【日本史】GHQに焚書された書籍 (536レス)
1-

130: 09/23(月)19:26 AAS
>>128
このわきまえるという解説自体も古語な気がする
古語で「わきまえる」というと区別するという意味
131: 09/23(月)21:37 AAS
p111
本居宣長は伊勢松坂の人。享保十五年七十二歳で没した。真淵の門人で鈴の屋と号し、深く古史・古文をきわめ、明和元年(家治の時)に古事記を説明するという稿を起こし、三十五年の長年月を費やして、寛政十年六十九歳に至って古事記伝四十八巻(内三巻目録)を大成し、彼の没後二十二年の文政五年に至ってようやく全部の刊成は成った。宣長の著書はこの他に数多いが、明和八年彼が四十八歳の時には有名な「直昆霊(ナオヒノミタマ)」を著している。その一節に曰く

神の御心のままに安国(ヤスクニ)と平穏に統治なさっている大御国であったので、古の大御代には、道ということも言挙(コトア)げも全くなかった

と言っている。つまり我が国の天皇は神そのままの天皇であらせられ、治(シ)らす御精神つまり仁愛を垂れなさったもので、そこには言挙げの必要はなくて、道自ら定まるというように、自然の大道が組織化していることを述べて、我が国体の基礎の強固な所以を明示している。実に宣長によって国学は大成したといってもよい。

輝き出す この日の本の光から
朝鮮支那も春を知るだろう   ー宣長ー

宣長の門人は四十以上の国にわたり、門人帳には四百八十八人の名がのっているが、没後の門人を加えると四百九十人になる。平田篤胤のような者は没後門人の一人である。
省2
132
(1): 09/23(月)22:09 AAS
篤胤は安永五年出羽に生まれ、天保十三年六十八歳で没した。春満・真淵・宣長と共に国学の四大人と言われた人。儒仏をしりぞけて純粋神道を大成し、平田流神道を開いた人である。篤胤はどこまでもわが古典の精神に復帰しようとし、尊皇愛国・至誠・優美・尚古・祖崇・孝義・快活・現実ということを重んじた神道を唱えている。

他人は例え支那につくとしても私の杖は
やまとの島国へ立てるつもりだぞと思う   ー篤胤ー

また宣長と時を同じくして塙保巳一がいる。保巳一は延享三年武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、七歳の時に失明したが、彼は博覧強記で、和漢の学を修め、松平定信から麹町の裏六番町に三百坪の土地を賜り、和学講談所を設け、のちに表六番町に移した。保巳一の著書も多いが、郡書類従一千八百冊以上の出版は最も有名である。これは我が国古今の小冊の書を収集合刻したもの、実に本邦一大叢書のはじめで、国学研究の便をはかった功績は多分に大なるものがある。
133: 09/23(月)22:11 AAS
ヘレン・ケラーは幼少時母から「塙保己一を手本にしろ」と教育されてたの知らなかった
134: 09/23(月)22:28 AAS
不勉強なだけかもしれないが現代日本人でも知ってる人少なそうなのにヘレン・ケラーの母ちゃん何で知ってるの
135: 09/23(月)22:49 AAS
息子の塙忠宝を伊藤博文と山尾庸三が暗殺したと渋沢栄一がばらしたのは知ってた
お父さんだったのか
136: 09/23(月)22:53 AAS
初代総理大臣の暗殺伝説が大々的に知られるとまずいから保己一すごいのにマイナーなのかな…
137: 09/24(火)07:12 AAS
p112
(五)数多の尊皇家あらわる

古史古文の研究は国体の尊厳を明らかにし、大義名分をおろそかにするべきではないことを世人にさとらせ、尊皇家が相次いで出るに至った。寛政三奇士のようなそれである。寛政の三奇士とは高山彦九郎・蒲生君平・林小平である。
高山彦九郎は名は正之、延享四年上野に生まれ、寛政五年四十七で没した人。学者に任じないけれど気節あって尊皇の心深く、京都をはじめ諸国を周遊して有志と交わり、ついに久留米で自殺した。その原因は明らかでないけれど、田沼の弊政によって民心が次第に幕府を離れるのを見て、 密かに快であるとし、すぐに事を起こそうと企てたところ、松平定信が幕閣に入って、再び幕政を引き締めて盛んにしたので、志が成るはずがないのを嘆いたという説があるいは事実に近いのであろう。彦九郎の京日記には次のような一節がある。

皇統綿々天子の位は長久のしるしと嬉しくて手が舞い足が踏む事がわからない(勝手に動くくらい嬉しい)

