【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
上下前次1-新
7: 09/07(土)13:11 AAS
>>6参考
しかし図なし
増沢淑 著『新高等小学国史插画解説』,明治図書,昭和14. 国立国会図書館デジタルコレクション 外部リンク:dl.ndl.go.jp
8: 09/07(土)13:18 AAS
ここにおいてポルトガルスペインの宣教師が渡来して、熱心に布教したので、九州の各地はもちろん、機内では京都・大阪・伏見・堺、中国では山口・広島、南海では和歌山、東は関東から仙台・会津、北は金沢に及んで数多の信者を出すに至った。信長の頃には宣教師の数五十九、寺院数二〇〇、信徒十五万というのである。
中でも九州豊後の大友義鎭(ヨシシゲ・宗麟)、肥後の有馬晴信・肥前の大村純忠三侯のような者は、信仰のあまり遠く使いをヨーロッパに遣わすこととなった。
使いとなったのは日向の伊東の子で宗麟の遠い親戚に当たる伊藤義賢(ドン・マンショーー満所)晴信と従兄弟である千々岩清左衛門などであるが、いずれも十五六の少年であった。
一行十四人がポルトガル船イニャースリマ号に搭乗して、宣教師ソリニャーニと一緒に天正十年正月長崎を出発し、マカオ・マラッカ・ゴアを経て、アフリカの南端を回って、天正十二年八月ポルトガルのリスボンに着き、さらにスペインのマドリードに赴いて国王に謁見し、イタリアのローマに入って法王グレゴリー十三世に謁見して信書を呈し、滞在中法王が没したから次の法王セックスタス五世の即位式に臨み、その後イタリアの北方を巡って再びスペインに入り、天正十四年四月リスボンを出航、十八年六月地図・地球儀・時計などの珍奇な什器を携えて帰朝した。
この時よくこれらの少年が使節の対面を保ち、いたるところ歓迎を受けた。実にこの邦人がヨーロッパの地を踏んだ始めである。
9: 09/07(土)16:34 AAS
p21
(二)西洋の学芸伝わる
建築法ならびに室内装飾などにも欧風が入り込んだことは言うまでもなく、天文・地理・物理などの科学も輸入された。スペイン・ポルトガル・ラテン語も伝わって今に残るものも少なくない。これは上巻においても述べた。
現存している信者の手紙や印章や刀の鐔(つば)などにもローマを用いたのである。また、書籍の編纂や翻訳なども行われ、天草には印刷所を設け、活字で刊行するに至り、今に残るものも少なくない。文禄旧訳「伊曾保物語」など有名である。
なお宣教師らは教育を起こし、病院・保育院などを設けて慈善事業を行い、外科の術も伝わって我が国の文化を促進することが多かった。
※文禄旧訳天草本伊曽保物語(イソップ物語)
新村出 校註『天草本伊曽保物語 : 文禄旧訳』,改造社,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション 外部リンク:dl.ndl.go.jp
(三)邦人しきりに海外へ出る
秀吉は南蛮寺の梅庵が、秀吉の大工頭の母を信者として、それを頼りに事を秀吉に申し込もうとしたのを大いに怒ったこともあり、また島津征伐の際、天正四年に長崎領主大村純忠が、隣領の龍造寺隆信と戦って敗れ、軍費に窮した結果、キリスト教宣教師に百貫文を借り、長崎付近の年貢を担保とした。
その結果、長崎付近の土地がポルトガル宣教師の手に入るとか、九州各地において宣教師が、次第に暴慢で神社仏閣を破壊し、信徒が祖先の位牌を河に流し火で焼くなど、国風に合わないことがあるのを聞いた。
省2
10: 09/07(土)17:33 AAS
(四)秀吉の雄大な計画
秀吉はすでに国内を平らげるに及び、秀吉の豪放な天性は、時代の趨勢と相まって、海外発展を策するに至り、空前の雄大な計画を抱き、朝鮮や民と交を修めるのは言うまでもなく、次いでインド・フィリピン・台湾にも及ぼそうとした。
我が元中九年(二〇五二)後亀山天皇が、後小松天皇に神器をお授けになった年に高麗が滅んだ。高麗は元寇の際に元軍を助け、財力を失った上に、我が倭冦にも沿岸を荒らされて勢いが振るわない間に、李成桂は自立して国号を朝鮮と改めたのである。
その後朝鮮は、対馬の宗氏と交流することは久しい間に及んでいたから、秀吉は天正十八年五月宗義智をつかって、「明主、好を修めれば良しと認める。もしそうではないならば、道を朝鮮に借り、大挙、明に入るのに朝鮮をつかって道案内としよう」ことを朝鮮第十五代の王李昭に告げさせた。
