【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
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p65 第三十八 産業・学問の発達 元禄時代の文芸

学習目的

江戸時代の初期、綱吉頃に至るまでの産業ならびに学問の発達について本末式に学習し、併せて元禄時代の文芸を知らせ、当代文化の発展状態を会得させる。

学習事項

(一)交通・産業の発達
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p67
中山道は中仙道とも書き、江戸から京に至る別路で、約百三十七里十一町、草津で東海道に合し、六十九駅をおいた。
奥州街道は江戸から青森まで六十九次、日光街道は江戸から日光まで二十四次(江戸から宇都宮までは奥州街道と同じ)、甲州街道は江戸から甲府まで三十四次である。
水路は慶長中は角倉了似がいる。性格は工役を好み、家康に用いられて、丹波の保津川・駿河の富士川・信濃の天竜川・京都の加茂川を分流させた高瀬川などに水運の便を開き、さらに琵琶湖の疏水を計画したが果たせず没した。
また四代将軍家綱の頃、河村瑞賢が出て、治水や運輸航海の術に長じ、幕府の命を受けて大阪淀川の末流で常に氾濫して市民が害を蒙ったのを、川底にたまった土砂をすくいだして、名を安治川と改めてその害を除き、また寛文中は瑞賢が奥羽の官米輸送の命を受け、船と人を選び、見張りを厳かにし、難所には水先案内人や烽火を設け、奥州の米は荒浜から東海道を通って江戸へ送り、出羽の米は酒田を出て北海路により下関に出て、さらに瀬戸内海を通り、大阪に寄って江戸に着かせて以降、この両海路の発達が著しくなった。
なんでも従来は一年以上も費やした奥羽海路が、瑞賢の功績によって三ヶ月に短縮されたということである。
陸上水上の交通が開け、商業もようやく盛んになり、遠方と通信するという必要が起こってから、飛脚を業とする者が出てきた。飛脚にも色々と種類があって、幕府の公用に継飛脚というのがある。これは各駅で人馬を継ぎ代えて順送りにしたのである。
大名飛脚というのは、大名が江戸と国との間に設けたもので、尾・紀両家の七里飛脚がもっとも有名である。
町飛脚は、元和元年大阪城定番の諸士は、東海道の各駅長と相談し、その家隷をもって飛脚とし、毎月八の日をもって東海道を往復した三度飛脚にならって、大阪の商人が始めたもので、寛文三年には飛脚組合の創立を見、この時から各地に定飛脚を生じた。
寛文十一年大阪飛脚商などは江戸同業者と相談し、初めて両地商売の金銀順送りを行う。これを金飛脚というので、商取引の便を大にしたものである。
省2
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p69(二)文教復興する

天正十八年、豊臣秀吉にしたがって小田原を攻略した時、諸将士は争って金銀財宝を争奪していた時に、独り古書・古記録ならびに文書を数多蒐集したというのは家康である。
武家法度や公家法度において「左文右武古之法也」と定めたのは家康である。
家康は戦国以来の殺伐な気風をただして太平を至すには、文教の力によらなければならないと考えたもので、慶長六年には伏見に円光寺という学校を建て、僧の三要を教授とした。
慶長七年には江戸城内に富士見文庫を建てて、金沢文庫の書物をはじめ古書を四方から集めてこれを保存した。
寛永十六年家光はこれを城内紅葉山に移して紅葉山文庫と改め、今日は内閣文庫となっている。
家康はまた足利学校の蔵書などを元として、木製活字により孔子家語・周易・群書治要・六韜三略・武経七書などを上梓し、後に幕府において、銅の活字を用い、大蔵一覧集・吾妻鏡などを刊行した。世に幕府版というのはこれである。
家康が文禄の役で秀吉に従って名護屋にいた時、陣中に京都の儒者、藤原惺窩を召して書を講義させた。関ケ原の役の後、また招こうとしたが惺窩は辞退して出ない。よって慶長十三年惺窩の高弟、林羅山は駿府において家康の侍読となる。以後幕府の学者となり家綱に至る。子孫はこの職を相継いだ。林家の学は宗の朱子学である。
京都の学者はこれを非として、幕府に朱子学を中止するように願ったが、家康は、人倫の道は自由に講義するのが相応しいと言って、ついに朱子学を幕府の学としたのである。
五代将軍綱吉は、母桂昌院が何よりも学問を勧めたので、幼いときから、並々の人が及ばないほどであったという。将軍となった後も、自ら書を殿中で講義して、あるいは自ら大名の邸宅に至って開講するという熱心さで、おおよそ歴代将軍中、学を好んでいる点においては綱吉の右に出る者はいないであろう。
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p70(三)数多の漢学者現れる

