【日本史】GHQに焚書された書籍 (517レス)
1-

478: ブログ転載 11/16(土)18:12 AAS
p306
みがかずば 玉も鏡も 何かせむ 学びの道も かくこそありけれ
〔※磨かないならば玉も鏡も何者になるのでしょうか、学びの道もこのようでこそあることよ〕

明治二十年三月には華族女学校(学習院女学部)へは次の御歌を賜った。

金剛石

金剛石もみがかずば 珠の光はそはざらむ
人も学びて後にこそ まことの徳はあらはるれ
時計の針のたえまなく めぐるが如く時のまの
日かげをしみてはげみなば いかなるわざかならざらむ
〔※ダイヤモンドも磨かないならば、珠の光は増さないでしょう。人も学んだ後でこそ、本当の徳は現れる。時計の針が絶え間なく巡るかのように、つかの間の日陰に染まって励むならば、どのような行いが実を結ばないでしょうか。〕
省10
479
(1): 11/17(日)14:33 AAS
>>309
いかばかり 苦しかるらむ 日盛に 水まきぐるま ひきめぐる人(三十三年)
〔※どれほどに苦しいのだろう夏の午後に水まき車を引いて歩き回る人よ〕

にぎはへる 都大路を 盛る人は 心のやすき 時やなからむ(三十三年)
〔※繁栄する都大路を盛り上げている人たちは安心する時はないだろうか〕

戦いの 勝ちの便りを 聞くごとに み軍人の身を思うかな(三十七年)

だから国民はおそれ多くも父母と仰ぎ申し上げ、御二方をまつっている明治神宮を参拝して、敬慕の念を集中させる者が日々に絶えない。
明治神宮は代々木にあって官幣大社、大正五年三月から工を起こし、大正九年に至るまで四年半を費やして竣工した。当時この宮の御造営は国民の世論となったもの神苑は実に二十二万坪、木曽檜または台湾阿里山檜を材とし、かねて日本建築を研究した大家伊東忠太博士がこれを設計し、その工をはじめるや全国青年団の努力奉仕がはじまり、国民の赤誠が凝って出来あがったものといってよい。国民の献木は十数万本、今や鬱蒼として神霊と共に荘厳を増している。

(六)大正天皇は即位の大礼を挙げなさる
省3
480: ブログ転載 11/17(日)15:17 AAS
登極令による即位の大礼はこれがはじめてあって、今上天皇が第二回である。登極令によってなされる即位礼であるから、今上天皇の即位大礼と大体において同じことであった。従って未曾有の盛儀であったのである。

学習参考

(1)挿絵解説

「東京帝国大学に行幸しなさる」絵は聖徳記念絵画館書題考証、五姓田芳柳筆の内からとったもので、明治天皇最後の行幸でいらっしゃる。時は明治四十五年七月十日午前十時頃である。そして七月十四日には宮内省から御容体書が発表されているのだから、この頃は御病気を押しての行幸と拝察される。この日は東京帝国大学の卒業式に行幸になったので、図に見える門は、もとの加賀候御門で赤門である。これが帝大の門になっているから、赤門といえば東京帝大の表徴となっている。天皇の御馬車は今、赤門の前を御通過になって、帝大の正門に向かわれるところである。正門はこの時に新設されたものである。
「国民は天皇の御平癒を祈り申し上げる」絵は当時の写真によったもの。向こうには宮城〔※皇居〕御土居の石垣が見えている。そのこちらは御濠、そのこちらは鉄柵、女学生一団の御平癒祈願のところは広場である。明治四十五年七月十四日から三十日までは、宮城〔※皇居〕前は引きもきらず、こうした状態が続いたのである。国民精神の発露を味あわねばならない。

(2)指導要領
省8
481: ブログ転載 11/17(日)16:46 AAS
p313
第五十七 欧州の大戦とわが帝国の地位

学習目的

欧州大戦に加わった我が国の正義と活動について、皇太子が欧洲を巡遊しなさることがある。ワシントン会議に参加することがあって、我が国がいよいよ世界的に重きをなすに至り、戦後は外交の中心が東洋に移って来た中にあって隣邦と好を修め、極東平和の責任を果たしつつある点につきわからせ、我が国の国際的発展について認知感得させる。