王李昭は大いに笑い「秀吉は取るに足りない身で明国をうかがうのは、蠡(にな・巻貝)をもって巨海を測り、蜂が亀甲に入り込むかのようだ」と言ったという。
ここにおいて秀吉は怒り、まず朝鮮を定めて、そうしてから明に入ろうと決心し、秀吉は朝鮮・大明をして我が「いろは」を用いさせるだけだと、天正二十年三月(文禄元年)京都を出発し、四月備前の名護屋に赴き、諸軍を指図し、将士は順次渡海した。
四月十二日釜山に上陸してから、僅かに三ヶ月で、ほとんど朝鮮全国を従えてしまった。
明は大いに驚き、大軍をもって朝鮮を救わせたが、これも碧蹄館において大敗した。
これにおいて文禄二年三月京城において、明が和を請わさせた。とうとう休戦を約束して、四月二十一日我が軍は京城から退いた。
それなのに明は講和の条約を履行せず、かつ、秀吉が慶長元年九月、明使を大阪城で引見して、もたらすところの国書を見ると、「封爾為日本国王」の文章がある、秀吉はその不信と無礼とを責めて、慶長二年正月から再征の軍を出して戦っているうち、慶長三年五月、秀吉は伏見にいて病にかかり、八月十八日ついに薨去した。享年六十三。
省1
11: 09/07(土)17:35 AAS
秀吉はまた天正十九年七月二十五日付をもってオランダ領インドに書を送り、天正十九年秋十九日付をもってフィリピン群島に書を送り、文禄二歳星集癸巳十一月初五日付をもって、台湾に書を送って、各々交通をはかったが要領を得る二至らず、一世の雄大な計画はついに成らずして終わった。秀吉の辞世で曰く、
露と落ち 露と消えぬるわが身かな
なにわの事は 夢のまた夢
とある。波瀾重畳、往時を回顧して、感慨限りなかったようである。
※茲特封爾為日本国王賜之誥命(ここに特に爾を封じて日本国王に誥命賜う)…ここに特におまえを封じて日本国王に天子が命じる言葉を賜る
12: 09/07(土)20:57 AAS
p24
(五)桃山時代の芸術
秀吉の大業は不幸にも中途で終わったが、その豪壮な気象は一世を動かし、その風はおのずから当時の芸術の上にあらわれている。あるいはこの逆に、ルネッサンス的時代の趨勢が、秀吉を動かしたものかもしれない。
ともかくもこうした時代の事であるから、芸術の方面では粉飾燦爛(さんらん)・趣致壮麗・規模広大、いわば豪放華麗なものとなって、意匠斬新という事はできるが、少々通俗的傾向を持っていたとも言える。
絵画ー秀吉が大阪・伏見の二城、聚楽第など雄大な構えをつくり、諸将はまた暇を得て安慰を要求し、天下の書家が畢生の技量を発揮するようになり、書家としては狩野派に元信の孫永徳が出ている。
永徳は当代の代表的書家で、その筆は雄健をもって聞こえ、安土城にその霊筆をふるい、秀吉の聚楽・大阪城においては金壁に書いている。
従って求める者は多く、盛んに大書を作成したから、大書の妙に至っては古今独歩と言われる門下に妙手は少なくないが、山楽最もあらわれ、狩野の正伝を継承した。
山楽は近江蒲生郡の人、幼児秀吉の近待となり、ある普請場の巡視に随行した時、たずさえていた杖で、巧みに砂上に馬を書いたので、秀吉はこれを見て大いに感じ、命じて永徳に学ばせた。
のち彩色、書に長じ、聚楽第や伏見城の金殿を飾った。今日京都の寺院にはその遺作が多く残っている。長谷川等伯もこの時代の大家であり、狩野派から出て雪舟派つまり宗元書派に変じ、狩野派に対抗した。
彫刻ーこの時代には仏像彫刻に見るべきものはない。ただ方広寺の五丈八尺五寸の大仏をあげねばならぬが、これは寛文六年の震災で、今は見ることができない。
省2
13: 09/07(土)23:20 AAS
p25
建築ーー仏寺建築では方広寺・東寺があり、宮室建築は当代においてよく発達し、神社建築の方では権現造といって、北野神社で見るように書院造に進歩した手法と装飾を応用したものが出来、住宅建築としては書院造で例えば聚楽第それである。また城堡建築は大阪・伏見のような当代特有のものができている。
当時の遺構で有名なものは伏見城内にあった西本願寺書院鴻の間・西本願寺唐門・豊国神社唐門、聚楽第にあった西本願寺飛雲閣・大徳寺唐門があり、いずれも当代建築の模式的なものである。