道春と時を同じくして近江高島郡小川村に中江藤樹がいる。若いとき伊予の大洲藩に仕えたが、老母を一人郷里にとどめておくのに忍びず、寛永二年職をやめて帰り、母に孝養を尽くすかたわら、私塾を開いて門人を教えた。
藤樹の学は陽明学で知行合一を中心とした。徳行を使って感化を四方に及ぼし、近江聖人と称された。慶安元年四十一で没した。
門人のうち熊沢蕃山がもっとも著われる。蕃山は寛永十一年、備前の池田光政に仕えて国政に預かり、水利・産業に功があり、名声は天下に聞こえたが、明暦三年仕を辞して、京に出て学を講義した。陽明学を極め、経世済民の識はすぐれ、国典・和歌・音楽にも通じ、貞享四年上書して時事を論じ、幕府に関することで下総古河に幽閉された。元禄三年七十三で没した。
京都では寛文元年家綱の頃、伊藤仁斎は論孟二書によって古学を唱えた。門下二千人以上、寛永二年七十九で卒し、五子皆池学を受け、ことさらに長子の東涯は恭謙博学よく家学を大成した。
東涯と同時に江戸に荻生徂徠がいる。本姓は物部氏であったから、その一字を取り支那流に物徂徠とも物茂卿ともいった。
朱子学から古学に転じた人で、自ら「熊沢の知と、伊藤の行、それだけではなく私の学をもってするならば、すなわち東海から始めて一聖人が出るだろう。」と豪語した。門下に太宰春台や服部南郭などのような有名な人が多い。享保十三年六十三で没した。
木下順庵は京都の人、藤原惺窩の門人、松長昌三(尺五)の門から出て、後に将軍綱吉に登用された。程朱の学を固守し、学徳共に高く、詩に秀で、よく人材を養った。新井白石、室鳩巣、貝原益軒など木門の人は甚だ多い。
新井白石については尋小国史に出たのでここに略し、室鳩巣は江戸の人、幼くして加賀候に仕え、命令を受けて木門に学び、かえって金沢で学生を教授した。後に吉宗の侍読になった。駿河台にいたから駿台先生といい、赤穂義人録・六諭義は彼の著である。

※東海=日本の異称
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p71
貝原益軒はまた損軒ともいい、筑前の人で、明暦の頃木下順庵その他の門に入り、学が大成して福岡候三代に歴仕した。益軒の性格は恭しく慎み深く、経学に関するものの他は、皆仮名まじり文で書を著したから、民衆を益することが多く、その書は百種以上ある。益軒十訓のようなものは今でも有名である。正徳四年八十五で没した。
山崎闇斎は京都の人で、はじめ僧となり、次に土佐に行き谷時中について朱子学を学ぶ。
海南土佐で発達した朱子学を南学というが、闇斎は京に出て南学を弘(ひろ)めた。門下六千人、大義名分を明らかにする尊王者を後世に出した学統である。天和二年六十五で没した。
山鹿素行は通称甚五左衛門、会津に生まれ、江戸に出て修学、承応元年浅野長矩は素行を呼び寄せ、禄千石を支給し、礼遇実に十一年、万治三年辞して江戸に出ているうちに聖教要録を著して、幕府の朱子学を攻撃したので幕府が忌憚するところとなった。
素行の学は古学派に属するとも見られる。その罪によって寛文六年から十年まで赤穂に配流されたが、大石良雄などの感化を受けたのはこの間のようである。素行は許されて江戸にかえるや、経学を捨ててもっぱら兵学を唱えた。兵学派と称される所以である。
素行は当時の儒者が、儒学を尊ぶあまり、我が国をいやしみ軽んじる者もいたので、大いにこれを憂え中朝事実を著した。ここに素行独自の学説が存在する。
素行の学説は武士道論と国体論とからなっている。武士道においては忠義を説き、国体論においては神道を基調として固有の国体を力説している。
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p73(四)通俗文学興る