学習事項

(一)欧州の大戦が起こる
省8
482: 11/17(日)16:58 AAS
>>479
明治天皇は和歌集もあるくらいたくさん歌を詠んでいるそうだが、昭憲皇太后の方が難しい和歌で明治天皇はけっこう簡単な和歌。
明治天皇と昭和天皇が同じくらいで、大正天皇は飛び抜けてお手本みたいにきれいな和歌を詠む。
483: ブログ転載 11/17(日)19:33 AAS
p314
連合側

セルビア ロシア フランス ベルギー イギリス モンテネグロ 日本 ポルトガル イタリア ルーマニア ギリシャ アメリカ キューバ パナマ シャム リベリア 支那 ブラジル グアテマラ ホンジュラス

同盟側

オーストリア=ハンガリー ドイツ トルコ ブルガリア

こうして連合軍の動員兵数四千四百万人、同盟軍二千五百万人、戦線百三十里、連合軍戦死者七百万人、同盟軍の戦死三百万人、連合側戦費二千七百億円、同盟側一千億円ということになった。
この戦争で英国が参加することになると、次に起こって来る問題は日英同盟(明治四十四年修正の日英攻守同盟で期間十年)に繋がる日本の態度であった。外務大臣加藤高明は、日英同盟が自動的に参戦を要求するものと信じ、局外中立の声明もしないで余儀ない場合の準備をしていた。果たして八月七日英国から助力を求めてきたので、十五日次の通告をドイツに手交した。
帝国政府は現下の状勢において、極東の平和を乱すに違いない原泉を除去し、日英同盟協約の予期した全般の利益を防護するという措置を講じるのは、該協約の目的とする東亜の平和を永遠に確保するために極めて枢要の事であるのを思い、ここに誠意をもってドイツ帝国政府に勧告するのに、同政府において左記二項を実行するだろうことをもってする。
省4
484: ブログ転載 11/17(日)22:26 AAS
p316
(二)わが軍の活動

我が国が交戦国の列に入ると共に起こった日本に対する一つの提案は、日本軍の欧洲出兵である。数回の懇請をうけたが、我が国は拒絶した。その理由とする所は次のようである。

(1)帝国軍隊の唯一の目的は国防にある。
(2)十個軍団も送れば帝国は無防備の状態となる。

陸軍の派兵懇請と共に海軍に対しても遣艦の申し込みがあったが、これも同じ理由で拒絶した。ただ次のようなことだけは、連合軍と連絡して行動をとった。

(1)青島攻落
省3
485: ブログ転載 11/18(月)10:06 AAS
p317
(3)インド洋・地中海に出動する

我が国はさらにカナダ方面にも軍艦を遣わせて警戒し、またインド洋方面にも出動し、英国駆逐艦隊と協力して警戒掃敵の任に当たり、インド兵や濠洲〔※中国〕兵が欧州に出兵するのを送って紅海の入り口まで行くとか、ロシア国に軍需品を提供するとか、大正六年二月ドイツが無制限潜水艦隊を宣言して、連合国の戦艦はしきりに被害を被るや、わが艦隊は地中海に出動して、ドイツの潜水艇と戦い、運送船の護送は二百回にも達した。一方においては我が国の赤十字社が医員などを英・仏・ロシアの諸国に送って、戦傷病者を救護して博愛の精神をあらわしたので、世界賞賛の中心になった。

(4)シベリア出兵

欧洲においては、チェコ=スロバキアが、オーストリア=ハンガリー国で戦っていた勇敢な民族であるが、彼らはロシアと民族を一つにするところから、戦争中ロシアに投入してオーストリア=ハンガリー国にそむき、戦後は独立国をつくりたいと考えた。こうしてチェコがロシア国に入って共同戦線を張るうち、大正六年三月ロシア国に革命が起こって、十一月過激派の天下となり、ついにロシア国は単独講話をしてしまった。ここにおいてチェコはどうすることもできない。そこでシベリアから米国へ出て、さらに欧洲連合国の戦線に達しようとくわだてた。これは容易なことではなかったので、米国は我が国に出兵の援助を提議してきた。ここにおいて大正七年八月二日、寺内内閣は対ロシア出兵宣言を公表した。これはチェコ=スロバキア軍の東進に便宜を与えようとするためであったが、次第に最初の目的を越えて過激派討伐など複雑なことになって進退時を失ったものである。はじめは七千くらいの兵を出したが、後には七万三千人も出すに至り、十億の国財を費やし、三千五百の死傷を犠牲として手に入れるところはなかったようである。
486: ブログ転載 11/18(月)12:57 AAS
p318
(5)戦時の外交