この特色ある美術の時代を呼ぶと、後世伏見の地を桃山と呼ぶのにちなんで、この時代を桃山時代といっている。
秀吉の頃は伏見に伏見城があったのであるが、後この城をこわして、その後に桃樹を植えたから桃山と言うに至った。それは江戸時代中期後であろうと言われる。
学習参考
(1)挿絵解説
「豊後の洋学校」はローマ法王グレゴリオ十三世偉業聖蹟要略所載のものによったのである。豊後の府内(大分)に建てられたコレジオ(大学林)で、グレゴリオ十三世の寄付金で建てた。それは正親町天皇の天正十年である。三層の洋館でこの時代から西洋建築法も輸入されたことがわかる。
「京都西本願寺の書院」は写真によったもの。伏見城の大広間を徳川家光が移したので、間は上下二段に分かれ、上段の間は秀吉が着座するところ、下段の間は諸侯が集会するところ、上段の間の左方に上々段の玉座がついている。
またその上段の間の背後には、三間以上も大床がついていて、そこは狩野探幽の絵で飾られている。
省4
14: 09/08(日)00:16 AAS
(2)指導要領
「安土桃山時代の発展的な気分はどうして生じたものか。そしてどんなところへ表れているか。」このような事がこの教材の中心問題となるだろう。
発展の認識が中心となる教材だから、歴史性の豊富な教材である。
どうしてかというと歴史は「発展」の認識をおいて他にないからである。
海外発展は我が国現下の重要な問題であるから、考現的学習をするように注意せねばならない。
秀吉の対外方針によって、侵略心を養うのではなくて、愛国心を養うのである。愛国心はウブな罪なさにかえる時に正しいものである。愛国的なものは同時に国際的でなければならぬことを考察させたい。
本課は宗教のこと、学問のこと、経済のこと、芸術のことなど、多くの文化学習に触れるのであるが、よく吟味して理想はどこに置くべきかを常に考えさせなければならない。
できるだけ文化学習に適当な環境を整理することと、労作的に学習させることは特に必要である。
また前代の絵画と当代のそれと比較するとか、彫刻の比較をするとか、おおよそ比較法を多く採用するがよい。
特に前代の乱世と当代の文化的治世とを比較して、文化生活への憧憬、文化的奮闘心の養成をなすべきである。
15: 09/08(日)11:50 AAS
p28
第三十五 江戸幕府の創立
学習目的
家康・秀忠・家光の間において、幕府の組織が全部整うのに至る次第をしらしめ、政治的・経済的に中央集権的封建制度を現出し、太平の基を定め、美術その他文化が発達しようとする事情を学習させるのである。
学習事項
(一)家康江戸にうつる
省7
16: 09/08(日)13:57 AAS
江戸城はもと扇谷定正の重臣太田持資(道灌)が築いた所であるが、当時は北条氏の家臣遠山景政という一万石くらいの小名が、城代としていた所であるから、その城は小さく、居館の玄関は船板を張ってあって、城下には農家・漁家が点々と散在し、西北は武蔵野に連なり、東南は内海に臨んで蘆の茂った寂しい一漁村にすぎなかったが、家康はまず城郭を改築し、城下の海岸を埋め立てて町を開き、次第に繁栄におもむき、今日の東京都の起源をなしている。
(二)江戸幕府成立
秀吉は天正十三年関白に任じ、天下の財務を行うに当たり、前田玄以・長東正家・浅野長政・増田長盛・石田三成を五奉行と称して政務を分掌させたが、後さらに天正十九年には、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初小早川隆景)の大五老、生駒親正・中村一氏・梶尾吉晴の三老中などを置いて大事を会議させた。
慶長三年八月秀吉が伏見城で薨去した時、当時六歳であった秀頼には、前田利家に補佐役が命じられ、家康は遺命によって、伏見にいて政務を見たが、翌慶長四年閏三月に至って、利家は薨去したので、家康の勢いはこの時からひとり盛んとなった。
石田三成は豊公恩顧の士で、近江佐和山二十二万石を得、五奉行の首席として大小政務を処理していたが、豊臣氏のために家康を除こうとし、他の大老つまり毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝と結び、慶長五年(紀元二二六〇ーー世紀一六六〇)ついに関ケ原の決戦を惹起した。
草も木も東へなびく関ケ原
ーー木宮泰彦詠史狂句集ーー
