【日本史】GHQに焚書された書籍 (533レス)
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510(2): ブログ転載 11/21(木)22:14 AAS
AA省
511: ブログ転載 11/21(木)22:19 AAS
AA省
512: 11/21(木)23:23 AAS
>>510
御親
513: 11/21(木)23:23 AAS
文字化けは「」
514: 11/21(木)23:24 AAS
謁見(えっけん)の「えつ」
515: 11/21(木)23:25 AAS
御親
516: 11/21(木)23:26 AAS
見の??が文字化けする
517: 11/21(木)23:27 AAS
文字化け部分は見(えっけん)のえつ
518: ブログ転載 11/22(金)17:13 AAS
p342
浅川東口からの御陵参道は七間幅、その両側に一間ずつの植樹帯、その他に二間ずつの歩道があるから総計十三間幅となる。大鳥居は高さ二十二尺の台湾檜である。
上円三段下方三段の御陵表面は直径五寸の御影丸石でおおわれ、周囲には二千五百平方メートルの所に内玉垣を設け、その中には玉川砂利の清楚なものを敷き詰めてある。
「春興殿」の挿絵も写真によっている。天照皇大神の御霊代である三種神器の一つである御鏡を清めて神に仕え、祀る所を賢所といい、やがて御鏡のことをも賢所というが、その賢所は陛下御一代ただ一度御即位の礼の御時に限って京都へお移しなさるのであるが、すでに今上天皇は賢所を捧持して昭和三年十一月七日京都皇宮に着御、春興殿に奉安いらっしゃる。
即位の礼を分けて、賢所大前の儀と紫宸殿の儀とするが、賢所大前の儀は十日の午前に行われたのであるが、これはこの春興殿で行われたことである。
春興殿の向かって左には、御同道になった御羽車(賢所を乗せ申し上げる)を入れる御羽車舎、向かって右には奏楽舎、神楽舎の右左にとばり舎がたっているはずである。春興殿の中は外陣・内陣・内々陣に区画されていて、その内陣に両陛下の御座が設けられる。
今上天皇の場合は即位礼の喜びを下万民に分かちなさる大御心から、御大礼式場あとを十二月一日から期間を限って拝観を許されたものである。
519: ブログ転載 11/22(金)18:17 AAS
p343
(2)指導要領
これは環境となるものが豊富であろう。特に当時の体験的思い出話によって、国民意識を十分に味合わせるようにしたがよい。
即位大礼の盛儀についても、よくその頃に気分に浸らせて、日本的観念を構成するよう指導せねばならない。
大礼の盛儀などは、製作的に指導すると能率が上がる。こうして国体の観念を養い、昭和の大理想は何であるかを頭に入れる。
大正時代をここでまとめて、昭和の時代を展望させるのである。
また大正天皇祭とか、天長節とか、地久節とかと連絡して「祝祭日と記念日」、「年中行事」、「我が国の外交」、「我が国の政治・政党」、「我が国の文化」というような課題を立てて、最も新しい材料すなわち現生の歴史的解釈を相当の時間をかけて取り扱っておいた方がよいと思う。こうして国史全体の総括的取り扱いを行い、国民の覚悟に及んで国史学習を終わろうとする。
520: ブログ転載 11/22(金)21:07 AAS
p343
第五十九 総括 国民の覚悟
学習目的
国初から現代に至るまでの国史の大略と要点を想起させ、そこに我が国の国史生活発展のあとを省み、もって今後国民が覚悟すべき点がどの辺に存在するかを会得させようとする。
学習事項
(一)我が国の国体の尊厳
省7
521: ブログ転載 11/22(金)21:45 AAS
p345
(二)明治維新に至るまでの大勢
しかし時が久しいので変化はおのずから生じ、世に治乱があり、政に弛緩がないことはできない。王政千八百五十一年の後は政権は武門に移り、武家政治の変態を見ることは実に六百七十五年の長さに及び、慶応三年(二五二七)王政は復古するに至り、明治維新から以来再び国体に基づいた正しい政治の形態が出来上がったのである。こうして我が国の政治も錬成に錬成を重ねて発展して来た。