戦争中大正六年九月四日、英・仏・露三国は、ロンドン宣言の名によって同盟条約を帰結した。

第一項 フランス国・ロシア国及びイギリス国政府は、現戦争中は単独で講和してはならないことを相互に約束する。
第二項 右三国政府は講和条件を議する場合において、いずれの同盟国もあらかじめ他の同盟国の同意を経ないで講和条件を要求してはならないことを約束する。

こういう意味の条約であった。当時駐仏大使石井菊次郎は是非この条約宣言に加わっておかなければならないと、我が国の政府に申し越した。時の外相加藤高明は、日英同盟があるから、それは二重の手間ではないかと同意しなかったが、そのうちに石井子爵が外務大臣となってかえるようになった。石井子爵は時の総理大隈重信の了解を得て、フランス国を立つときに英仏当局と面議して、ロンドン宣言に加入の内意を伝えてかえり、後についにこれに加入したので四国同盟が成立し、これにイタリアが加入して五国同盟となった。やがてロシア国が革命のために、これを抜けて、米国が加入し、「主要連合国」の名で平和会議に華々しい活動をするに至った。

(三)平和条約を結ぶ
省3
487: ブログ転載 11/18(月)14:44 AAS
p320
この会議において、猛烈な支那の妨害を排除して、我が国は膠洲湾及びドイツが山東省において有した、一切の権利を得た。
またウィルソン並びに英国のスマッツ将軍によって提唱された国際連盟案は最も論議の中心となり、紆余曲折を経て、全規約二十六条が可決された。我が国の主席全権西園寺公望もこの人支持者であったが、我が国はこの時、人種差別撤廃すなわち人種平等主義を連盟規約中に明記しようと提唱し、過半数の賛成を得たが、全会一致の同意を得ることができなかったので、ついに否決となったから、我が国の全権はこれを後日に保留して終わった。
我が国が占領した旧ドイツ領の南洋諸島は、この時国際連盟から我が国に統治の委任をした。
委任統治というのは、その主権がどこにあるのか明らかでない。これはスマッツ将軍の独創に出たもので、各国が義務として旧ドイツ領を引き受けることにすれば、賠償金を成功させることができるというので、欧米の政治家は一も二もなく賛成したものである。

(四)皇太子欧洲を巡遊しなさる

大正十年三月三日皇太子裕仁親王は、閑院宮載仁親王・伯爵珍田捨己他十六名をお伴いになられて、欧洲巡遊のため万里の御旅程におのぼりなさった。これは御父君の厚い思し召しによったもので、各国の元首を訪問して親交を重ね、諸国の学芸、産業の実際から、大戦後の社会の状態を親しく視察しなさり、あっぱれ未来の帝王としての御修養のためであったろう。実に皇太子の世界御巡遊は、かつてない盛事で、国を挙げて慶福の至誠をあらわし、半年の長旅、御つつがなかれと神祈りに祈るところがあった。御召艦香取・供奉艦鹿島は、堂々横浜を出発して、艦列が次第に視界を没し去ったとき、御見送り終えた逓相野田卯太郎は、汽艇で岩壁に引き返し、御召艦を港外に遠く見送りつつ、「乃公が子供時代は、世界といえば唐・天竺としか知らない者が多く、たまに黒船が来たと言って大騒ぎをしたものだが、わずか五六十年の間に、東宮御渡欧という御盛事を拝し、国威の発場を今さら痛切に感じた。特に殿下が甲板上に立たれた御英姿は、将来日東海国の元首として、我が国の誇りでなければならない」と言って次のように詠んだ。

