【日本史】GHQに焚書された書籍 (534レス)
上下前次1-新
443: ブログ転載 11/11(月)17:03 AAS
p279
旧韓国皇帝の告諭
朕は否徳にして艱大な事業を引き継ぎ、即位以後今日に至るまで、維新の令政に関し、丞図し備試し〔※たすけを意図し備えを試し?〕、力はいまだかつて至らなかったことがないといっても、もともと長患いがあり疲弊は極所に至る。期日間に挽回の施し措きは望みなし。昼夜憂慮し、善後策は漠然としている。ここに任務し、身体障がいはますます甚だしいので、自ら終局収拾することができないでとどまるだろう。むしろ大任を人に托し、完全な方法と革新的な功績をもたらせるのに越したことはない。
ゆえに朕はここにおいて驚いて見、内省し、心が晴れ渡り、自ら決断し、ここに韓国の統治権を従来から親信依仰〔※親しみ信じ頼りにし尊敬する?〕している隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外政は東洋の平和を強固にし、内政は八城の民生を保全しようとする。
思うになんじら大小国民は、国勢と時宜とを深察しごたごたと乱れることなく、各々その仕事に安んじ、日本帝国の文明新政に服従し、幸福を共愛せよ。朕の今日のこの行いは、なんじら有衆を忘れるのではない。ただなんじら有衆を救治しようとするという真心に出る。なんじ臣民らは朕のこの意をよく心にとどめて守れ。
韓国併合の意味は、この詔書と告諭によってすっかり明らかになったのである。
444: ブログ転載 11/11(月)17:03 AAS
(三)朝鮮の施政
天皇の考えは深慮だ、併合の始めに当たって、詔を下し、前韓国皇帝を昌徳宮李王、前々韓皇帝を徳寿宮李太王、皇太子を王世子、李及び李熹を公とし、いずれも待つのに皇族の礼をもってし、殿下の敬称を用いさせなさり、さらに皇室令をもって朝鮮貴族令を発布させ、朝鮮貴族には五爵を定め、我が国の華族の礼遇を賜った。また大赦を行い、減租を断行して有終の成果を全うされた。
この時から韓国を改めて朝鮮と称し、これを十三道に分け、新たに朝鮮総督府を置いて、一切の政務を治めさせたのであるが、その初代の総督は寺内正毅で、国材一千七百万円を支出して十三道に分け、各方面の資金に充てさせ、内政を改めて産業をすすめ、半島の開発は年と共に進んだ。合併の後、これに力を尽くした総理大臣李完用を暗殺させようとして傷つけた者がいたりしたけれども、大体においては次第に朝鮮民の理解を得て、内容的にも合併の成果を挙げることとなり、我が国は一千三百万の新しく戸籍に登録された同胞を得て、面積において一万四千方里の増加を見たのである。
445: ブログ転載 11/11(月)19:50 AAS
p280
(四)欧米諸国との親交が加わる
韓国併合によって東洋の平和は永遠に強固となったが、その前後に当たり、欧米諸国との交際も大いに進んで、三十八年十一月英国と互いに公使をのぼらせて大使としたのを始めとして、三十九年一月には米国・ドイツ・フランスと大使を交換し、四十年二月にはオーストリア=ハンガリー帝国及びイタリアと、四十一年五月にはロシア国といずれも大使を交換するに至った。
また東洋に属領を有して我が国と利害の関係が深い国々とは、さらに交渉を重ねることとし、駐英大使林薫に命じて英国政府と交渉させ、以前に結んだ日英同盟を改訂して、東亜及びインドに範囲を拡張し、今度は攻守同盟としたのである。時は明治三十八年八月十二日であった。
次いで明治四十年六月十日には、駐仏大使栗野慎一郎とフランス国外務大臣エスピションとの会商によって、日仏協約及び宣言を協定調印した。その目的は清国の領土を保全し、東洋の平和を維持することにあった。