蒲生君平は名は秀実、明和四年下野に生まれ、文化十年四十六で江戸に没した人。皇室再興の志厚く、朝廷の制度を明らかにしようとするため、九志の著述に志したが、職官志と山陵志だけ世に伝わっている。君平はまた露艦の北辺入寇を憂いては、不恤緯(海防策)を著した。
幕府は不恤緯にしても山陵志二巻(山陵八四)にしても浪人処士が言ってよい範囲ではないとし、重刑に処そうとしたが、君平は抗弁して屈しなかった。この時林大学頭は「草野に危言の士がいるのは国家の福である」と言ったので事なくすんだ事もある。

頼山陽は名は襄、安永元年大阪に生まれ、天保三年五十三没し、京都東山長楽寺に葬った人。二十年以上の苦心を積んで日本外史を著し、源氏・平氏・北条・新田・楠・足利・武田・上杉・毛利・織田・徳川の武家荒廃の歴史を説いて、政権が武門に移った由来を論じ、また晩年病をおして日本政記を作り、神武天皇から後陽成天皇までの編年史によって、順逆の区別を明らかにし尊皇の意をよせた。外史は脱稿の上松平定信に献上し、定信から題言を賜っているが、政記は未稿のまま筆を握って没したと言われる。
138: 09/24(火)09:36 AAS
p114
いずれも考証的歴史から見ると問題はあるが、山陽独特の痛快な文章によって、そこに盛られた精神的なものは、十分に確認するに足り、文学的歴史の生命を果たしたものと言うことが相応しい、これが世人に愛読されて、人心を刺激し、尊皇抑覇の大本を体得させた効果は大なるものである。のちに大政復古の大業が成功したのは、これらの人々の苦心に基づくところが少なくない。

学習参考

(1)挿絵解説

「竹内式部尊皇の大義をとなえる」は奉献画帖の中村青帰筆によったもの。式部は越後の人で京都に出て徳大寺公城に仕えたので、学を式部から受ける公卿も多かった。挿絵では八人の公卿が聴講している。この他門人は七、八百人もいた。見台に向かって端座するのは尊皇賎覇の説をおこなう式部である。式部については本文の中にかいておいた。

(2)指導要領
省6
139: 09/24(火)09:37 AAS
p115
指導をする時には、尊皇論者に関係ある史蹟・遺物あるいは昭和六年が頼山陽百年祭であったことなどの暦日環境・尊皇論者の著書・その他各種の形式環境を準備して、児童の学習を導いて、十分に腹に落ちついた認識をさせてやりたいものである。

※尊皇賎覇=孟子は王道こそを理想とし、徳によらず「武力」や「策略」で諸侯を従えて天下を治める覇道を賎しいものとした。日本では、王=天皇・覇=武家政権(源氏・平氏・北条氏・足利氏・細川氏・三好氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏)と解釈された。
140: 09/24(火)12:37 AAS
>>87
徳川幕府が朱子学を国学としたことで中国のものは優れ日本のものは劣るという中国かぶれの現象が起こり、それに反発した思想として、日本の万世一系の方が勝っていると考える人たちが出てきた。
中国は易姓革命が起こり君臣の義が守られないし、中華思想を基準にすると自動的に日本は劣った国になるので日本だってすごいよと。

江戸幕府が始まって50年以上経つとすでに山鹿素行が『中朝事実』(1669)で上記のようなことを言っている。綱吉の前の将軍家綱の時代。

竹内式部の講義を聞いていた公卿が罰せられたのが1759年で素行から100年経っている。この時の将軍は吉宗の後の家重。藤井右門が幕府の攻撃方法を講義して処刑されたのが1766年。
素行の時代と比べて尊皇論が攻撃的になっているのは、綱吉の弊政が民衆を幕府攻撃へ向かわせたのだろうか。

>>127のように幕府の不義を唱える者は処刑されるのでいなくなったが、国学の研究と共に尊皇論も続き、その後田沼の弊政と天明大飢饉のコンボで、再び幕府攻撃の思想がよみがえり寛政三奇士登場となったのだろうか。
141: 09/24(火)16:15 AAS
p116
第四十二 外来船の来航と海防

学習目的

国内においては尊皇論が起こり、 だんだん国民思想が転回しようとするという時、外国船がしきりに我が国へ来航することとなり、国内の事情は一変して、これに対処するための途(みち)を講ずるに至ったことを学習させ、国家と国際国防と平和などについて認知感得するところがあるようにさせる。