空晴れて 東風に御艦の 錦旗かな

もしかするとこれは野田逓相一人の感じではなかったろう。
488: ブログ転載 11/18(月)14:53 AAS
p321
この時から殿下は多年友好のよしみが厚い英国をはじめ、フランス・ベルギー・イタリアの連盟各国を御巡幸、一路平安九月三日横浜におかえりなさる。この間殿下の御交際は堂々たるものがある。諸国の新聞は「驚異すべき殿下」とか「最も平民的でいらっしゃる殿下」とか「偉大なる未来の帝王」とか「明治天皇の御再現」とか言って賞賛おかないものがあった。こうして我が国はいよいよ世界的に重きをなすに至っている。
489: 11/18(月)15:18 AAS
明治天皇大正天皇昭和天皇までは、英国からガーター勲章をもらっていて、上皇も今の天皇もイギリスへ行った。今年か去年?
大正天皇が会議の席で書類を丸めて望遠鏡みたいにしていたから少し頭がアレな天皇という噂は以前はあった。摂政の正当化?
この君主交代はイギリスへ行ってすぐに摂政になったのですごく怪しい感じがする。
しかも明治帝以来の名君とかなんとか海外の新聞に褒められていて、そういうときは外国の言うことをよく聞く現地人くらいに思われてる場合が多いのでよけいに怪しい。
490
(1): 11/18(月)15:50 AAS
大正天皇が知的障がい者みたいに言われたのは、反ワクが低学歴低賃金みたいに言われてる理由と同じと思う。
491
(1): ブログ転載 11/18(月)16:45 AAS
p322
(五)皇太子摂政の任に就きなさる

時におそれ多くも、天皇の御病は長い期間におわたりになったので、大政を御みずからしなさることができなかったため皇太子を摂政に任じなさった。これは皇室典範第五章第十九条第二項に、「天皇が長い期間にわたる故障により、大政をみずからすることができない時は、皇族会議及び枢密顧問の議を経て摂政を置く」とあり、第二十条に「摂政は成年に達した皇太子または皇太孫、これに任じる」とあり、第十三条に「天皇及び皇太子は満十八歳をもって成年とする」とある。裕仁親王は大正八年五月七日御成年式を御挙行になっているから、大正十年十一月二十五日午後二時次のように大詔が出た。

朕は長い期間にわたる疾患により、大政をみずからすることができないことをもって、皇族会議及び枢密顧問の議を経て、皇太子裕仁親王を摂政に任じる。ここにこれを宣布する。

こうして皇太子摂政のことが定まったのであるが、摂政については、憲法第十七条第二項に「摂政は天皇の名において大権を行う」とあり、皇室典範第十六条に「摂政在任の時は前条のことを摂行する」とあって、前条には「皇族は天皇これを監督する」とある。だから裕仁親王はこの二大権を摂行されることとなったのである。
皇太子摂政のことは推古天皇の御代に聖徳太子がいて、斎明天皇の御代に中大兄皇子がいる。今や裕仁親王は聖徳太子の尊と徳、中大兄皇子の智と勇を兼ねなさり、日夜御寸暇なく御多忙にお送りなさることになった。
天皇の長い期間にわたる御病気については、国民は等しく憂いに満ちたものであり、皇太子の御励精に対してはおそれ畏まることを感じたが、しかし一面においては少しも迷うところなく皇太子摂政のことあって、皇位は磐石のように強固な基礎に立っていることや、皇太子が御英明にお送りなさることを、目の当たりに認識せずにはいられなかった。
492: ブログ転載 11/18(月)16:48 AAS
>>491
皇太子が御英明でいらっしゃるに変更
493: ブログ転載 11/18(月)18:38 AAS
p323
(六)ワシントン会議開かれる

世界大戦後、国際関係に大変調をきたし、国際間における在来の均整は完全に一掃されて、新たなる秩序や編成を立てることが必要になってきた。
国際連盟は大いなる画案には相違なかったが、いまだ十分な試練と修養を積んでいない。
したがって国際間の安定と平和とを与えるものは、依然として列国間の実力均衡の他にはなかった。
この均勢を考えるものには二つある。一つは欧洲の新均勢、一つは太平洋方面の新均勢である。
太平洋方面では米国が英国をしのいで第一の主力艦を持とうとし、新興日本はまた第三位に躍進しようとするに至った。ここにおいて軍備はますます拡張の競争が行われ、第二の世界大戦を見るやも測りしれない情勢となってきた。
米国大統領ハーディングはここに着眼し、海軍の軍備を制限して世界平和を確保し、かたわら支那に関する問題を議し、太平洋方面の暗雲を一掃しようと提議し、日・英・米に加えてフランス・イタリア並びに支那・オランダ・ベルギーなどの特別関係がある代表者を招いたので、我が国からは貴族院議長徳川家達・海軍大臣加藤友三郎・駐米大使幣原貴重郎、後に外務次官埴原正直を全権として出席させ、会議は大正十年十一月一日の欧洲大戦記念日をもって開会し、翌年二月六日に至る約三ヶ月であった。この時決定した事項は次のようである。