明治四十年七月にはロシア国と協約を結んで、ポーツマス条約によって生じる一切の権利は互いに尊重し、清国の独立及び領土保全を約束し、清国における機会均等主義を承認し、各その執りうるべき平和手段によって現状の維持存続に務めることを約束した。これによって相互の誤解を除き親交を加えることができた。
日露戦争の後米国では我が国を誤解する者がいる。ある者はフィリピンを奪うのではないかと危ぶみ、ある者は我が国の労働者が全米の労働者にとって代わりはしないかなどと考えたので、明治三十九年十月には日本学童排斥問題を起こし、さらに我が国の労働者をも排斥したので、我が国は度々抗議を申し込み、米国政府もこれの解決につとめたが、容易に事は落ち着かなかった。しかし高平駐米大使と国務卿ルートとの間に交渉を重ねた結果、明治四十一年十一月には、日米覚書の交換が行われた。これは太平洋方面の現状維持と、各自の所領を尊重すること、清国の領土保全機会均等などを約束したものである。
それなのに四十三年一月には米国は突如として満洲における日露両国の鉄道を列国共営となすべきこと、いわゆる満洲中立問題を提議したが、日露両国協議の上、これを拒絶し、同年七月さらに日露新協約を結んだから、ロシア国との親交は戦前にも増すようになった。
446: 11/11(月)19:56 AAS
アメリカと険悪になっていったのはお雇い外国人が退職していったことが関係あるのか…?
明治のお雇い外国人
外部リンク:kotobank.jp
デニソン Henry Willard Denison (1846―1914)
アメリカの外交官。1880年(明治13)外務省の万国公法副顧問となり外交政策全般を指導。おもに日清(にっしん)・日露戦争、朝鮮併合、日英通商条約改定などに関与。東京で死去。
スティーブンズ Durham White Stevens (1851/1852―1908)
アメリカの外交官。1883年(明治16)より在米日本公使館に勤務。1884〜1885年外務卿(きょう)秘書官となり対アメリカ政策に従事。1904年日本政府の要請で朝鮮の外交顧問に就任、対朝鮮政策を担当。朝鮮人の反感を買い、サンフランシスコで射殺された。
447: 11/11(月)20:04 AAS
デニソンは大正3年に死ぬまで顧問だったから、日米関係の悪化には関係ないのかな
>>261
明治初期の1円が現代の2万円の価値なら、お雇い外国人は月給500〜600円、多い人で1000円以上。
岩倉具視月給600円三条実美月給800円
448: 11/11(月)21:26 AAS
朝鮮人はアメリカ人も暗殺してたんだ
日本人はペリーを恩人とまで言って欧米崇拝していてるからアメリカ人はなめてるんだろうけど、朝鮮人は暗殺してくるからビビって日本を支配する手下にして優遇してるんだろうか
449: ブログ転載 11/11(月)22:10 AAS
p282
学習参考
(1)挿絵解説
「皇太子韓国皇室を訪問しなさる」の挿絵は、朝鮮京城景福宮内宴会場慶会樓の入り口における記念撮影の御写真によったものである。皇太子嘉仁親王、すなわち後の大正天皇は、明治四十年十月十六日に仁川へ着御、京城滞在四日にして二十日にはまた仁川を御出発、二十三日佐世保に環啓遊ばされた。挿絵はこの御訪問記念として撮影されたもので、前列左から皇太子殿下・韓国皇太子・有栖川宮威仁親王・伊藤博文、第二列左から李秉武・李完用・東郷大将・桂大将・宗秉駿・趙重応、なお李完用の後ろに顔だけ見えるのは花房義質、我が国の皇太子殿下の後の軍人は駐屯軍司令官長谷川好道である。
(2)指導要領
朝鮮半島の変遷について一通りここでまとめておくことはよいことである。ここでは特に「併合されねばならない道理」を見つけさせておきたいものである。誰が聞いても首肯のできる「ねばならない」という点を発見させておくべきである。
