[過去ログ] 坐禅と見性第114章馬が田に入り、牛が田に入り、早乙女が田植えする [無断転載禁止]©2ch.net (1002レス)
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96: Ann 2017/01/08(日)02:24 ID:Igrq1HLI(5/28) AAS
それ故に禅の批評は局外者から到底出来るものではない。

これから私が禅とは何ぞやという題目を掲げて講話をしても

とても諸君がそれで満足するまでに説明するのは覚束ない。

もちろん私とても急所は言わない。

如来清浄の禅が、いわゆる禅家固有の禅であり、禅学といわれるのはこの禅を学ぶことである。
省6
97: Ann 2017/01/08(日)02:24 ID:Igrq1HLI(6/28) AAS
何故そんなことをするかというと、一切の表象はみな非常な迷誤をして百般の表象の中で

一つとして誤謬のないものはないから、そんな誤りのあるものはことごとく捨て去って、

また、一度も実験していない本来本賞の実性に復帰して完全な自己の本性に自分自ら冥合融化するのである。

これが心地を開明して本分に安ずるというのである。しかしながらこの状態が終昼始夜、

行住坐臥の上に活動して不退転でなければならない。
省6
98: Ann 2017/01/08(日)02:25 ID:Igrq1HLI(7/28) AAS
ここが道元禅師の坐禅は豈に坐臥に拘らんや、といわれているところである。

これは決して坐するに及ばないということではないから誤らないでほしい。

また、永嘉大師という方も、

語黙動静の異なる縁に逢うとも己が心緒動揺せず安然たる様に至ったひとにして始めて行も亦坐禅も亦禅とゆけるのである、

といわれているから、どうしても最初は孜々として坐蒲団上に端座せねば得られるものではないのである。
省6
99: Ann 2017/01/08(日)02:25 ID:Igrq1HLI(8/28) AAS
要するに坐禅は究竟事実を得るために、いまだ実験していない自己の本性を徹見し、

それに冥合融成するのである。

言い換えれば、真如に融成するのである。

そこで参禅の士は、それを達するためには坐禅実習法、

つまり禅の要術によらなければ他の方法では決して得られない。
省12
100: Ann 2017/01/08(日)02:26 ID:Igrq1HLI(9/28) AAS
つまり、これであって、田の草は稲の害になるもので、肥やしは稲の実る肥料である。

その肥やしと草とは畢竟別物ではない。ちょうど参禅の士は稲のようなもので、その迷いは草で、悟りは肥やしである。

今、迷いの草を捨てて、悟りの肥やしを得たのではない。迷いそのものが直ちに悟りそのものである。

だから、迷いの外に悟りはなく、悟りの外に迷いはない。迷悟不二であると。その心得のできたのが大悟という。

だから悟ったからといって、新問題に接したのでも何でもない。元のありのままに触れたに過ぎない。
省10
101: Ann 2017/01/08(日)02:27 ID:Igrq1HLI(10/28) AAS
「見性と云は、仏性なり。万法の実相なり。衆生の心性是れなり。此性は有情に渡り凡夫賢聖に普くして、却くして、却て住する所なし。

故に無法の性とは、有情にあっても、有情に住せず。非情にあっても、非情に住せず。善に在っても、善に住せず。悪に在っても、悪に住せず。

色に在っても、色に住せず。形に在っても、形に住せず。一切に住せざる故に、無住の性を云うなり。

亦此性は、色に非らず、有に非らず、無に非らず、住にあらず、明にあらず、無明に非らず、煩悩に非らず、菩提に非らず、全く実性なし。

是を覚るを見性と名くるなり。衆生は此性に迷ふが故に、六道に輪廻す諸仏は此性を悟るが故に六道の苦を受け玉はず。
省7
102: Ann 2017/01/08(日)02:27 ID:Igrq1HLI(11/28) AAS
参禅の士はますます大悟見性の趣きが明瞭になってきたことだろう。

大悟といっても見性といっても、共に現象即実在論の上にだいたいのもとを置いて、

迷悟の性不二なりと得心するのであって、畢竟その内容においては同様ではあるが、

大悟というと、ちょっと広漠である気がする。

見性と言えば、認識論的であって、いかにも実際に自己の心性である琴線に触れた様な心持ちがするだろう。
省10
103: Ann 2017/01/08(日)02:28 ID:Igrq1HLI(12/28) AAS
「問、見性成仏というが、本来無一物の何の性を見る事ぞや。

答、性は無形無体なり。此性を見る時は、仏と衆生の隔てなく、

無心無念の真仏に合う、此ところを指して見性と云うなり。」と。

また抜隊得勝禅師いわく、

「成仏の道とは、自心を悟る此れなり。自心と云ふは、父母もいまだ生れず、わが身もいまだなかりしさきよりして、
省16
104: Ann 2017/01/08(日)02:28 ID:Igrq1HLI(13/28) AAS
では悟入について述べてみよう。

悟入の状態とはつまり大悟の状態であるが、これは別に真新しいことではない。

これまで述べた大悟見性の理が実際に実現するのに他ならない。

真如に自分自身が化成するのである。

だから大悟は理論的に言えば、主観客観の内外を滅却して、宇宙の本性たる真如を直観するのである。
省16
105: Ann 2017/01/08(日)02:29 ID:Igrq1HLI(14/28) AAS
元より唯仏与仏乃能窮尽のものだ。