江戸時代に勃興した日本の俗曲は、二つの大きな系統をひいて相互に発展した。その一つは浄瑠璃(かたりもので操り人形にともなって発達した)他の一つは唄(うたいもので歌舞伎にともなって発達した)である。
浄瑠璃は室町末から起こり、浄瑠璃姫のことを語ったからこの名が出た。三味線に乗って本当の節をつけて語られるようになったのは、慶長の初年からのことである。この慶長年間浄瑠璃に合わせて人形を操ることも始まった。こうして操り芝居と相ともなって発達してきた浄瑠璃がすなわち義太夫節である。この節は摂津国東成郡四天王寺村から出た竹本義太夫によってはじめられた。
竹本義太夫は大阪道頓堀に竹本座を設立し、貞享二年二月一日はじめて義太夫節の発表をした。
この竹本座では人形遣いの手は揃っていたが、浄瑠璃の作者が欲しかった。そこで目をつけたのが近松門左衛門である。
近松は長洲萩の人という。元禄三年竹本座の座付作者となっている。ここに竹本座全盛の時代ができて当時の民衆をよろこばせた。近松の作は甚だ多いが、例の鄭事蹟をしくんだ国姓爺合戦が有名である。
竹田出雲は近松に伝授を受け作者としても有名であり、大石良雄の義挙を材料とした仮名手本忠臣蔵がある。
竹本義太夫の門下に豊竹若太夫がいた。これが豊竹座というのを大阪東竹慶町に起こし、紀海音を座付作者として竹本座に対抗した。太夫も作者も人形遣いも火花を散らしての目覚ましい競争に、民間の熱烈な声援もともなって、そこに義太夫が大いに発展した。
貞享から明和に至る九十年間は、義太夫の全盛時代である。義太夫と浄瑠璃は別物だが、ここに至れば同じように使われている。
浄瑠璃と共に民衆娯楽の双璧であった歌舞伎も、元禄頃には大いに発達し、初代市川團十郎が出たのもこのときである。
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しかし言葉の上の洒落を主としたことは同じである。
晩年には実際社会の滑稽な事柄を主題とするようになったのは進んでいるが、どちらかといえば浅はかなユーモアで、これを檀林風といった。
これに対して伊賀国上野に生まれた松尾芭蕉(天保七年 元禄七年)は万象の奥にある閑寂を味わって、いわゆる蕉風とか正風とかいうものを起こした。
天和二年の深川の大火の時、その災いに逢い、僅かに身をもって免れたが、この時から西行の風を慕って、自然の風物を楽しみ、諸国を行脚して至るところで句作をほしいままにした。
貞享二年「春の日」という句集ができたが、その中に

古池や蛙とびこむ水の音

という有名な句がのせてある。これはかつて江戸の深川に閑居した時よんだものだという。彼が大阪で没する時の辞世に

旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

とある。その門弟に宝井其角・服部風雪・森川許六などがいて、正風の俳諧はついに天下に普及した。
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p75(五)美術工芸進歩する