この併合の意味については、どこまでも当時の詔勅及び旧韓国皇帝の告諭を原拠として考えねばならない。
当時我が国の生命線は朝鮮にあったことをわからせ、この生命線を確守しながら、外世界と親交をはかった。その態度を、移してもって現在及び将来に及ぼさねばならない。
現在の生命線は満洲であるという。我らはこの生命線を守りつつ、国際的発展を企図している。これらと比較照応させて取り扱うがよい。
韓国は既に併合された。我々は朝鮮民族を複合して、また大いなる複合的大和民族をつくっていかなければならない。
省1
450: 11/11(月)22:19 AAS
現代の生命線は台湾のシーレーンか
負けたら結局シーレーン使えないけれどあの広い中国大陸で勝算あるんか
朝鮮併合の理由も明治天皇の言葉は、世論がこうなので併合進めたと聞こえる
政府お得意の国民の自己責任論は昔から健在
451: ブログ転載 11/12(火)15:46 AAS
p283
第五十五 国運の進歩
学習目的
主として第四十九「文化の発達」以後、すなわち明治二十七八年頃以後における、明治時代の国防・経済・通信交通の機関・学芸・美術工芸・博愛慈善などの進展について学習し、当代がよく驚異的に文化の発展をしたことを認感させるのである。
学習事項
(一)国防整う
省4
452: ブログ転載 11/12(火)17:08 AAS
p285
こうして明治十五年一月四日明治天皇から陸海軍人に勅諭を賜る。その勅諭においては「朕はなんじら軍人の大元帥であるぞ、だから朕はなんじらを股肱と頼み、なんじらは朕を頭首と仰いでその親しみは特に深いに違いない」とおっしゃられ、
一、軍人は忠節を尽くすことを旨としべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尊ぶべし
一、軍人は信義を重んじるべし
一、軍人は質素を旨とすべし
と諭され、「右の五ヶ条は軍人であるだろう者はしばらくもおろそかにしてはならない。さてこれを行うとしたらそれには一つの誠心こそ大切である」とねんごろに教えなさる。なおこの勅諭中に「この五ヶ条は天地の公道、人倫の常経である」ともあるから、軍人がこの勅諭を遵守するのはいうまでもなく、一般人民も共に忘れず守るべきことは、あたかも教育勅語のようなものである。
この時から次第に軍備は充実されたが明治二十一年になると、親兵・鎮台を廃止して、近衛・東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の七師団を置いた。
兵式は明治の始めフランス国式に則ったといっても、これは活眼をもって比較研究して採用したものではなく、旧幕府に近づいたフランス国の式が、ここに延長されたもの、加えるとナポレオン三世が欧州に時めいた時であるから、それ以後もこの式によったのであろう。そのうちに陸軍卿大山巌が川上操六・桂太郎・野津道貫・三浦梧樓など十四名を率いて欧米を視察し、十八年に帰朝し、この時からドイツ式に代わり、これによって訓練した兵が日清戦役で働いたわけである。戦役当時は兵員二十二万、野砲は約三百門もあった。
省3
453: ブログ転載 11/12(火)18:01 AAS
p286
それなのに世界大戦後には世界をあげて軍備縮小の声がやかましく、我が国もこの大勢に鑑みて、大正十四年以降陸軍四個師団(高田の十三・豊橋の十五・岡山の十七・小倉の十二を久留米に移して十八師団)を廃止して、現に十七個師団、常備兵員約二十万人がいて、国防の責務に任じている。
