは、世界に我が国の博愛の行為に感じさせたものである。これを蔚山沖の海戦というが、こうして東洋の海洋権は我が国の軍の手に掌握することができた。
※切歯扼腕=はなはだしく怒り、非常にくやしく思うことの形容。「切歯」は歯ぎしり、歯をくいしばること。「扼腕」は自分の腕を握りしめること。
426: 11/07(木)12:10 AAS
太平洋戦争の宣戦布告は、アメリカにいた日本の領事館の職員が送別会だかで開戦の電報に気づかず、真珠湾攻撃後の50分後に宣戦布告をしたそうだけれど、その失態がテヘペロで済まされたならアメリカの工作員を疑う。
427: 11/07(木)14:52 AAS
p261
(3)旅順の開城
陸軍大将乃木希典の率いる第三軍は六月剣山を抜いて、我が国の大連湾の根拠を固め、七月旅順要塞の前進陣地を攻略して敵を掃討し、八月ついに本防御線を包囲した。そこで八月十一日、明治天皇は要塞内にいる非戦闘員に命じて銃火の惨害を免れさせなさるつもりの旨を伝えなさる。我が国の軍はこの聖旨を彼の国に伝えると共に、勧降状をも交付したが、敵将ステッセルはこれを拒絶したので、この時から数回の総攻撃を行うことになった。
第一回の総攻撃は八月十九日から開始され、二十四日に至り盤龍山・高崎山その他を占領したにすぎなかった。
第二回は九月十九日から始め、クロバトキン砲台及び水師営砲台を占領した。
第三回は十月二十六日から始め、一戸砲台を抜いて肉薄した。
第四回は十一月二十六日から始め、十一月三十日二〇三高地を占領し、十二月九日東鶏山北砲台、二十八日二龍山砲台、三十一日には松樹山砲台をいずれも奪取し、この時から要塞内に突撃しようとする準備は成った。
ここにおいて守将ステッセルはどうにもすることができず、三十八年一月一日親書を乃木大将に致して降伏するに至った。二日開城規約に調印、明治天皇はステッセルがよく国のために尽くした忠節を嘉して、武士の面目を保たせることが相応しい御旨を伝え、城中の将校には特に帯剣を許しなさり、ステッセルは捕虜となって我が国に来た。有名な水師営の会見はこの五日に行われた。
こうして我が軍は十日、要塞の全部の受領を終えて、入城の式を挙げた。この戦において敵の捕虜は約二万四千、我が国の死者一万五千人、多くの犠牲を払って、彼の国が難攻不落といった旅順の要塞を陥落してしまった。
428: ブログ転載 11/07(木)18:35 AAS
(4)泰天の大戦
沙河会戦の後は満州の極寒のために、我が国彼の国は渾河を隔てて対陣するだけであったが、彼の国は第三軍の北上に先だって南下するという策に出て、一月二十八日大挙して逆襲してきたので、我が軍は苦戦の後、これを撃退したのが黒溝台の戦いである。すでに旅順を陥落した第三軍は第十一師団を旅順にとどめて北上して最左翼となり、奥軍は左翼、野津軍は中央、黒木軍は右翼、鴨?麹]軍川村大将は最右翼となって泰天包囲の形成が完全に成ったのは二月八日以後であった。この時我が軍はおおよそ四十万、砲一千門、ロシア軍の数約六十万、砲一千三百門、戦線四十里、有史以来の大戦が行われた。三月十日敵将クロバトキンは北方に逃れて、捕虜四万人以上、敵の遺棄死体二万六千、傷者九万人、我が国の死傷は四万人であった。ここにおいて南満の全野は我が国の所有に帰したのである。陸軍記念日はすなわちこの日を記念するのである。
429: ブログ転載 11/08(金)07:21 AAS
(5)日本海の海戦
ロシア国はついに空前の難事業と目されたバルチック艦隊の東航をくわだてた。
三十八隻からなる大艦隊、大小合わせて七十隻以上、明治三十七年十月十六日、ロジェストウェンスキーを提督として、本国リバウの港を出発し、東上して、三十八年五月二十七日対馬海峡に向かって進んだ。ウラジオへ入ろうとするのであった。我が国は午前五時これを発見し、午後一時五分東郷司令長官は戦闘開始を命じて有名な信号を掲げて士卒を励まし、二時二十五分旗艦三笠はまず火蓋を切って、この日のうちに勝敗の数がすでに定まり、翌二十八日戦いを継続し、ウラジオストクへ逃げた敵艦はアルマズと称する小艦他二隻であった。しかも我が国が失ったところは水雷艇三隻だけ。敵の捕虜ロジェストウェンスキー・ネボカトフ以下六千人以上、戦死四千三百人、我が国の死傷六百五十人であった。東郷長官は神霊の加護によるもの、天祐を保持したものと感慨無量言うところをしらなかった。こうしてこの戦いは世界海戦史上不朽の名誉を残して終った。