一、各締約国の主力艦の合計t数は基準排水量において、英米は五十二万五千t、日本は三十一万五十t、フランスイタリアは十七万五千t限、排水量は三万五千t限、口径十六インチ砲限。

一、航空母艦において、英米は十三万五千t、日本は八万一千t、フランスイタリアは各六万t限、排水量二万七千t限、口径八インチ砲限。
省2
494: ブログ転載 11/18(月)21:44 AAS
p325
この時、日・英・米三国において、香港をも加えた太平洋方面における要塞及び海軍根拠地に関して、現状維持を行うことを約束した。ただしこの制限は、ハワイ諸島・濠洲・ニュージーランド・日本本土をなす諸島(千島・小笠原・奄美大島・琉球・台湾・澎湖島は現状維持)米国・カナダには適用されない規定である。
また日・英・米・仏間に四国条約をも締結した。これは太平洋方面におけるその島嶼である属地及び領地に関する各自の権利を互いに尊重すること、もし争議発生の場合は四国会議に委託することを定めたもので、有効期限は十年である。この条約が結ばれたので、日英同盟は自然消滅の形となった。
日英同盟は明治三十八年攻守同盟となったことは前に述べたが、四十四年七月に、英国が米国と仲裁裁判条約すなわち両国間に紛争が生じた場合は、万国仲裁裁判によって決定する条約を結ぶために、将来英国が第三国と仲裁裁判条約を結ぶときは、第三国に対して、日英同盟は有効でないことと改めたのである。
しかし日英同盟のような有力な同盟は、第三国をして快くなく思わせ、例えば米国はそれであったので、英国内でも議論があり、また国際連盟規約によって日英同盟は有効ではないと論じる者もいたが、今この四国条約によって、日英同盟はついに消滅した。