経済の方面を見ても、また文化の方面を見ても、結局は発展している。これは一つは我が国の国民性がそうさせるところ、我が国の国民性を約言すれば、生命尊崇の精神である。生命尊崇の精神は生命発展の精神である。生命発展の生活は文化生活といってよい。生命発展のためには、忠君の精神と、親和愛好の精神と、尚武の精神をもって来たのである。
我が国民は自主性を持っていたから、無反省で固有のものをすてなかった。文化複合時代の国史に、その例証が実に数多い。同時に抱擁性を持っていたから、異民族をも異文化をも抱擁した。儒教しかり、仏教しかり、西洋文化しかりである。同化性をもっていたから異民族でも異文化でも、ことごとく我が国に同化している。創造性は古来我が国の国民性には不足しているともいったが、詳細に歴史の跡をたどれば決してそうではない。あらゆる文化を融合して、常に新しい独自の文化を建設して来た。
国民性と国体観念とが互いに影響し融合して、ここに日本精神というものができている。この日本精神によって我が国の発展があったのだ。
顧みれば我が国の古代は「純」な価値未分の時代・意思の時代・実行の時代であった。上代は「美」の時代・感情の時代・芸術の時代であった。中世は「聖」の時代・信仰の時代・宗教の時代であった。近代は「善」の時代・理性の時代・学問の時代であった。そうして明治以後の現代は「真」の時代・経済の時代ともいわれる。いずれの時代もやむにやまれぬ人生価値を追求して、生の発展をはかって来た。
我らは、この発展を国史の中から汲み取らなければならない。
522: ブログ転載 11/23(土)10:15 AAS
p346
(三)明治大正時代の回顧
明治の維新は実に未曾有の一大変革であった。しかも王政復古の大業は極めて円満に進んだことは、古今東西の歴史にその類例を見ないところである。以来王政の恵みにして一君万民の国体を実にしている。明治二十二年にはおそれ多くも明治天皇は欽定憲法を発布しなさり、その時から日本独自の立憲君主国となり、憲政の思想も日を追って発達した。
外交方面では断然外国と修好するという方針に出て、世界の外交界に突入して国権国益を主張し、日清・日露の戦に国の国力を示し、韓国は併合され、条約は明治四十四年をもって全く対等のものとなり、東洋の盟主たるだけではなく、全世界を指導するという基礎が出来た。
経済の方面では新興の勢力をもって資本主義の経済となり、また地方経済であったものを国民経済の時代にまで進めてきた。
523: 11/24(日)03:30 AAS
>>322
ユダヤ人は作家を使って社会的思想をコントロールするのが得意という話題に関連して、芸能界は片目を隠したりして露骨にイルミナティをアピールしているが、漫画アニメにもサタニストの要素が入っている。666
ドラゴンボールもミスターサタンとデービルが出てきて孫悟空の血統と交わる。小麦粉を取り扱うアメリカユダヤは日本人にパンを食べさせたい。
超サイヤ人が出た頃から変わったと思う。その前はインディアンがいい人キャラだったり、中国風な世界観でアジア優勢だった。国王なんて犬で人種関係なかった。
でも面白い漫画アニメがサタニストだからって見ないのもつまらないし、漫画アニメとどうつきあえばよいのかを考えた。
自分を楽しませてくれる遊びの女程度につきあうのがいいのかととりあえず思いついた。
間違っても本気で好きになって貢いだりしてはいけない。
戦後、ロックフェラーが資金を出して吉田茂(フリーメーソン疑惑あり)が主導してつくった国際文化会館が、日本の社会的思想をコントロールしていそうとにらんでいるが、近年の会員に作家は見当たらないようだ。大企業の役員や、大学教授などが多い。文化人は演奏家など。しかし怪しい。
524: ブログ転載 11/24(日)14:14 AAS