別に我が国は陸海軍協同のもとに七月七日樺太に上陸し、八月四日全島を平定した。
430: ブログ転載 11/08(金)14:04 AAS
p264
(6)天皇の御威光と国民の後援
世界戦史上にもかつて例のない大勝を得たのはそもそも何によるのであろうか。第一には天皇の御威光、第二には軍人の義勇奉公、第三には国民の挙国一致的後援、第四には教育の力、第五には文化一般の発展などを数えることができよう。
とりわけ天皇の御威光と国民の後援ということは忘れてはならない。
戦時中天皇は御昼の御膳も二時三時に召し上がることは度々で、夜も九時過ぎまで御政務をおとりになり、戦後論功行賞の数は二百万、一々御裁可を与えなさり、五等以上の勲記にはことごとく御自ら御署名あらせられ、半年の間一日も御休みはならなかったと漏れ伺う。
四方(よも)の海 皆同胞(はらから)と 思う世に など波風の立ち騒ぐらむ
〔国中 皆同胞と思う時代に どうして波風がひどく騒ぐのだろう、いやそんなことはない。〕
弓矢とる 国に生まれし 益荒男(ますらお)の 名を現さむ 時はこの時
〔弓矢をとるという武士の国に生まれた立派な男子が名誉を得ようとするなら、その時はこの日露戦争の時だ。〕
子らは皆 戦の庭に 出で立ちて 翁や一人 山田もるらむ
省6
431: ブログ転載 11/08(金)16:03 AAS
p265
国民はまた増税の負担に甘んじ、募債に応じ、例えば、三十七年二月十三日勅令をもって発した国庫債権一億円は、国民の老幼婦女、貴賤貧富を問わず、あらゆる人々が応募しているといっても過言ではない。また例えば、赤十字社が敵味方の別なく救護に努め、愛国婦人会が出征軍人及び家族の慰問、戦病死者の弔慰などに全力を尽くしたのは、いずれも、その功績は著しいものであった。
(三)講和条約を結ぶ
戦役の大勢がすでに定まったのを見て、アメリカ大統領ルーズベルトが六月九日講和のことを勧告した。我が国の政府はこれを受け容れ、ロシア国もまたこれに応じ、会商地をポーツマスと定め、両国は互いに全権委員を特派した。
日本側
外務大臣 小村寿太郎 米国駐在公使 高平小五郎
随員ー弁理公使 佐藤愛麿 政務局長 山座円次郎
外務書記官 安達峯三郎 陸軍大佐 立花銃次郎 テニスン
ロシア国側
前大蔵大臣 ウィッテ 米国駐在大使 ローゼン
省4
432: ブログ転載 11/09(土)08:36 AAS
p266
一、ロシア帝国政府は、日本国が韓国において政治上・軍事上及び経済上の卓絶な利益を有することを承認し、日本帝国政府が韓国において、必要と認める指導・保護及び監理の措置を執るにあたり、これを阻害しまたはこれに干渉しないことを約束する。
韓国におけるロシア国臣民は、他の外国の臣民または人民と同然同様に待遇されるはずで、換言すれば最恵国の臣民または人民と同一の地位に置かれるべきものと知るべし。
両締約国は一切の誤解の原因を避けようとする為、ロシア・韓国両国の国境においては、ロシア国または韓国の領土の安全を侵迫することがあるに違いない何らの軍事上措置を執らないことに同意する。
一、ロシア帝国政府は、清国の主権を侵害し、または機会均等主義と互いに受け容れられない何らの領土利益、または優先的もしくは専属的譲与を満州において有さないことを声明する。
一、ロシア帝国政府は、清国政府の承諾をもって、旅順口・大連ならびにその付近の領土、領水の措置権及びその租借権に関連し、またはその一部を組成する一切の権利、特権及び譲与を日本帝国政府に移転譲渡する。
ロシア帝国政府はまた前記租借権がその効力を及ぼす地域における、一切の公共営造物及び財産を日本帝国政府に移転譲渡する。