省3
17: 09/08(日)13:59 AAS
この配置は家康の在世中にも、またその後にも、数度の遷代があったけれども、その大綱においては変じることなく、中世以来おいおい発達しきった封建制度は、これによって中央集権的に、秩序組織の完全なものとなった。
ここにおいて内府(内大臣)家康は、慶長八年(二二六三)二月右大臣征夷大将軍に任じられ、淳和奨学両院の別当、源氏の長者となり、幕府を江戸に開き、天下の政治をすべるに至った。
家康は将軍職を子秀忠に譲ったのは慶長十年であるから、将軍職にあることは足かけ三年であったけれども、退職後駿府にあってなお大事を決定し、薨去したのは元和二年(二二七六)であるから、秀忠の在職年限は足かけ十九年中、初めの十二年間は家康によって事件が解決していたものとして見てよい。従って慶長十九年の大阪夏の陣も、皆家康において責任を認めるのである。
また元和元年豊臣氏が滅亡すると共に、江戸幕府の基を固めようとするために、貞永式目などにならって、武家・公家などの諸法度を出したのも家康に功過を帰するのである。
18: 09/08(日)15:34 AAS
p32※原文は漢文
武家諸法度
一、文武弓馬の道 ひたすら相たしなむべき事。
一、群飲佚遊(酒に溺れ遊び呆ける)を制すべき事。
一、法度を背く輩は、国々に隠して置いてはならない事。
一、国々の大名、小名ならびに諸給人は、各々相抱える士卒に、反逆や殺人をなすという申し出が有るならば、速やかに追い出さなければならない事。
一、今後以後、国人の外は、他国の者と交わってはならない事。
一、諸国の居城は、修補をするといっても、必ず言上しなければならない。まして新しい装いの家屋を構え事業を営むことを堅く停止させる事。
一、隣国において家屋を構え事業を営むくわだてや徒党を結ぶ者、これらの者がいるならば、早く言上しなければならない事。
一、私事で婚姻を締んではならない事。
省8
19: 09/08(日)15:35 AAS
禁中ならびに公家中御法度
一、天子諸芸能の事、第一は学問である。
以下全部で十七条
この旨を相守られなければならない者である。
慶長二十乙卯年七月 日
省2
20: 09/09(月)07:37 AAS
p34
(三)幕府の組織整う
大徳院秀忠は家康第三の子、慶長十年七月二十八日将軍の宣旨を蒙る。以来十九年の在職中、はじめの十二年間は万事父家康意思によって幕制をとる。その後といっても同様で、亡き父の意に違うようなことをする人ではなかった。
秀忠は篤志、謙遜の徳が備わり、孝心に類いなく、万事において、みな大御所のお教えを受け、少しも自分の心にまかすことはなかったと徳川実紀はほめている。
また秀忠は恭倹慈和・天性示孝・寛厚謹厳であったと野史はいっている。これによって大方その人物は察せられるが、この人格をもって彼は遺憾なく守成の功を全うしたから、徳川幕府の基礎はいよいよ固まったと見ることができる。
家光は慶長九年七月十七日、西の丸において、秀忠に子の長子として生まれ、女丈夫の名のある乳母春日局の心をこめた育成によった上で、天性英明の人であった。
かつて天海が「神祖(家康)は万事に通達おありになってよく人情世態におわたりになられたので、何事を申し上げるにも安らかで滞るところがなかった。台徳院(秀忠)殿にも御資質温柔でありましたので、同じようにあったが、当代は極めて聡明英武でおありになったからであろうか、何となく申し上げにくい」と言い、人見友玄宜卿は「いかにもおそろく見上げ奉った」と言っているのを見ても、聡明英武にうたれるような人であったらしい。
彼は元和九年七月二十七日将軍となったが、これを補佐するのに名臣をうち揃え、中でも土井利勝・阿部忠秋・松平信綱の三人が最も名高いものである。
利勝はその政事を議するや、今までは必ず狭い部屋において密議を凝らすのを例としていたが、利勝は大広間の中央に席を設け、四方の襖を明け広げて議したという思慮深い人、忠秋は性鶉を愛していた。
麹町に鶉を飼う者があり、その声は甚だよい。忠秋は欲しいけれども、値が高くて買うことができなかった。ある人は、忠秋の意を推察して、この鶉を買って忠秋に贈った。他日忠秋は「我仮にも重任を帯びる身が、このような玩具をなすべきではない」と言って、家来を使ってことごとく鶉を放たせ、よって賄賂の道を絶ったという廉直の人、信綱は機智に富み、知恵伊豆と言われたひとである。