学習事項

(1)国内の形勢は一変しようとする
省4
142: 09/24(火)16:39 AAS
ロシア帝国の起源は清和天皇の貞観四年で、後嵯峨天皇の寛元元年(一九〇三)蒙古に犯されて欽察汗国に併合されたが、後土御門天皇の文明十二年(二一四〇)イワン三世が欽察汗国を滅ぼして蒙古のきずなを脱し、のち第十六世紀の中頃からシベリヤの侵略をはじめ、たびたび清と境上で戦っていたが、元禄二年ピョートル大帝の独裁が始まり、その年ネルチンスク条約を結んで露清間の国境を定め、次いで全てシベリアを取り、カムチャッカに手を伸ばし、のち歴代はピョートル大帝の侵略主義を踏襲して、カタリ十二世の時には千島・樺太に及ぼし、北辺から我が国に迫った。
林子平、名前は友直、江戸に生まれたが、のち、兄嘉膳が仙台候に召されたので、宝暦七年子平も仙台に行った。小平は長崎において、オランダ人アーレンヘートに付いて、世界の大勢やロシアの南下政策を聞き、我が国は四方海であるのに防海のことを怠っているのは不安であるというので「三国通覧」を著した。これは朝鮮・琉球・蝦夷の地理を書いたものである。
次いで海国兵談十六巻を著したが、序文には天明六年とある。刊行は寛政三年である。この中には「細かく思えば江戸の日本橋から唐・オランダまで境なしの水路である」と言い、水戦の必要を説き、大銃戦の必要を説き、安房・相模の防衛を主張し、終わりに「伝えて我が日本のつわものの法の花咲け五百年の後」と言った。
しかし幕府はこれを見て「名聞のために憶測をもって奇矯な事実を曲げた噂を弄し、みだりに国政を私議し、公儀を憚らない不屑」という罪名で、寛政四年五月子平を兄嘉膳に引き渡し、蟄居を申しつけ、版行物ならびに版木は取り上げた。蟄居中子平は寛政五年六月二十一日年五十六で没した。

※欽察汗国=キプチャク草原を支配したモンゴル帝国の四ハン国の一つ。
143: 09/25(水)07:33 AAS
p119(二)ロシアはじめて通商を求む

さて子平の先見はあやまたず、寛政四年という時、ロシアの女帝カザリン二世がピョートル大帝の遺志をつぎ、我が日本に使節ラックスマンを遣わし、我が国の漂流民で伊勢の人、幸太夫・磯吉などを伴い、根室に来て、通商を願う。これが鎖国後において外国の使節が来朝した始めであった。
この時より以前、我が国の漂流民が始めてロシア人に接したのは、綱吉頃の元禄十二年であり、黒船の出没が幕府の注意に上り始めたのはロシアのスパンケンベルクの率いた探検船が陸奥・安房の沿岸においてその船影を示した吉宗頃の天文三年であった。そして家治時代の明和・安永頃には、千島列島の得撫(ウルップ)島以北は、もはやロシアの勢力範囲になっていた。
ラックスマンが来た時は松平定信はこの人を拒絶しようとし、翌年これを松前に回航させて漂流民を受け取り、信牌(手形)を与えて長崎へ回航させた。
ところがラックスマンは長崎へいかないでひとまず本国へ帰ったが、この形勢では早晩また来るべく、国内は多いに不安を感じるようになってきた。
ここにおいて定信は大いに海防の必要をさとり、定信自ら股引・草履がけで勘定奉行や目付などを率い約二十日間、幾多の困難を重ねて、伊豆・相模・安房・上総・下総の沿岸を巡視した。

(三)蝦夷地の警備開拓を計画する

幕府はまた近藤重蔵に命じてたびたび蝦夷地を探検させた。重蔵は名は守重、寛政十年幕府の命令によって、高田屋嘉兵衛を案内者とし、多量の米・塩などを船に積み込み、遠く択捉島に渡って、これを島民に分け与え、漁場を開きなどして土民をなつかせ、さらにロシア人の建てた標木を抜き、新たに「大日本恵登呂府」と大書した国標を建てた。
次いで重蔵は辺要分界図をつくり、北辺警備の策を建言したので、これに基づいて寛政十一年には蝦夷地を幕府の直轄地とし、南部・津軽二藩の兵を函館に置いてこれを守らせ、また堀田二助に命じて江戸と根室間の直通航路をも開かせた。重蔵はその後三回もこの地に探検したことがある。
144: 09/25(水)14:35 AAS
p120
間宮林蔵、名は倫宋、常陸筑波郡の人。享和元年北地探検の幕吏に従って松前に行った。文化五年には幕命を受け、松田伝十郎と共に樺太探検に上ったが、途中風波に襲われて一旦中止し、今度は林蔵単身樺太に渡り、西海岸を探検して樺太が島であることを発見した。今でも間宮海峡といってそれを記念している。間宮はさらに黒龍江の下流をさかのぼり、シベリアに入り、デレンに至り、土人の人情風俗を調べてかえった。
しかし昭和三年の御大典に際して、国家的功労者として贈位を申請した中に、新潟県中頸城郡米山村字鉢崎生まれの松田伝十郎という者がいる。この人によると間宮は松田伝十郎の下僚で、松田が調査したものを間宮が宣伝したものにすぎないから、松田海峡とせねばならないと言っている。
伊能忠敬は下総の人。晩学をもって有名である。五十歳の時から学を修め、天文・暦学に詳しく、特に測量の術については国内で並ぶ者なく、幕府に願って寛政十二年蝦夷地を測量して地図をつくり、翌年、伊豆・相模・常陸・房総から陸奥を測量し、次いで全国に及ぼし、前後十七年を費やして日本興地実測図を制作した。文化十四年には江戸府内図をもつくって幕府に進呈している。これら伊能の地図の正確なことは驚くべきもので、近年に至るまで本邦地図の基本となっていた。