一、ロシア帝国政府は、長春(寛城子)旅順口間の鉄道及びその一切の支線ならびに同地方においてこれに付属する一切の権利、特権及び財産、また同地方においてその鉄道に属し、あるいはその利益のために経営される一切の炭坑を、補償を受けることなく、かつ清国政府の承諾をもって、日本帝国政府に移転譲渡すべきことを約束する。
一、ロシア帝国政府は、サハリン島南部及びその付近における一切の島嶼ならびにその地方における一切の公共営造物及び財産を、完全な主権と共に永遠日本帝国政府に譲与する。その譲与地域の北方境界は、北緯五十度と定める。
433: ブログ転載 11/09(土)12:59 AAS
p267
この条約に対して、欧米列国の新聞は「日本の深慮に出た控え目さだ」とか「日本政治家の賢明に基づいた決断だ」とか言って褒め称えたが、国内の民衆はこの条約を十分ではないと考えて、日比谷に焼き討ち事件などの不祥事を惹起し、戒厳令をしくに至り、小村全権に対する批難もその極みに達したが、小村は終生この間の消息については弁明しないで世を去った。事実は、我が国に「内情の苦しみ」があったのである。「内情の苦しみ」とは要するに軍備上・経済上、これ以上の戦争が続かなかったということである。
(四)樺太及び租借地の経営
(1)樺太の経営
三十八年我が国の陸海軍は樺太を占領し、民政署を真岡に置き、後に大泊に移してこれを治めていたが、平和克復の後、北緯五十度以南の地を我が国に割譲することとなるや、三十九年六月、両国各委員を同島に派遣し、実地踏査を行い、境界線を定め、四個の大石標と十七個の小石標を立てて国境標とした。この事が終ったのは四十年十月であるが、この時より以前四月には、これまでの軍政を廃止して、新たにこれを内務省の所管に移し、樺太守備隊司令官楠瀬幸彦を民政長官に任じ、別に軍令部をおいて、民政長官がこれを兼任した。後四十一年にはこれを廃止して、樺太庁を豊原に置き、樺太長官に命じて政務を執らせた。本島の開拓には土地貸し付けの制を立てて、内地農民の移住を奨励したことはかつての北海道と同じことであった。
(2)関東州の経営
省1
434: ブログ転載 11/09(土)15:29 AAS
p268
(3)満洲の経営
ロシア国が南満洲鉄道を我が国に譲ったので、我が国はこの鉄道を経営して南満洲の利源を開発するために、南満洲鉄道株式会社を大連に創立することとし、まず総理大臣西園寺公望は自ら満洲を視察して帰り、六月八日をもって、会社設立に関する勅令の発布を見るに至った。児玉源太郎・寺内正毅が相次いで委員長となり、八十名の委員と共に全力を尽くして会社は設立され、総裁には後藤新平、副総裁には中村是公を任命し、鉄道・鉱業・水運・電気・委託販売・土地家屋の経営に当たらせた。
また明治三十九年六月一日をもって、奉天・安東県・大東溝の三市を解放し、九月一日には大連も解放して、かねてから我が国が主張した門戸開放、機会均等を進んで実行した。
こうして満洲は完全に我が国の力によって更正の機運に向かったのである。
(五)清国の領土を完全に果たす
古来満洲の地は、民族としての協調統一はなく、何度もの興亡を重ねて、後西天皇の寛文二年「明」が亡び、満洲から「清」が興って、南方に出て、清朝を立てたのであるが、その清朝ですら満洲を見るのに、関外の辺境としてかえりみず、特別な取り扱いをしていたもの、たとえロシアにこれを蚕食されるとしても、甚だしい苦痛を感じる程度には認識が深まっていなかったらしい。その場合に我が国は、ロシアの蚕食を阻止してこれを撃退した。この大いなる犠牲を払って満洲をロシアから取り返してこれを清国といたし、清国は再び政令をここにしくことが出来、我が国の目的も達したわけであるが、我が国の利権開発、治安維持を幸いに漢民族は急激に流れ込んだ。何でも日露戦争頃には満洲の人口九百万といったものが、昭和七年三月一日、新満洲国ができた時には、人口は三千万以上となっていた。多数の漢民族が満洲において生活をなし得た者、ひとえに我が国の恩恵によるというべきである。