美術工芸もこの時代に至ってますます精巧を極めた。将軍家光の頃、狩野永徳の孫に守信が出て探幽斎と号し、初め家法を学び、それに熟するに及んで、宗元の風格筆致を取り入れ、新たに温雅にして巧麗という一風をつくり、いわゆる漢画の日本化を大成した人である。
探幽は当時の殿中に縦横に才能をふるって今に残るものも少なくないが、探幽畢生の妙をふるったのは、日光山秘蔵の日本山縁起だというのである。この時から後の狩野派は皆探幽を守ってその外へ出ることができなかったようである。
綱吉・家宣・家継の頃は探幽の他に土佐光紀が土佐派を復興した。朝廷の絵所に仕えて大いにその家風を上げ、ひそかに北宋の画風を併せて時代に適合し、北野天神縁起など有名な作を残している。元禄四年に卒した。
岩佐又兵衛ははじめ、土佐派に学び宗元画に参し、もっぱら当代の風俗人物を書題にとって彩筆をふるい、配色艶麗筆致精巧をつくし、後の浮世絵の元祖といわれる。浮世又兵衛ともいう。
家光に招かれて城中で卒するという。東照宮拝殿にかかげる三十六歌仙の絵額によってその書風を見ることができる。
菱川師宣はまた浮世絵の本領を発揮し、書風は土佐・狩野を合わせたものだが、彼の書風は元禄の時代、趣味にもあって甚だ盛んになった。江戸絵といって江戸土産には欠くことができないものとなった程その印本も流行した。
京都の尾形光琳はまた一格を出し、写生を基礎として巧みにこれを装飾化する手腕は古今独歩ともいうべく、光琳模様といって蒔絵にも陶器にも織物にも応用された。光琳は享保元年五十九で没した。
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p76 (六)元禄風
江戸時代には直垂など武士の正装と定められ、肩衣・半袴・羽織・袴などが広く士民の間で行われた。元禄頃は服装一般に華やかになって、女子の方は振袖・幅広の帯などで、はでをつくして衣装の美を競ったから、今でも元禄模様・元禄帯・元禄笠など伝わっている。男子も紅の肌衣を着る者さえあった。
貞享頃の草紙に「今世の女は、昔なかった事などをし出し、なんとまあ、身だしなみ道具は様々である。これに気をつけて見たところ、首筋から上だけにあるものは十六品ある」とあることから見ても、いかに派手を極めたかがわかる。
男でも頬・頤・鼻の下まで残りなく剃って女子のようにし、甚だしいのは眉を細く剃りつくる者がいて、また白粉をつける者もいた。
これでもこの後に来る文化文政の時代に比べると、まだ生き生きしたところがあったようである。

学習参考

(1)挿絵解説

「東海道の旅行」は安藤広重筆東海道五十三次の内によったもの、時は夏、伊勢鈴鹿郡庄野駅、路傍の小山は一里塚で榎が植えてある。
右の方へ走るのは早飛脚で公用の者らしく、先には御用と書いた提灯を持ち、次に状箱を担いで走っている。左の方へ走るのは早駕籠で、先引と本役2人と後押で、籠かきを代えて昼夜兼行で走る。乗り手は天井から綱を下ろしてそれをつかんでいるが、それでも非常に疲れるものだという。辺りは一面水田で田植えが始まっている。
「船運の便開かれる」の絵は、秋里裡島の「拾遺都名所新図会」所載のものによる。京都高瀬川曳舟の様子、舟は高瀬舟である。この舟は薪炭を積んでいる。ホーイホーイの掛け声で舟を曳(ひ)き、船の中では棹を使って岸にぶつからないようにしている。高瀬川のことは本文中に書いておいた。
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p78 (2)指導要領