(四)外国船打ち払いの令を下す

このような間にロシアは再び使節を遣わした。つまりラックスマンが去って十二年の後、文化元年十月九日ロシア国の使節レザノフが長崎に来て例の信牌を示して通商のことを願った。幕府は翌年三月まで待たせておいて、そうしてから、結局は「国法が禁じるところであるから」という理由でこれらを帰らせた。レザノフは素早く長崎を去り、文化三年から四年にかけて、露米商会員フホスト及びダビドフの二青年士官を使って、盛んに我が国の北辺に寇すこととした。火つけ、略奪、あらゆる恐嚇をたくましくした。
これに関して非常に国内の世論は沸騰し、ついに蒲生君平・柴野栗山などがロシアに対する主戦論となり、憂国の志士によって血涙をそそがせたのである。
145: 09/25(水)19:06 AAS
p121
そのうちに文化八年ロシア艦ジャナ号で、海軍小佐ゴローニンが、測量のために利尻島へ寄港するや、ゴローニンを始めとして八人を捕縛した。ここにおいて軍艦は去って国後島に至り、洋上で我が国の商船を掠め、船主高田屋嘉兵衛など数人を捕らえてカムチャッカに行った。この時高田屋嘉兵衛の沈勇に、副艦長のリコルドも非常に感じていたので、嘉兵衛の周旋は功を奏し、文化十年ゴローニンと嘉兵衛を交換し、かつロシアに謝罪書を書かせて、両国の葛藤を解くことができた。
文化五年英国の水師提督ドルリーが率いたフェートン号は、オランダ商船捕獲の目的をもって長崎港内に入り、オランダ人二名を捕らえて艦内に囚禁し、かつオランダ商会を襲って暴掠をほしいままにした。
当時ヨーロッパではナポレオン一世の全盛時代で、オランダはその属邦となっていた。イギリスはフランスの敵国であり、また東洋ではイギリスがオランダの貿易と競争をしていたからこの挙に出たのである。
この時書を長崎奉行松平康英に贈って薪水食料の供給を求め、もしこれに応じない時には市中を砲撃すると威嚇したので、康英は大いに憤り、佐賀藩の兵を徴兵したが、兵力不足でどうともすることができず、彼の要求を入れるべきを余儀なくされた。まもなく付近の藩兵が到着したけれども、英艦が去った後で間に合わなかったから、康英は自ら責を引き、割腹して罪を謝した。
この後も英船はたびたび来て、文化五年浦賀に二回、七年五月には常陸大津浜に上陸掠奪、次いで薩州宝島にも上陸掠奪、国民の感情は著しく高潮し、取るに足りない英国の一捕鯨船の出没にも、兵を派遣して沿岸を警固するようになってきた。ここにおいて攘夷論がだんだん起こり、幕府も「このうえ何様の狼藉を仕出すのだろうかも推測し難く」と考え「打ち払いますならば退散致すはずでございますのが当然」くらいの程度で、ついに仁孝天皇の文政八年二月十八日外国船打払令を頒布するに至った。
146
(1): 09/25(水)21:44 AAS
p122(五)海防につとめる