435: ブログ転載 11/10(日)07:58 AAS
p270
学習参考
(1)挿絵解説
「旅順の要塞陥落する」絵は英国の画家ウービル筆によったものという。旅順開城の議、彼の国に決したのは明治三十八年一月一日、この日午後五時我が国に使いをして開城条件を議定されるだろうことを申し込んだので、二日正午水師営を会場として談判を始め、終ったのが午後四時三十五分、調印が済んだのは午後九時四十五分であった。有名な両将軍水師営の会見は一月五日に行われたもの、この日ステッセルは午前十時三十分ここに着き、乃木将軍は十一時十五分来着された。この絵は両将軍会見の想像画とみるべきである。
(2)指導要領
三月十日や五月二十七日というような暦日環境・戦利品・奉公碑・記章勲章・当時の新聞雑誌、思い出話など環境になるものが多い。
特に郷土の戦傷者調査などの作業より独自学習をすすめ、地図や時表学習などの作業に導き、「明治三十七八年戦役をやった我が国の精神はどこにあったか」または「この戦いを避けることはできなかったか」などを中心として、相互学習をやった方がよかろう。
この教材は尋小においても学習しているのであるから、ここでは既習の事項を想起させ、その足りないのを補い、かつこの事件の体系を把握させ、その中に潜んでいる意味すなわち国家的発展について、十分な認識をさせたいものと思う。
その間、関係図も多いし、関係人物も多い。適評を下して進んでいく。
この教材は完全に現在の生活に関係を持っている。特に満洲国の成立とも関係がある。それに照応するよう取り扱わねばならない。
省2
436(1): ブログ転載 11/10(日)11:27 AAS
p271
第五十四 韓国併合
学習目的
韓国を併合するに至った次第と意味及び併合後の施政についてわからせ、さらに対外関係のことから、世界的日本の国家的発展を中心として認知感得させるのが主眼である。
学習事項
(一)韓国の保護
省10
437: ブログ転載 11/10(日)11:32 AAS
>>436
軍略上必要な地点を臨機収容することができること、に訂正
438: 11/10(日)15:32 AAS
p273
しかしながら、当時韓国の情勢は、政治は相変わらず乱れ、人心は腐敗し一日もなおざりに付すればたちまち離反の状況を現し、収拾がつかない有り様を見せたので、在野の士、宗秉?o・李容九などは元の親日党を糾合し、一進会を組織して国論の喚起につとめ、明治三十七年八月二十二日をもって第一次日韓協約を結ぶに至った。
一、韓国政府は財務顧問として日本政府が推進する日本人一名を傭聘し、外国顧問として日本政府の推薦する外国人一名を傭聘し、その意見を聞いて、財務外交のことを施行すること
一、外国との条約締結その他重要な外交案件、すなわち外国人に対する特権譲与、もしくは契約などの処理に関してあらかじめ日本政府と協議すべきこと
この約束によって政府は大蔵省主税局長目賀田種太郎を財務顧問に、米国人ホワイト・スチーゾンスを外交顧問に推薦し、韓国内政の改善に努めたが、韓国内には様々な流言・陰謀も行われて、容易に情態は改まらなかったので、三十八年九月、日露講和条約が成立し、韓国における我が国の特殊権益を明らかにした時、その十一月伊藤博文は遣韓大使となって京城に赴き、韓帝に謁見して大いに説明するところがあり、ついに相互の権益を強固にさせることを期して、さらに第二次日韓協約を締結した。
一、韓国の外交権は日本に収めること
一、日本国政府はその代表者として、韓国皇帝陛下の御前に一名統監を置くこと
省4
439(1): 11/10(日)18:20 AAS
朝鮮から賠償金を巻き上げて親日の韓国人にその資金を与えたこともそうだけど
他の国の人物が朝鮮の顧問になるというのも、明治新政府の顧問がフルベッキだったことを踏襲していると思う。
しかもまたアメリカ人が顧問
1871年の辛未洋擾などは、朝鮮の大院君が強固にアメリカの開国要求を拒絶したことから起こったが、その後アメリカから朝鮮へのアクションはない。