(七)支那及びロシアの革命

こうして世界外交の中心はだんだん東洋方面に移って来たのに、我が国の隣邦の秩序はすこぶる乱れている。
支那は光緒十八年(明治二五)すでに広東人孫文(逸仙はその人の号)興中会を創立して革命の機関とし、満洲族の清朝を倒して漢人の天下を起こそうとし、以来着々としてその根を張っていた。光緒三十四年(明治四一)十月二十一日光緒帝は崩御し、翌日西太后がまた崩御するや、遺詔して醇親王(光緒帝の弟)の長子溥儀を立てて嗣帝とし、醇親王を摂政であるとさせた。溥儀が立って宣統と改元、宴統帝方に三歳、政事一に皇親に決定し、宣統三年(明治四四)の内閣では十三大臣中その九人までを満族とした。また当時支那は我が国が日露戦争に勝ったのは、立憲によるものとし、これに倣おうという声が盛んであったので、内閣は宣統四年に憲法を発布し、五年に国会を開設することを約束したが、その誠意は乏しかった。また当時の清国政府は、赤貧洗うが如し状態であったから、鉄道国有を断行した。
495: ブログ転載 11/19(火)11:52 AAS
p326
これらのことが多くの反対者を出し、革命党は兵を起こして武昌を占領し、次第に漢口・漢陽を陥落させた。これを辛亥革命という。この革命に応じる者が続出したので、宣統帝は明治四十五年二月十二日ついに退位される。清朝は太祖から十二世二百九十七年にして滅亡した。
ここにおいて中華民国が起こり、共和制体となり、同年(大正元年)袁世凱は臨時大総統に推され、翌民国二年(大正二年)には国会の選挙によって袁は正式に大総統となり、したがって支那共和国も正式に成立し、列国はまたこれを承認した。袁はだんだん皇帝とあろうとして失敗し、大正五年六月病死し、黎元洪が大総統となる。この時張勲は一時宣統帝を腹位させた。時は大正六年七月であったが、同月たちまち失敗して、民国は依然成立し、国璋が大総統となり、六年八月徐世昌がこれに代わり、十一年五月黎元洪が大総統となり、十二年十月曹??がこれに代わり、同十二年十一月段祺瑞が臨時執政となって昭和元年四月退職、昭和二年六月張作霖が大元帥となった。
さてこの時から以前、大正六年九月、広東において孫文が推されて大元帥になり、大正十年四月孫文は大総統となったから、南北政府と両国会が対立して争うこととなった。孫文は大正十四年三月北京で死んだが、孫文の三民主義すなわち民族・民生・民権を標榜し、その手段としては軍政・訓政・憲政によるといって、人民の共鳴を得た南方の総司令蒋介石は、軍を揚子流域江に進めてますます勢いを得て、ついに昭和二年四月南京に国民政府を成立させ、この時から北方軍閥を討伐すれば軍政期を終えるものとしていた。
さて、北方の張作霖の勢いはだんだん利がなくて、北方を去って泰天にかえろうとする途中、昭和三年六月急に死んで、その子、張学良は同年十二月国民政府に服従することとなった。この時から以後、民国は南京を首府として蒋介石を首席とする国民政府によって統治されるようになった。この統治は中国国民党という孫文のつくった一党のみを認めるので、一党専制の統治であり、現在は訓政期だというが、実際は蒋介石一派の独裁で、政権の争奪が暗々に行われ、今日は民族主義と国家主義と資本主義と共産主義というように国内は雑然として収拾はまた困難である。国民政府の統一といっても、二十二省の江蘇・淅江二省の政府といってよい。
496: ブログ転載 11/19(火)13:37 AAS
p327
一方には赤族または赤匪といっている共産党及び共産軍がその勢いは猛威を極めているし、その他閻錫山がいて玉祥がいて広東・広西に別勢力があり、満洲には新興国が生まれている。その外交は常軌を脱し、列国環視の内にあって醜態を暴露し、隣邦日本の迷惑はこの上もない有り様である。対支那外交は我が国今後の最大関心事となっている。
ロシア帝国が建国の基を築いたのは、我が国の清和天皇の貞観四年(皇紀一五二二)で、モスクワ大公イワン四世が初めてロシアの皇帝と称し、東はシベリア経営の端を開き、西はカスピ海までを侵略して国勢は盛んであったが、死後内紛が起こり、ミカエルロマノフがこれを鎮定して皇帝の位に登った。これは後水尾天皇の慶長十八年(皇紀二二七三)であった。ロマノフ朝はここに起こったのであるが、ピョートル大帝というのはミカエルロマノフの孫である。
ニコラス二世の頃には、ヨーロッパの他の国家では、トルコを除いてことごとく立憲政治を行っているのに、ロシアだけは君主専制の政治を行って、人民によって政治を興らせる近代的傾向を無視していたから、早くから反帝思想が起こっていたが、政府はこれに対して、あくまで高圧的な態度を執った。ちょうどその時日露戦争が勃発して、敗報がしきりに至るに及び、政府の無能を攻撃する声が高くなり、憲法の発布・国会の開設を要求することがしきりであったから、明治三十八年十月、ついに詔勅を下して立憲政体とする旨を公布した。
ここにおいて自由主義者は次第に増長して、翌年四月の第一回国会には政府に迫って民主的憲法を要求するに至り、議会は解散となって内紛がうち続くうちに、世界大戦となり、連合国に加わったロシアが、西方国境において戦いは敗れ、物資ははなはだ欠乏して困窮するに至ったので、大正六年三月ついに革命が起こってロマノフ朝がたおれ、ケレンスキーの仮政府が立ったが、十一月過激派の首領レーニン・トロツキーなどはついに仮政府をたおして、社会主義のソビエト政府を立て、ニコラス二世をシベリアに流し、次いでこれをころし、連合国に背いて同盟国側と休戦し、翌年にブレストリトウスクで単独講和を結んだ。
497: ブログ転載 11/19(火)14:07 AAS
p329
ロシアはこの時から全世界の過激化をはかり、国内には反過激派もいて動揺は常ではなく、先の述べたチェコ=スロバキアは捕虜としてシベリアに移されるし、ドイツの勢力が次第にロシアに入り込んで来たので、我が国は一つはチェコの救援、一つは反過激派のオムスク政府を助けて過激派を防止すること、一つはドイツ勢力が東に次第に伝わり広まることを阻止すべく、時の寺内内閣が大正七年八月二日シベリア出兵を宣言したのであった。我が国の出兵に対して過激派は大いに憤慨し、大正八年ニコライエフスク(尼港)において、石田領事他同胞七百名を文字通りに虐殺した。ここにおいて我が国はさらにシベリアに増兵して北樺太及び対岸のサガレン州を保障占領した。シベリア駐兵は実に四年間であった。
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