p347
文化一般から見れば、明治十年頃までの旧習一洗、二十年頃までの西洋心酔、二十七年頃までの国粋保存、明治三十七、八年頃までの国民自覚期を経て、三十七八年以後は道徳は退廃して西洋文化の弊害も見えてきたが、この時に当たってオイケンやベルグソンの理想道徳が高唱されるなど、見まぐるしいばかりの歴史の文はあれど、結局は驚異的な発展を遂げている。
大正の時代に入っては、憲政は普通選挙にまで及んだ。大正十年五月五日は普選の交付された日である。外交はますますその舞台が広まり、世界大戦に際してはドイツと国交を絶ち、世界の五大強国として講和会議に列し、皇太子は外遊され、ワシントン会議に加わり、人類平和のために力を尽くすこととなり、国民の責任は重さを加えて来た。大正時代の外交はまさに明治時代を継承して花の開いた時である。
文化方面もまた明治を継承したが、欧州大戦以来、我が国民の思想はとかく動揺をまぬかれなかったが、ちょうど大正十二年九月一日には関東代地震が起こり、死者十数万、負傷者十万人、被害百億円以上にも上り、国家の損害ははかりしることができないものがある。ここにおいて大正天皇は特にその年十一月十日に国民精神作興に関する詔書を下し、「最近は学術はますます開け、人智は日に進む。しかしながら浮華放縦の習わしが次第にきざし、軽兆脆激の風もまた生じる。今に及んで時弊をあらためなかったら、あるいは先祖の遺業を失墜させることを恐れる。今次の災禍ははなはだ大きくて、文化の紹復、国力の新興は、皆国民の精神に期待するのはなおさらだ。」とおっしゃりなさり、「浮華放縦をしりぞけて、質実剛健におもむき、軽兆脆激を矯正して醇厚中正に帰す」とねんごろに諭しなさる。まことにおそれ多いことである。こうして大正時代はその大所高所から見るならば、守成紹述の精神から、国民的自覚心が発揚し、転回進歩の気運が出て来た時である。いわば明治時代の文化に反省を加え、何らかの転回進歩を図るべきことに気運が動きかけた時である。まことにその機を得た傾向といわれねばなるまい。
※浮華=うわべは華やかで、実質の乏しいこと。
※軽兆=言動が軽はずみなこと。脆激は不明
※紹復=前人の事業を再興する。
525: ブログ転載 11/24(日)15:19 AAS
p348
(四)国民の責任と覚悟
(1)両陛下の御聖徳
今上天皇は御幼少の頃から、将来の聖天子としての御資質をそなえなさり、国史上の人物では清麻呂・義家・義経・頼朝・秀吉・清正などの物語をお好みなさり、特に義経をお好みになったという。天皇は歴史に関して深く御研究になっているばかりでなく、生物学の御研究では専門的におわたりなさり、その他万般に通じなさり、また孝行心が深く、君徳を備えなさるところは、明治天皇を拝するかのようで、国民の幸福はこれに過ぎたものはない。
皇后は久邇宮邦彦王の第一女にあらせられ、御名を良子と申し上げ、明治三十六年三月六日御誕生、大正十三年一月二十六日皇太子妃殿下、昭和元年皇后に立ちなさる。皇后は御幼少の頃から気品は衆にすぐれなさり、きまりよくあらせられ、お用いの品は大切にお取り扱いになり、御自身で御整頓をなされ、御修学中でもよく時刻を順守しなさり、御運動は特にテニスに御上達でいらっしゃる。大正十二年九月一日関東大震災のことがあるや、多数の衣服をお縫い上げになり、難にあった者に賜ったこともある。御仁徳は特にすぐれなさるものであるから、国民はあたかも慈母に仕えるかのようにして景慕し申し上げるところ、皇室はいよいよ御繁栄でおありになり、国体はいよいよ強固を加えて、神勅の御精神はますます発展している。
われらは万古に動きなき皇位を翼賛し申し上げる栄誉に浴しているのである。
(2)政治上の問題