その代わり日本がしゃしゃり出て朝鮮の開国にこぎ着ける。
その様子はまるで日本がアメリカの手先(笑)
それで結局アメリカは労せずして朝鮮の顧問になる。
日露戦争だって金がなければ戦争できなかったのにロスチャが資金を出したから戦争ができるようになった。その後ロシア帝国は倒れて共産主義になった。共産主義者にはロシア系ユダヤ人トロツキーなどがいる。
ユダヤ人は労せずしてロシア帝国を倒した。貸し付けた資金も莫大な利子付きできっちり回収した。
440: ブログ転載 11/10(日)21:47 AAS
p274
一、韓国政府の内政は、日本はこれを指導すること
一、その他六条
明治四十年七月二十四日
光武十一年七月二十四日
ここに至ってますます保護の成果を挙げ、韓国の多年の幣政は刷新されるという機運に達した。次いで四十年十月我が国の皇太子嘉人親王は、親しく韓国皇室を訪問なさり、また韓国皇帝は、その皇太子英親王を我が国の皇室に託して、東京に留学させなさり、両国の関係はますます親密となった。
越えて四十二年六月、伊藤博文は職をやめて枢密院議長に転じるや、副統監曽根荒助が代わって統監となり、さらに韓国と約束して日韓覚書を交換した。
一、韓国の司法権は日本に委託すること
二、その他三条
明治四十二年七月十二日
省5
441: ブログ転載 11/11(月)05:40 AAS
p276
第一条
韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本皇帝陛下に譲与する。
第二条
日本国皇帝陛下は前条に掲げた譲与を受託し、かつすっかり韓国を日本帝国に併合することを承諾する。
第三条
日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下・太皇帝陛下・皇太子殿下、ならびにその后妃及び後裔をして、各その地位に応じ、相当な尊称威厳及び名誉を享有させ、かつこれを保持するのに十分な歳費を保給すべきことを約束する。
第四条
日本国皇帝陛下は前条以外の韓国皇族及びその後裔に対し、各相当の名誉及び待遇を享有させ、かつこれを維持するのに必要な資金を供与することを約束する。
第五条
省10
442: ブログ転載 11/11(月)13:40 AAS
p278
韓国併合に関する詔書
朕は東洋の平和を永遠に維持し、帝国の安全を将来に保証するのが必要であるのを思い、また常に韓国が禍乱の淵源であるのに顧み、以前に朕が政府に命じて韓国政府と協定させ、韓国を帝国の保護の下に置き、もって禍源を途絶し、平和を確保すべきことを期した。
それ以来、歳月を経ることは四年ばかり、その間朕の政府は鋭意韓国の施政の改善に努め、その成蹟はまた見るべきものがあるといっても、韓国の規則はいまだ治安の保持を完全に果たすのに足りない。疑って不安に思う心は常に国内に充溢し、民は安堵しない。公共の安寧を維持し、民衆の福利を増進すべき為には、革新を現制に加えることが避けられないことは瞭然であるのに至った。
朕は韓国皇帝陛下と共にこの事態に鑑み、韓国を挙げて日本帝国に併合し、もって時勢の要求に応じるのがやむを得ないものであるのを思い、ここに永久に韓国を帝国に併合することとなった。
韓国皇帝陛下及びその皇室各員は、併合の後といっても相当の優遇を受けなければならなく、民衆は直接朕の撫の下に立って、その康福を増進すべく、産業及び貿易は治平の下に顕著な発達を見るに至るに違いない。
そうして東洋の平和はこれによってますますその基礎を強固にすべきなのは朕が信じて疑わない所である。朕は特に朝鮮総督を置き、これに命じて朕の命令を受けて、陸海軍を統率し、諸般の政務を総轄させる百官有志は、よく朕の意を体現して事に従い、施設の緩急はそれが適切であることをもって、衆庶を永く治平の慶びに頼らせることを期せよ。
またこの日旧韓国皇帝はその旧臣民に告諭を発せられた。
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