また師匠から伝授されるものでもなく、授けることもできない。

能伝所伝、能授所授をこえている。ただ我にある三昧我ただ知るのみである。

ならばこの妙奥に到達することが真の大悟ならば、もとから実感そのものの時期を予知することもできなければ、

その妙味をあれこれ言うこともできない。大悟は、自覚するときである。
省19
106: Ann 2017/01/08(日)02:29 ID:Igrq1HLI(15/28) AAS
「香巌知閑禅師一日草木を芟除す。因んで瓦礫を以つて竹を撃って声を作す廓然として省語す。」と。

これは香巌禅師が一日作務のとき、外を掃除でもしていたときだろう。

ゴミを藪に捨てたそのとき、ゴミの中の石や瓦が、カラリと竹に当たった。その一声に忽然として悟ったということである。

後世の人がこの聞声悟道の趣きを詠んでいる。

「降る雪に 宿る鳥の 埋れて 鳴く声ばかり 黒きぞとしる」と。参禅の士はよく味わってみるがいいだろう。
省9
107: Ann 2017/01/08(日)02:30 ID:Igrq1HLI(16/28) AAS
「『達磨大師因に般若多羅尊者問ふ、諸物の中に於て何に物か無相なる。

大師曰、不起無相なり。尊者曰く、諸物の中に於て何物か最大なる、』と。

是の如く問答して、師資心通すと云へども暫らく機の純熟をまつ。

後、尊者の室に入り七日坐禅す。尊者広く坐禅の妙理を指説す。

大師此に大悟す。」と。
省8
108: Ann 2017/01/08(日)02:31 ID:Igrq1HLI(17/28) AAS
また、「大医禅師、鑑智大師を礼して曰く、願くは和尚慈悲乞ふ

解脱の方門を与えよ。大師の曰く、誰れか汝を縛す。

禅師曰く、人の縛するなし。大師曰く、更に下陀tを求めるや、

禅師言下に於いて大悟す。」と。

解脱の法は他に求めるべきではなく、人々の上に豊かに
省11
109: Ann 2017/01/08(日)02:31 ID:Igrq1HLI(18/28) AAS
これは元来は理で説くべきでない、仏法の大意を問うたものだから

とりあえず黄檗は臨済をぶったたいたのである。これはつまりは

ちっとも透間のない石火雷光の答えであり、理致のかぎりでないことを

示したのだが、まだ臨済はそれに合点がいかないから、三度も繰り返して

問を投げた。黄檗は三十棒をあたえた。
省10
110: Ann 2017/01/08(日)02:31 ID:Igrq1HLI(19/28) AAS
もう一つ。「道元禅師支那へ留学のとき、天童如浄禅師のところにあり、

禅師一日例により坐禅す。傍に一僧あり。頻りに眠る。如浄之を誡めて云く。

参禅は須らく身心脱落なるべし。只管に打睡して什麼をか為すに堪へんと。

禅師傍より聞いて豁然として大悟す。直ちに方丈に上り、焼香す。

如浄曰く、焼香の事作麼生。禅師曰く、身心脱落し来る。
省12
111: Ann 2017/01/08(日)02:32 ID:Igrq1HLI(20/28) AAS
確かにもっともなことだが、前にも述べたが、

大悟見性は、悟ろうとしても悟れない。悟りを求めないようにしても悟らないことを得ない。

ただ境に対して忽焉豁如心底に徹するものなのだ。

まずは釈尊の所言をよく考えてみなければならない。

我と大地と有情と同時に成道す、と。釈尊が太陽を見て悟ったなら、
省11
112: Ann 2017/01/08(日)02:32 ID:Igrq1HLI(21/28) AAS
文字こそ両者とも同様であるが、これは混沌として無分別的一如的のもので、

主観客観をまったく糸を切ったように切断されているのである。

外界からいくら刺激がきても感じないのである。

然るに大悟の無念無想は能所根絶といって主観客観は根絶してはいるが、

糸の切断されたようではなくて、その根絶のありのままに安住するという意味だ。
省14
113: Ann 2017/01/08(日)02:33 ID:Igrq1HLI(22/28) AAS
道元禅師は、「曾に誇り悟に豊かにして瞥地の智通を得、道を得、

心を明めて衝天の志気を挙ぐるも入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾んど出身の活路を虧闕す」と、お叱りになった。

一類に属するものである。とにかく以上のような悟りに腰をすえた輩を向上の死漢と言って、

非活動的の大悟または病的な大悟というのである。参禅の士は、従容録第二十八則護国の護国三懡羅の話を味わってみるのがよいだろう。

「僧護国に問ふ、鶴枯松に立つとき如何。護国云、地下底一条の麼羅」と。
省8
114: Ann 2017/01/08(日)02:33 ID:Igrq1HLI(23/28) AAS
これについては萬松老人の垂示がおおいに参考になる。

「寸糸を掛けざる底正に是れ裸行外道。粒米を嚼まざる底の漢、断めて焦面の鬼王。

直饒ひ聖処に生を受くるも未だ竿頭の険堕を免れず。還つて羞を掩ふ処有りや」と。

向上に腰をすえるものは、寸糸も身につけず。凡夫迷情のとれた立派な境界だけれども、

そこをよい境界だと腰をおろすようでは裸行外道であり、仏法では許されないということだ。
省8
115: Ann 2017/01/08(日)02:34 ID:Igrq1HLI(24/28) AAS
これを身心脱落に対して、脱落身心ともいうのである。

現象即実在に対して、実在即現象というべきところである。

このとき逆順縦横興奪自在の活作用を得るのだ。

ものの龍蛇、緇素を弁明し、剣刃上に殺活を論じることもできるし、棒頭上に機宜をわかつこともできるのだ。

等閑の一句一言、群を警し衆を動かし、一機一境鎖を打して、枷を敲き、仏界であれ、魔界であれ、社会であれ、国家であれ、
省9
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