この教材は高等科の教材らしい教材である。一般に高等科の教材中には尋小国史と重複したものが多いから、これはなるべく将来を期して改めてもらいたいものである。改められるまでは指導者が心して尋小国史に出たところはなるべく思い出させる程度にして、その材料が持つ意味に深く這い入るか、あるいは観点をかえていく通りにも観察するとか、あるいは重複材料で時間を少なくして新材料で多くするとかの工夫が必要である。
この教材では交通経済・利用経済の事、学問・文学・美術工芸・風俗などが出てくるが、特に経済のことと、民衆芸術のことは比較的新しい材料であるから有効に取り扱ったがよい。生活に則して取り扱うのである。
いずれの材料も精々生活化しなければ嘘である。それには文化の内容についても見識を持つことが必要であり、また現代化することも必要である。
出来るだけ事物環境や形式環境を整えて、空虚な話にならないように注意すると、これらの教材は子供に歓迎されるようになる。
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p79 第三十九 江戸幕府の中興

家光の薨後、家綱は幼くして職を継ぎ、国内に事変は起こったにしろ、名臣の輔弼に好ましい者を得て、善政多く太平をいたしたが、綱吉が出るに及んで弊政をしき、上下は大いに苦しんだけれども、やがて新井白石・徳川吉宗が出て、よく幕府中興の実を挙げるのに至った次第を知らせ、統制文化を中心として兼ねて学問・経済などの文化をも追求させたいものである。

学習事項

(一)家綱の政治

厳有公家綱は大猷院家光の第一子、慶安四年将軍となる。輔弼の臣に松平信綱・保科正之がいて善政を施した。松平信綱は幼名が長四郎で、武蔵川越六万石の城主、出て前将軍の幕政を助け、智彗伊豆と言われた人、今また家綱を、老中としてよく助けたのである。
保科正之は家光の弟で、保科正光の養子となり、会津二十三万石の城主である。寛文五年山崎闇斎を招いて仁義の道を奨励し、正之家訓十五則は有名である。また産業をすすめて民利を興し、賢明の聞こえが高かった人でもある。
家光が在職十九年で慶安四月正月、年四十八で薨去し、当時十一歳の家綱が将軍になるや、家光の喪を秘すべきか発表すべきかについて幕臣の間に議論があった程、それほど危ぶまれた幕府の運命を、幸いにこれを切り開いていくことができたのは、全く重臣の補佐が好ましいことを得たからである。
当時家綱が職につくという初め、慶安四年に浪士由井正雪は駿府に、丸橋忠彌は江戸にいて、互いに相結託し、党を結んで乱を起こそうとしたのを未然に発覚し、七月二十五日正雪は誅に伏し、八月十日丸橋忠彌も誅された。
次いで明暦三年正月十八・九両日、江戸市中大火あり。死亡十万八千人以上という惨禍であったが、救護の処置はよく行き届き、本所牛嶋新田に土地を頂戴し、大火で焼失したものの死骸を合葬させ、増上寺の方丈貴屋に命じて法事を行わせ、無縁寺を建てさせて死魂を弔わせた。これが国豊山回向院である。
また新たに市区を改正し、万治元年九月火消し四隊をおいた。なお寛文三年二月二十五日には、この頃流行になっていた殉死を厳禁した。
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94: 2024/09/19(木)06:38 AAS
p80(二)綱吉の弊政