省1
21: 09/09(月)07:38 AAS
幕府の政局を用部屋といい、大老・老中・若年寄がこれに詰めた。大老は大事を総裁する者で、常置の職ではなく、江戸幕府を通じてわずかに十人に過ぎなかった。
老中は一般行政をつかさどり、五人または六人あり、若年寄は勝手方二人、公事方二人であった。
各何人かずついるのは、仕事を分担したのではなく合議制であり、中一人が月番として一月交代で事務を執ったのである。
権威が一人に帰することのない特質をもっている三奉行など幕府のおもだつ吏員が会合して事を議する所を評定所といい、日付所には、大目付として老中の耳目となり、目付といって若年寄の耳目となり、共に所管の非違を監察する者がいた。
地方の職には京都に所司代があった。これは鎌倉の京都守護、北条氏の六波羅探題に当たるもので、代官のようだが実は正員である。
室町時代に代官というが流行した名残があるのであろう。京都・二条・大阪・駿府には城代、京都・大阪・駿府・奈良・伏見などには町奉行、長崎・佐渡・新潟・堺・山田・日光・浦賀のような枢要直轄地にも奉行、その他公領(幕府の直轄地で天領といった)には郡代・代官を置いてそれぞれ事務をとらせた。
これらの制度は徳川氏が三河の一小名であった頃の官制を、次第に大成してきたものであるから、すこぶる実用に適したものであったといえる。
22(1): 09/09(月)14:25 AAS
p36
(四)諸大名に対する政策
大名の統御についてはさきにも述べたが、家康以来特に意をそそいだもので、親藩忠義直が封じられた尾張、?ョ宣の封じられた紀伊、?ョ房が封じられた水戸藩が最も重んじられ、これを御三家といい、将軍の羽翼とさせ、幕府の要職には譜代大名のみを用いて外様大名を用いず、やがて参勤交代の制度を定めて最も有効に統御のことに成功している。
江戸幕府では中央集権政策の一つとして、はじめ諸侯の子を人質とする法をとったが、これは戦国の余弊であるからといってやめ、時々証人としてその妻子を出させたり、または江戸においたりした。
慶長十一年一柳直盛は、その子七歳である直家を江戸に住まわせ、藤堂高虎はその前年に妻子を江戸に移してから、諸大名の子弟の人質となって江戸に至り麾下に列する者も多かった。
しかし参勤交代などはいまだ定まらず、二、三年、もしくは五、六年に一度くらい参勤した程であったが、家光が寛永十二年の武家法度でこれを規定してからは、すこぶる厳重なものになってきた。武家法度は最初十三条からできていたものであるが、家光に至って二十一条となっている。その第二条に規定したことは次のようであった。
大名小名の在江戸交替を相定める所である。
毎年四月中に参勤致さなければならない。
従者人数は近年甚だ多い。かつ国郡の費用、かつ人民の労である。
今後はその相応により少なくこれを減らさなければならない。
省3
23: 09/09(月)14:31 AAS
>>22
※武家法度の原文は漢文
外様大名を財政的に疲弊させるために豪華な参勤交代をしていたと習ったのに金かけるの禁止されとる…
24: 09/09(月)16:52 AAS
p37
ただし要地の大名は、その地の警備のために代わる代わる参勤していた。例えば筑前の黒田氏と肥前の鍋島氏とが、長崎警備のために、そこへ参勤したような類いである。これを居替交代といった。
例えば対馬の宗氏は朝鮮警備の必要上、三年に一回江戸に参勤することとし、在府は僅かに四ヶ月とした。水戸の徳川氏は江戸にのみ在住しこれを定府(じょうふ)といった。
また諸大名が妻子を江戸に置くことは、これまでは一定していなかったのを、寛永十一年八月に譜代大名をして妻子を江戸に置かせることとしたので、外様大名も皆置くようになったのである。
家光以後多少の変化はあったが、しかしその参勤の制度は江戸幕府の終いまで続いた。
幕府はこれによって威権を示し、かねて諸大名に異図を企てる余裕をなくさせ、往復の費用に疲れさせるためでもあったろう。
ただその結果としては全国の交通は開け、文化の伝播を助け、江戸の繁栄を来している。ちなみに参勤というのは江戸に来る方で、交代と言うのは国に帰る方である。
大名は一年置きに角をもぎ
ーー木宮泰彦詠史狂歌集ーー