この後幕府はなお鎖国の方針を変えず、もっぱら心を海防に注ぎ、高島四郎太夫・江川太郎左衛門らを用いて新式の兵器戦術を研究させた。
高島四郎太夫、号は秋帆、長崎に住んで、以前から西洋流の兵学並びに砲術を研究していた。天保十二年五月幕府に召されて、一日武蔵野で練兵を行い、団体教練を展開し、またオランダ人から伝習した得意の砲術を試みてその技を称賛され、与力格に登用され、この時からその砲術を伊豆の代官江川太郎左衛門や旗本曽根金三郎に伝習した。秋帆はその後も用いられて慶応二年没した。
秋帆の門弟、江川太郎左衛門は代々伊豆の代官である。名は英龍、号は坦庵、砲術に達してる上、算数測景の学に通じ、天保十二年伊豆の韮山において初めて鉄砲を鋳造し出した。その反射炉は伊豆の北条から南半里の中村鳴瀧に今も残っている。同十三年には砲術教授のため教場を開いたが例えば佐久間象山・川路聖謨・木戸孝允・橋本左内皆その門から出た人である。
十四年抜きん出られて幕府の鉄砲方兼務を命じられた。後に嘉永六年ペリーが来航するや、幕命によって武蔵・相模・安房・上総下総の巡検を行い、品川砲台などを築いたが、今も台場の一部は残っている。
こうして諸国の大名にも海防・攘夷に尽くす者は多かったが、とりわけ水戸の徳川斉昭は藤田東湖を登用して藩政を改革し、天保十二年には弘道館を水戸に建て、礼楽・射御・算数を始め砲術も医術も藩士に授け、忠孝の道をすすめて、士気をはげまし、また国内寺院の巨鐘を集めて大砲を鋳、鉄砲隊を組織して兵制を西洋の式とする。のち安政二年に至って、水戸の東方約二里那珂川口にある湊付近の吾妻台に反射炉を築き、ペリーが来るのに及び大砲七十四門を献上して、当時の人を驚かしたことがある。
斉昭は率先して攘夷論を唱えて盛んに天下の人心を鼓舞した人である。斉昭の攘夷論は水戸学から発展している。水戸では国学と漢学を一つにして国体を宣揚しようとする藤田幽谷がいた。藤田東湖(彪タケキ)は幽谷の子であり、水戸学を発展させた人。その回天詩史の始めに「奉神州之道」と書き出しているが、これが弘道館教育の根本精神で、斉昭の精神でもあった。斉昭の「海防愚存」には「我が神国だけ鎖国の考えを守り」と言っているように、畢竟水戸学は「神国思想」を中心としているもので、この立場から斉昭が唱えた攘夷論は力強かった。
147: 09/26(木)11:29 AAS
個人的に結局斉昭たち水戸は攘夷より倒幕が目的だったと疑っているので、この攘夷を扇動して民衆が幕府を吊し上げることになった手法はよく見かける。太平洋戦争で外国との軋轢を生んだ新聞社の国民煽りと似ている。
国民を煽って対立させある方向へ動かすという手法は昔からあって、その方法は名誉革命やフランス革命に似てる。
148
(1): 09/26(木)12:48 AAS
外人の掌で転がされる日本
宣教師は維新後大学を創設したり、明治政府のお雇い外国人になる。
フルベッキは明治政府顧問だったが、現代でも菅の顧問は欧米人のデービッド・アトキンソンがやっていた。12億かけた日光東照宮の修復を数年でカビさせボロボロ剥げにした小西美術工藝社の社長

「江戸幕府に対抗した叛逆者の中で私が一番のつわものだった」とグラバーが堂々公言しても誰も気にしない。
外部リンク[html]:museum.kirinholdings.com

宣教師チャニング・ウィリアムズ
外部リンク:ja.m.wikipedia.org
「この頃の長崎では龍馬や荘村をはじめとする幕末の志士たちが多く活動した。ウィリアムズ、フルベッキが当初暮らした崇福寺と志士たちも利用した料亭花月のある丸山、志士たちのスポンサーであったとされる大浦慶の邸宅、ウィリアムズ、フルベッキがその後暮らした東山手居留地、志士たちに艦艇や銃器を提供販売し、亀山社中とも取引を行ったトーマス・グラバーのグラバー商会やグラバー邸は、程近くにあり、海外の情報を得て学びたい志士たちと、外国人たちのコミュニティが出来上がっていた。大浦慶と手を組み製茶貿易で成功し、土佐藩が頼りにしたウィリアム・オルトが経営するオルト商会やオルトの邸宅も近くにあった。東山手居留地の英国聖公会会堂は、長崎に駐在する欧米の外国人たちが集い礼拝する場所であった。教会管理人の一人をグラバーが務めた[52]。日本のその後の動きを決める、話し合いがこの長崎のコミュニティでなされたと言ってよい。」
149: 09/26(木)13:13 AAS
島津斉彬は島津重豪にかわいがられていて一緒にシーボルトに会ったことのある蘭癖大名。
お由羅騒動で斉彬と後継者争いをしていた久光は蘭学よりは国学だったから生麦事件になったのか?
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