さて信綱は寛永二年に卒し、同九年正之は辞職し、その他の重臣も次第に卒するとか隠居するに及び、しかも家綱が多病であるのに乗じて、大老酒井忠清ひとり威権をほしいままにし、下車将軍の名があった。これは江戸城の下馬札では馬から下りるが、その他では将軍以上の権勢をもっていたからである。なんでも忠清に面会しようとする者は、深夜から門前に立たねばならなかった。
人々は忠清がいるのを知って、将軍がいるのを知らない有り様であった。こうして清忠にへつらうものも多く、政治も乱れていたが、家綱在職三十年、延宝八年五月八日薨じるに及び、大老酒井忠清は北条氏の例にならい、幸仁親王(有栖川宮)を京都から迎えて江戸の主人としようと主張し、老中堀田正俊は綱吉を上野館林(タテバヤシ)から迎えて嗣としようと主張し、大いに討論したところ、大衆は正俊の意見に味方したので、ついに決定した。
ここにおいて綱吉は八月二十三日征夷大将軍に拝せられ、その年酒井忠清が大老をやめ、翌年堀田正俊を大老として綱吉を補佐させた。
綱吉は家光の第四子で、寛文元年上野国館林で城下を下され、二十五万石に封じられていた者、学問が優れているのをもって名高かった。
堀田正俊は春日局の養子であり、大老となって鋭意前代の弊政を改め、治績をあげることに努めたが、峻厳に過ぎて上下の恨みを買い、これを忠告する者もいたが、性格が剛直の正俊はあえて一身をかえりみなかった。果たして貞享元年八月若年寄稲葉正休によって殿中で殺された。
正俊在世中は綱吉の政治に見るべきものがあったが、正俊が退いて綱吉自ら政治を行うに及び、次第にこれに飽きて、御用人柳沢吉保を寵用して幕政が大いに乱れるに至った。吉保ははじめ保明といったが、綱吉の偏諱を賜って吉保と改め、小姓から身を起こして一代の内に甲府十五万石に封じられ、老中の上に班して、権勢をほしいままにした。
綱吉は能楽などに耽り、また厚く仏教を信じ、貞享四年には「生類憐れみ」の愚法をだした。通称犬公方といった。この悪令は家宣が将軍になるに及んでやんだが、その時なお犬のせいで獄中にいる者は数百人という。
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また元和元年護国寺を音羽に、元禄二年護持院を神田に、同年霊雲寺を湯島に建て、城中に四脚門などを建てたりした上に、当代元禄の風尚と相待って奢を極め、その費用は巨額にのぼり、幕府の財政も大逼迫をしてきた。綱吉はかつて日光山に参詣しようとしたのに、ついに用逹し難かったくらいである。
ここにおいて勘定奉行荻原重秀の建議を容れ、従来の慶長金を改鋳して元禄金の出現を見た。元禄金は慶長金と形状重量共に同じであるが質が悪くなっている。そのために金相場(銀貨に換算するときの相場)に狂いを生じ、物価は高くなって財界が不安となり、上下は大いに苦しむこととなった。
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p82(三)新井白石政治を改革す

寛永六年綱吉が薨じて嗣がいなかったから、兄甲府宰相綱重の子、家宣が入って将軍となった。家宣は綱吉の棺前において、生類憐れみの令を改めた。家宣は学を好み甲府にいる頃から新井白石を儒職としていたが、入って将軍になるに及び、白石を伴って登用し、正徳元年従五位下筑後守に任じ、将軍の顧問としてその建白を容れることとした。
家宣は在職僅かに三年十ヶ月、四歳になる鍋松を残して享年元年に薨じた。翌正徳三年鍋松将軍となり家継といったが、これも在職三年で享保元年に薨じた。
白石は博学で特に歴史にくわしく、また政治の才あり、家宣・家継二代に仕えて種々の改革をなした。
まず財政上では寛永七年四月十五日貨幣改鋳の触れ書を出し、四月二十七日には乾字金を江戸で発行した。従来は年号の一部を貨幣に刻したものであるが、今度は乾の字を刻したからこの名がある。学者揃いの幕府であったから易経からとってきたという。この金は質において慶長と同じであるが、形量を減じたから小型金ともいう。大判の方は元禄にも改鋳されていないから、今度もそのままであったが、小判や一分金が改鋳されたのである。
この新金を出してから経済の安定をはかろうとしたが、勘定奉行荻原重秀が密かに悪質銀貨を発行したりした上に、新金が小判であったために、元禄金が悪質ながら通用するというわけで、中々目的が達せられなかった。ここにおいて家継の正徳三年ついに慶長金銀と同質同大の正徳金(正徳小判)が発行されて、初めて白石の目的が達せられたのである。
またこの頃は海外貿易において正貨の流出が甚だしく、窮迫の状態に陥ったので、白石は正徳五年幕府に建議して、長崎における支那・オランダとの貿易の額を制限し、支那は毎年三十隻、オランダは毎年二十隻、支那は銀六千貫限り(内銅三百万斤を用いる)オランダは銀三千貫限り(内銅五十万斤を用いる)と定めて、金銀銅が海外流出するのを防いだ。
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白石はまた国内においては皇族が出家しなさる習わしがあるのをとどめようとして、寛永六年上奏文書を上り、朝廷はこれを受け容れて翌年中御門天皇の皇弟秀宮に一家を建てさせなさる。享保三年親王宣下があり直仁親王と申す。これがすなわち閑院宮家の始まりである。
ここにおいて親王家は伏見・京極・有栖川・閑院の四宮家を数えるようになった。白石は「これらの事ども、我、この国に生まれて、皇恩に報い差し上げた所の一件である」と言っていたが、後に後桃園天皇が崩じなさり、皇統が絶えたとき閑院宮家から光格天皇が入って大統を受けなさる。光格天皇から仁孝・孝明・明治・大正を経て今上天皇に至っている。白石もまた慮るところが空しくなかったことを喜ばねばなるまい。
その他朝鮮使節の待遇を改めて百万両の経費であったものを六十万両に節減し、不平であった朝鮮使節と大論争を始め、白石は我が国は三千年の古から礼楽そなわる国であることを説明してついに使節を屈服させ、我が国の権威を重くさせた。白石がとった自主的外交は今もなお真理とされている。