明治・大正の時代を受けて、今やわれらは昭和の時代を迎えた。政府においては憲政がますます熟して普選の時代となった。これは大正十四年五月五日に公布された十三章五十条の衆議院議員選挙法がそのはじめである。従来選挙権に納税要件を付すことが残っていたので、この不公正な制限を撤廃せよという要求が次第に台頭し、第十八議会にそれが現れて以来二十年間以上国民の声として叫ばれたもの、大正十四年憲政会、政友会、革新会のいわゆる三派連合の基礎をおいた加藤高明内閣のとき、第五十議会においてはじめて挙国参政を精神とする普選法が通過したので、昭和二年九月二十一日に実施することとなった。
この選挙法の特徴とするところは、第一に選挙権の拡張ということ、第二には中選挙区制の採用、第三には選挙運動の制限ということである。
526: ブログ転載 11/24(日)16:25 AAS
p350
すなわち満二十五歳以上の帝国臣民である男子は全て選挙権があり、満三十歳以上の男子にはすべて被選挙権がある。そして全国を百二十二区に分け、一選挙区は定員三名ないし五名とし、選挙の公正を保つためには至れり尽くせりの注意を払って設けた規則である。
今日はなお女子にも参政権を与えよとか、選挙権をなお拡大せよとか、選挙区を改めて、比例代表制にせよとかいう議論は残っている。
しかも惜しいかな、公正な選挙はなかなか行われない。天皇から与えられた選挙権を行使するには、天皇を翼賛し申し上げる誠意をもってしなければならない。われらはあくまで日本独自の選挙制が確定されなければならないと思う。
選挙によって出た議員は多くは政党をつくる。政党は二大政党を対立させ、大政党が内閣を組織する。これが政党内閣で国民の信頼を負ったものと見る。国民の信頼は選挙に反映するから、これによって内閣が維持されたり更迭されたりする。これが憲政常道論である。大正七年九月二十九日に成立した原敬内閣はまじりけのない政党内閣の出現であった。以来変遷を経て、次第に政党内閣となって来たが、そのうちに政党は自党本位となり、財閥と結託して政治を行い、政党も財閥も選挙も腐敗しているとの声がしきりで、ついに昭和七年五月十五日帝都において、陸海軍人及び民間有志が互いに分かれて、首相官邸、政友会本部、内大臣官邸、日本銀行、警視庁、三菱銀行などを襲撃し、時の総理大臣犬養毅はそのためにたおれて十六日薨去したという大不祥事件が勃発したので内閣は総辞職となり、二十四日子爵斎藤実に大命は降下して、斎藤内閣は出来た。この内閣は、今日の時局を打開するには憲政の常道を排して政党を基礎とする挙国一致内閣ということを標榜して立った。
こうして国民の心は政党を離れ、あくまで国家本位の政治が行われるように望んでいる。したがって政党はその信頼を回復することに努めて、次第に国家本位となっていくようである。
しかし政党に対する不信は国民自らの不信である。どうしてかというと政党議員は国民自ら選挙したものであるからである。
国民はここに覚醒して、自ら国家本位の観念に立ち返り、理想的な議員を選出し、国家本位の理想的な政治が行われるようにしなければならない。これが今後国民に課せられた大きな問題である。
527: ブログ転載 11/24(日)17:01 AAS
p351
(3)外交上の問題
(イ)軍縮の問題
明治大正のあとをうけた昭和の外交はいよいよ世界的となり、特に大戦後の外交は太平洋を中心とし、特に東洋に着眼されるようになった今日、軍縮の問題はたしかに考慮を払われるはずの価値がある。かの主力艦の五・五・三比率を決めた大正十一年のワシントン会議後は、補助艦艇中でも巡洋艦において著しく造艦競争を招来するに至った。ワシントン会議では、補助艦について、単に一万t以下であること、備砲八インチまでと決めた他は、なんらまとまるところがなかったからである。
ここにおいて昭和二年にジュネーブ三国海軍制限会議が開かれ、日・英・米間においてワシントン条約の間隙を補填しようとしたが、不幸にも失敗し、再び競争の旧態にかえったので、さらにまた昭和五年一月二十一日からロンドン会議を行い、この問題を議論した。我が国はその時、海軍の三大原則というものを立てていた。
一、水上補助艦は総括的対米七割であること