海軍の方は明治の始め政府所属の艦船はわずかに七隻、三千五百トンであったが、明治五年海軍省が置かれた時には十七隻、一万三千八百トン以上となり、十九年には全国を五海軍区(横須賀・呉・佐世保・舞鶴・室蘭)とし、各海軍区に鎮守府を置くこととしたが、その後室蘭はついに鎮守府を置かず、そのうち日清戦役当時には二十隻、五万七千トン、日露戦時百五十七隻、二十八万四千トンとなり、大正七年には八十六艦隊(戦艦八隻・巡洋戦艦六隻を基本とする)を計画し、さらに九年には八十八艦隊に引き直す計画になっていたが、大正十一年軍縮の結果、六十四計画に止めることとした。現在は三十一万五千トン、横須賀・呉・佐世保の三軍港があり、舞鶴は軍港を廃止されて大湊・鎮海・馬公と共に海軍要港となった。
国防の成果はこのように備わり、我が国はよく世界の列強と肩を並べるに至ったが、もともとこの国防の事は、経済力と関連し、精神力と結ばれ、国際関係とふれて現在においても複雑な問題となっている。善処する工夫が必要である。
454: ブログ転載 11/12(火)19:53 AAS
p287
(二)経済界の進歩
(1)貿易の進歩
このような間に経済の方面も、すこぶる面目を改めてきた。中でも貿易の方は明治三十三年及び四十四年の改正条約実施によっ
て関税は改訂され、ますます便利を得たので大いに発展した。
日本貿易の趨勢(単位百万円)
年次 総額 輸出 輸入 出超 入超 人口一人当(単位円)輸出 輸入
省2
455: ブログ転載 11/13(水)15:35 AAS
p288
この表によって明治十年の貿易総額と昭和三年のそれを比較すると八十倍となっている。ちなみにこの表に現れている入超のことは今後における問題となる。
貿易品についてみれば、原料輸出・製品輸入をしていたものが、大正三年以降原料輸入・製品輸出の時代となってきた。これはたしかによい傾向といわねばならない。
貿易と共に海運の事業も大いに発達した。十八年九月日本郵船会社(資本金一千一百万円)十七年五月大阪商船会社(資本金百二十一万円)、二十年浅野迴漕部(資本金二十万円)ができたことは前に述べた。これが日清戦役後進んで海外航路を開拓し、政府はこの機会に海運業の発展を助長しようとして、明治二十九年三月航海奨励法及び造船奨励法を制定した。浅野迴漕部は東洋汽船会社として活躍し、日本三大汽船会社といわれるようになった。
我が国の海運は戦争がある毎に画期的発展をとげ、欧州大戦があって世界第三位の海運国にまで漕ぎ着けた。欧州大戦後は各国競って自国の貿易挽回と海運保護政策に出たので、我が国の海運界も不振であるが、それでも量的には第三位の威容を示している。なんでも次の表によってその状況をほぼ知ることができる。
年次 汽船(船数 t数) 帆船(船数 t数)
明治三 35隻 15498t 11隻 2454t
昭和元 7779 3662447 42161 1266601
456: ブログ転載 11/13(水)23:00 AAS
p289
(2)産業の進歩
農業の方面でも明治四年海外留学生を米国に派遣し、米人技師を雇用し、駒場農事試験場を開設し、明治十年駒場農学校を起こし、この前後から各地に農学校が漸次設置され、明治十四年勧農局が拡張されて農商務省となるや、従来の保護政策を廃止して民間の自由発達に委ねた。明治三十二年には耕地整理法がしかれ、産額の増加、品質の改良は著しくなった。例えばアメリカでは明治十年頃には二千五百万石であったものが、大正元年には五千万石、昭和五年頃は内地及び殖民地合わせて八千四百万石というに至った。
工業の方面は全く幼稚であった。明治新政府は四年官営主義のもとに模範工場を設立し、工部大学を設け、その他あらゆる方法によって保護奨励を行った。しかしこの政府の積極的保護の産業政策は明治十三年の工業払い下げ規則の発布、同十四年の農商務省の設置を画期として、消極的保護政策に転向し、もってその発達を望んだ。我が国工業発展の跡を回顧するため、参考として左表を掲げる。