幕府の対諸侯制度の中、参勤交代の制度ほど成功したものはなかろう。こうして中央集権的封建制度による二百六十五年間の太平を建設したのであった。封建制度ということは、諸侯に封土を与え、その子孫によって封土を世襲させ、その封内の政治をおのおの随意に取り扱わせるというやり方で郡県制度に相対するもの、江戸時代の封建は中央集権的封建で、これに対するものは地方分権的封建である。
省3
25: 09/09(月)16:53 AAS
p37
ただし要地の大名は、その地の警備のために代わる代わる参勤していた。例えば筑前の黒田氏と肥前の鍋島氏とが、長崎警備のために、そこへ参勤したような類いである。これを居替交代といった。
例えば対馬の宗氏は朝鮮警備の必要上、三年に一回江戸に参勤することとし、在府は僅かに四ヶ月とした。水戸の徳川氏は江戸にのみ在住しこれを定府(じょうふ)といった。
また諸大名が妻子を江戸に置くことは、これまでは一定していなかったのを、寛永十一年八月に譜代大名をして妻子を江戸に置かせることとしたので、外様大名も皆置くようになったのである。
家光以後多少の変化はあったが、しかしその参勤の制度は江戸幕府の終いまで続いた。
幕府はこれによって威権を示し、かねて諸大名に異図を企てる余裕をなくさせ、往復の費用に疲れさせるためでもあったろう。
ただその結果としては全国の交通は開け、文化の伝播を助け、江戸の繁栄を来している。ちなみに参勤というのは江戸に来る方で、交代と言うのは国に帰る方である。
大名は一年置きに角をもぎ
ーー木宮泰彦詠史狂歌集ーー
幕府の対諸侯制度の中、参勤交代の制度ほど成功したものはなかろう。こうして中央集権的封建制度による二百六十五年間の太平を建設したのであった。封建制度ということは、諸侯に封土を与え、その子孫によって封土を世襲させ、その封内の政治をおのおの随意に取り扱わせるというやり方で郡県制度に相対するもの、江戸時代の封建は中央集権的封建で、これに対するものは地方分権的封建である。
省3
26(1): 09/09(月)16:55 AAS
こうして慶長六年には、弊制を定めて金は大判・小判・一分判の三種、銀は丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)の二種として鋳造した。
この時の金貨は名目貨幣で、大判は十両、小判は一両、一分判は四文の一両であり、銀は量目貨幣であるから、目方を量って通用させた。従って金と銀との関係は時によって違うが、明治初年の頃は銀六十匁ないし百匁をもって金一両に当てていた。
家光は従来の銭が不統一であったので、寛永十三年以来、江戸はじめ諸方で、銅銭寛永通貨を鋳してその統一をみた。
なんでも家康が慶長十一年駿府に移った時、秀忠に与えた金は、黄金三万枚、銀一万三千貫という。これを金一枚十両、銀五十匁を一両とすれば五十六万両となる。その内家康が駿府で薨去する時に遺した金いわゆる駿府の遺金と称するものは、おおよそ二百万両とみることができる。
そして秀忠は守成の人であるから、この財力を減じてはいない。
家光に至って寛永二年、僧天海に命じて寛永寺を造営させ、寛永十一年には同天海によって日光廟を造らせた。この日光の建築については従来寛永元年起工、十三年上棟式をあげたものと言われていたが、工学博士大熊喜邦氏は寛永十一年の暮れか秋の末頃起工して十三年四月完成、その間十五ヶ月で仕上がった。従って一夜一千人も夜業をしたと言われる。(昭和三年八月八日 大阪毎日新聞)
平泉澄博士が寛永十一年冬に始まり、同十三年春に落成し、その間一年半、費用総計五十六万八千両、銀百貫目、米千石と言われたのと合致する。
ともかくこの時は諸侯の寄付は少しも受けていないという。それで当代美術の代表的建築(これは挿絵解説にゆずる)ができている。
一代十一度の日光社参や寛永二度の上洛、その他家光の闊達な気象によって、大名・旗本に与えた金も莫大なものである。
家康薨去と共に、江戸幕府も多少財政不如意の気味が現れたとはいえ、これ位のことができたのは、いかに財力が豊富であったかを物語るもの、家光の歴史は財力が致せる歴史だとみるのは、一面において真理かもしれない。
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