(五)吉宗は心を民政に用いる

紀元二三七六年中御門天皇の享保元年、将軍家継は幼くして薨じ、世嗣ぎがいないことにより、家康の曾孫吉宗が紀伊家から入って八代将軍となる。

※礼楽=礼節と音楽。社会秩序を定める礼と、人心を感化する楽。中国で、古くから儒家によって尊重された。転じて、文化。
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吉宗が江戸本丸に入って将軍となったのは年三十三の時であるから、白石の補佐を必要としない年齢でもあったが、しかし根本的に白石と吉宗とは、性質や主義が違っていた。
吉宗は白石を「文飾の者」と言って斥けた。なるほど白石は京都主義の礼文政治を取り入れて礼文国を建設するところに目的があった。いわゆる文治主義の人であった。
吉宗は闊達にして賢明、簡素を旨とし実用の上に立脚する幕府主義であったから、白石の政治が繁文辱礼なものに映ったらしい。
従って吉宗が立つと共に白石は退けられ、室鳩巣が用いられた。吉宗は実用の学を重んじ、鳩巣に命じて六諭衍義を日本語訳させて平易な教訓書とし、享保七年これを江戸市域八百以上の寺子屋に配って児童の教科書とさせた。
六諭とは清の康?X帝の勅語に、

※漢文
父母に孝順にせよ、年長を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々暮らしに満足せよ、悪事をしてはならない。

とあるのをいい、蠡城范なる者、これが衍義をつくり、物徂徠がこれを漢文に直したのを今、鳩巣が国文に直し、しかもそれを省略しているから六諭衍義大意というのである。
吉宗はまた江戸の町医者小川笙船という者が、施薬院を設けて貧民を救済するならばきっと仁政の一端となるだろうと建白したのを受け容れて、小石川後薬園のわきに養生所を開き、貧民に施療させ、衣食をも官給した。
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p86(五)勤倹尚武の道をすすむ

吉宗は何事も「権元様御定之通」を主義として勤倹をすすめ尚武をはげました。元禄以来の文弱の風を正そうとしたのである。吉宗は度々の発令でも微に入り細に穿って倹約をすすめた。料理のこと、衣服のこと、娯楽のこと、全て厳しく規定し、子供の遊ぶホウズキの売買を享保六年には止めたくらいである。当時の落書きに「お上はしまる、下はつまる、商売はとまる、町人はこまる」といったものがある。
従って吉宗自らも綿布を服し、草履履きで度々鷹狩りを催し、あるいは単騎奔馳縦横をもって武を修めることが相応しいのを示し、自ら砲術を学ぶなどしたので、群士は心を尽くし、力を励まし、馭槍・射銃・游水は急激に発展するに至った。