↓表
外部リンク:dl.ndl.go.jp
457: ブログ転載 11/14(木)10:45 AAS
p291
右表中生産力指数というのは、明治二十七年を一〇〇.〇として算出したものである。
ここには生糸・綿糸・織物・造船について記したが、その他製鉄業にしても、化学工業にしても、皆著しく発展を遂げ、電気を利用することは日露戦後急激に拡大し、個人企業を去って会社企業が普及し、漸次大資本による経営に移って今日に至った。
またこれら産業に関する行政事務を司っている農商務省は、大正十四年五月には農林・商工の二省となり、時勢の要求に応じることとした。時代は今経済の時代に動いているのである。精神的な人間の一面を忘れることがないことをひたすら望むのである。
458: ブログ転載 11/14(木)13:12 AAS
p291
(3)貨幣の制度
明治十七年七月一日から施行した兌換券条例の第一条には「銀貨をもって兌換するものとす」と定めてある。すなわち銀貨本位性であった。
政府は日清戦後の経営に当たり、低利大資本金を外国に求めようとしたが、外国は多く金貨資本制であったから、多いに不便を感じた。そこで明治三十年十月、清国から受け取った償金があるのを幸いに金貨本位に戻ったのである。
銀は価値が常に高下して一様ではなく、本位貨幣としては適当なものではなかったから、これで世界の体勢に順応したわけである。
明治三十年三月二十九日交付の貨幣法には貨幣の種類を次のように定めてある。これがすなわち現行の貨幣法である。
金貨 二十円、十円、五円
銀貨 五十銭、二十銭、十銭
白銅貨 五銭
青銅貨 一銭、五厘
省2
459: ブログ転載 11/14(木)13:14 AAS
(三)通信交通の機関が備わる
維新以来、通信交通が進歩したことは既に述べた。その後の発展はまた著しく、鉄道においては私設のものも各地に敷かれたが、明治三十九年に至り、その重なる鉄道を国有とするという制度をとり、後大正九年五月には特に鉄道省を新設して、これが管理に当たることとなった。今や延長一万マイルを突破し、昭和四年度における国有鉄道の機関車数は実に四千二百輌を越え、その収入は二億八千万円を数えている。
電車がはじめて我が国で経営されたのは、明治二十八年の京都市街電車、それから三十年名古屋市、三十二年横浜市と順次大都市から起こり、明治四十四年には三百六十九マイルとなったが、昭和元年には一千六十マイルに達し、その乗客数は十七億百六十万人を数える。
この他に地方鉄道に電化鉄道があり、昭和元年七百十一マイルに及んだ。
自動車は明治三十年頃、横浜在留の一外国人が米国からオリエント号という蒸気自動車を購入したのがはじめだというが、明治四十年になってもわずかに十一台に過ぎなかった。それが大正元年に五百二十台、三年に一千台、昭和元年には四万七十台、昭和七年七万台というように発達している。
また乗り合い自動車の営業マイル数は四万マイルを越え、ガソリン臭がすべての交通機関を圧倒しようとしている。
交通の発達と共に郵便も発達をなし、昭和二年内国通常郵便引き受け数は四十八億六千万通、人口一人あたり七十九通、一戸一日につき一通よりも少し多い程になっている。
電信は次第に多く用いられるようになったことは言うまでもないが、無線電信(明治三十六年実用の確信を得た)によって万里の外とたちまち音信を取り交わし、また無線電話は明治四十年頃から研究したが、大正五年から実用に提供し、今日の盛況を見て、飛行機も、ようやく実用に提供されるに至った。
実に科学の進歩ははかりしれないと共に、社会がこの時から受ける便益は限りないであろう。
460: ブログ転載 11/14(木)16:01 AAS
p294
(四)学芸大いに興る