一、八インチ砲巡洋艦も対米七割であること
一、潜水艦は現有量を保持すること
これは軍部はもちろん、政治家もこれを宣伝して会議にのぞんでみると、英米の共同反対にあって会議は完全に行き詰まり、決裂の他なきまでに至った。それをようやく一つの妥協点を発見して、これに同意して終わったわけであるが、国内特に軍部側にはこれに不満を抱く者もあり、軍部対政府に各種の問題を醸成した。政府は財政の許す限り海軍の新補充計画をするということにして、ようやく批准交換に漕ぎつけた。かの五・一五事件もここに原因の一つがある。
こうしてロンドン会議は日・英・米においては、ともかくもまとまったが、仏・伊両国はなんらの協定を見ることなくて物別れになったから、これら両国が造艦競争をすれば、当然他国の方へも刺激を与える。
省1
528: 11/24(日)19:21 AAS
>>2
【シオンの議定書】スレに『戦時生活の建設』森崎善一著を転載していて、その中にワシントン会議について書いてある部分がある。
2chスレ:whis
高等小学国史新指導書下巻にもあるように、ワシントン条約の時に日英同盟もなくなってしまった。
日英同盟の解消と日本の軍縮を併せて、アメリカは20年前から太平洋戦争に照準を合わせて計画してきた。戦勝を確実なものにするために。
そしてワシントン条約は今では絶滅動物の保護に使われていて、わざと名称を被せて過去の軍縮条約を忘れさせようとしてる卑怯もの。
529: ブログ転載 11/24(日)21:02 AAS
p353
(ロ)極東の政局
維新以来の理想は明治・大正の時代において、ほぼ達せられ、国際的にも重きをなすに至り、我が国の一部にはほとんど理想を失う者が出て来た。また世界大戦の余波は我が国の経済を豊かにした挙げ句、生活は驕奢となり、大正四年から昭和二年の間に輸入超過の総額は実に十一億五千四百万円に達している。加えると世界的経済不況ときたから、我が国の経済は急に行き詰まり、そこに各種の思想問題をも生じ、やや国民に倦怠疲労の色も見えた時、はからずも憂いは隣国支那の方面から襲って来た。
隣国支那には明治四十四年辛亥革命以来、民族主義・国家主義・資本主義・共産主義が雑然として並列して、収拾もできない混沌状態をあらわしたが、このいずれの主義から見ても日本とは合わなかった。
ここにおいて彼らは我が国を侮り、我が国を排除し、我が国に抵抗するに至り、日本の発展を猜忌する欧米列国にすがって、支那一流の遠交近攻の策によって我が国に迫って来た。我が国との間に三百件以上の不解決問題を蓄積するに至り、我が国に隠忍に隠忍を重ねさせたものであったが、ついに昭和六年九月十八日、支那正規兵の満鉄爆破事件により、俄然我が国の自衛権は行使されるに至った。後錦州城に入ったのは昭和七年一月二日であるが、この事変によって我が国の戦死二九九、戦傷六〇二、凍傷三七〇以上、その犠牲一千二百を数える。(昭和七年一月二十日現在地)
そうであるからにはまた新しい紛争は南支那に展開された。上海事変これである。この事変は昭和七年一月九日民国日報が我が皇国に対する不敬記事掲載、一月十八日夜における我が国の日蓮宗僧侶五名を袋叩きにした結果、二十四日一僧侶水上秀雄が死亡した事件がある。急角度に険悪化し、我が国は海軍の他陸軍も送って交戦するようになり、敵は蒋介石政府に反対して対日強硬論を唱えていた蔡廷楷の率いる広東派の十九路軍約三万二千、列国も軍隊を増して尖鋭化している中で、爆弾三勇士のように、帝国の名誉を発揮して敵を潰走させ、三月三日停戦の声明を公にした。この事件においては我が国の死傷は二千五百を数える。五月五日英国公使ランプソンの調停により停戦協定が成立し、六月から我が国は撤兵を開始した。
こうして我が国は満州における旧軍閥の搾取政治(七割の重税)を葬った結果、そこに満蒙三千万民衆によって新満州国が建てられた。
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