(六)裁判を公平に行わせる

吉宗は享保二年、大岡越前守を登用して江戸町奉行とし、享保六年には目安箱を評定所の前に置き、政事の得失、役人の不正、訴訟の延滞などを直訴させ、その後元文元年には大阪・駿府・甲府にも訴訟箱を置いた。
宝保二年四月には、寺社奉行牧野越中守・町奉行石河土佐守・勘定奉行水野対馬守などが、吉宗の主旨を奉じて公事(クジ)方御定書を制定した。その上巻には令八十一条、下巻には律百三条がある。世に御仕置百ヶ条とか、御定書百ヶ条と称すのは、この公事方御定書の下巻に名づけたものである。この百ヶ条(実は百三条)は従来の判決例を調査して成文律にしたもので、奉行の他は他見をゆるされず、公布を見なかったが、これによって司法制度は大いに改善され、戦国時代以来の残酷な刑罰も除かれ、裁判はあくまで公平に行われるようになり、これが明和四年の科条類典、寛政二年の寛政律などによって幕府刑法も次第に整備するようになったのである。

※勤倹尚武=よく働いて質素につとめ、武勇を尊び励むこと。▽「勤倹」は勤勉で倹約なこと。「尚」は尊ぶこと。武士たる者の生活態度として重んじられた考え方。
省1
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(1): 2024/09/20(金)07:32 AAS
p88(七)産業を興す

産業もまた将軍の奨励によって興った。当時珍重されていた朝鮮人参も輸入されていたし、砂糖なども支那から輸入されていた。吉宗はこの輸入を防ごうとするのに関して、人参の種を朝鮮から取り寄せて諸国に植えさせ、また諸方に薬園をつくらせて一般薬品の輸入をも防いだ。サトウキビの種は琉球から取り寄せ、支那人から製糖法を学ばせ、次第に砂糖の産額を増やし、寛政頃には氷砂糖も日本にできるようになっている。
凶年に備えようとするのに関してはサツマイモの栽培を奨励した。当時江戸の人青木昆陽は、もっぱら実用経済の学を修め、蕃藷考という書を著した。大岡忠相はこの書を読んで、昆陽を吉宗にすすめた。吉宗は昆陽を用い、サツマイモを薩摩から取り寄せて、小石川薬園(今の植物園)に作らせ、種芋を増やすのに昆陽の蕃藷考を使ってこれを諸国に配布した。やがて上総下総辺りにこれを作るものが多く、次第に全国に広まった。
またハゼノキ・竹の用途が広いのを見て、紀州からハゼノキの実を取り寄せ、吹上の庭に植え、後にこれを芝の御殿山・新堀などに植えて蝋を取った。竹笛はこれも紀州から取り寄せて逆井(サカキ)の渡の辺りに栽培した。
ことさらに米は経済の本になるのであったから水利を興し、新田を開くことをすすめ、上総東金の荒地、下総行徳の海岸、武州の多摩・高麗の両郡など、幕府の経営によって開発された地も甚だ多かった。このために米の産額は大いに増加した。元禄三年の調査では、二千五百七十八万石であったが、天保七年では三千四十三万石となっている。すなわち百四十年以上の間に四百六十万石以上の増加をしたわけである。人々は吉宗を称して米将軍といったのも理由があることであった。
諸藩もまた将軍の意を受けて、競って産業の奨励につとめ、各地の名産例えば上野・下野の織物、関東の生糸、紀州のみかん、薩摩の煙草、土佐の鰹節、これらは皆この頃に起源を有し、国豊にして民は太平を楽しんだ。

※蕃藷=サツマイモ
102: 2024/09/20(金)11:23 AAS
>>101訂正

国は豊かで民は太平を楽しんだ。
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