明治二十年頃までは、ただ欧米文化の輸入に没頭した。しかしこの間常に、国体の大義を培えとか、我に還れとかいう日本主義を説く者もいた。加えると明治二十二年憲法発布があり、二十三年教育勅語の御下賜があり、こうして二十年頃から二十七八年頃までは、むしろ国粋保存の色彩が強かったが、二十七八年戦役から三十七八年頃まではようやく自覚期に入り、洋学も国粋保存も、各その所を得て、文化は大いに興り、外国人が研究視察に来る者もまた少なくなかった。三十七八年日露戦後においては次第に自由に発展し、西洋文明の弊害も現れてきた時である。
こうした時代を背景として、学術も文芸も盛んになったわけであるが、学者の研究で欧米をしのぐものをあげてみるならば、二十七年コレラ血清療法を発表した北里柴三郎、大正十三年発疹チブス菌を発見した草間滋、その他青山胤通の医学、明治三十五年いわゆるZ項を発見した木村栄、その他平山信の天文学、明治三十六年原子構造論を発表し、大正十三年水銀から金を得た長岡半次郎、その他物理学の田中館愛橘、工業科学の高峯譲吉、地震学の大森房吉、東洋哲学の井上哲次郎、仏教哲学の井上円了、東洋史の那珂通世、国史の重野安釋など、碩学を多く排出して、もはや今日においては世界の学会に頭角を表し、受けることの多かった時代から、一転して与えることが多い文化国となりつつある。
文芸の方面では明治三十年頃の正岡子規をあげなければならない。子規は伊予松山の人、芭蕉の禅味ある雄大に加えるのに蕪村の豊艶の趣味をもって、独自の境地を開いて、俳句を改造した。
鶯の 湯殿覗くや 春の雨 子規
〔鶯が風呂を覗いているなあ春の雨の中で〕
雲の峯 水なき川を 渡りけり 同
〔山の峯のように高くそびえ立つ入道雲は暑くて水のない川を渡ったことよ〕
赤蜻蛉 筑波に雲も なかりけり 同
省5
461: ブログ転載 11/14(木)16:20 AAS
p295
小説の方では明治十八年坪内逍遙の「小説神髄」によって写実を主とする小説が現れた。逍遙の「当世書生気質」はいうまでもなく、二十年に出した長谷川二葉亭の「浮雲」もそれである。二葉亭は言文一致の先祖といってもよい。
この新気運に乗って頭角を表した者に、尾崎紅葉・幸田露伴がいる。紅葉は東京の人、文章は西鶴に基づき、描写の態度は写実の脈を追ったものが多かった。二十六年の「伽羅枕」及び「心の闇」は代表作である。晩年には「金色夜叉」をも出した。露伴も東京の人、紅葉と同じく文章は西鶴に基づき、描写の態度も写実であったが、紅葉の客観的であったのに対してこれは主観的で、その構想の内には余程理想を加えたところがあったようである。明治二十五年に「五重塔」を出している。これらの人の態度には、固有のものに基づきながら新しいものを摂取し、己において融合して、独自の創作を出したところがあらわれている。明治における自覚期の作として相応しいものである。
462: ブログ転載 11/14(木)16:21 AAS
次に西洋文学の翻訳紹介に功があったのは、坪内逍遙・森鴎外などであるが、逍遙は特にシェイクスピアを紹介し、鴎外は主としてドイツ文学を翻訳した。
夏目漱石は英文学から出て、独自の天分をもって巧妙に心理描写を行い、「吾輩は猫である」を出したのは三十八年であった。
この写実主義の文芸から、やがて三十一年頃から日露戦争の終わる頃までは、個人的自覚が主となって、センチメンタルな方向に赴いてロマンチシズムを宣伝する力となった。詩歌の方がロマンチシズムの思想を守るのに適していたのだろう。
次いで三十六年前後から動きかけていた自然主義的傾向の作品が日露戦争の終わり頃から盛んになり、小杉天外・永井荷風・国木田独歩・田山花袋・島崎藤村などの先駆者を出した。
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