【日本史】GHQに焚書された書籍 (542レス)
上下前次1-新
12: 2024/09/07(土)20:57 AAS
p24
(五)桃山時代の芸術
秀吉の大業は不幸にも中途で終わったが、その豪壮な気象は一世を動かし、その風はおのずから当時の芸術の上にあらわれている。あるいはこの逆に、ルネッサンス的時代の趨勢が、秀吉を動かしたものかもしれない。
ともかくもこうした時代の事であるから、芸術の方面では粉飾燦爛(さんらん)・趣致壮麗・規模広大、いわば豪放華麗なものとなって、意匠斬新という事はできるが、少々通俗的傾向を持っていたとも言える。
絵画ー秀吉が大阪・伏見の二城、聚楽第など雄大な構えをつくり、諸将はまた暇を得て安慰を要求し、天下の書家が畢生の技量を発揮するようになり、書家としては狩野派に元信の孫永徳が出ている。
永徳は当代の代表的書家で、その筆は雄健をもって聞こえ、安土城にその霊筆をふるい、秀吉の聚楽・大阪城においては金壁に書いている。
従って求める者は多く、盛んに大書を作成したから、大書の妙に至っては古今独歩と言われる門下に妙手は少なくないが、山楽最もあらわれ、狩野の正伝を継承した。
山楽は近江蒲生郡の人、幼児秀吉の近待となり、ある普請場の巡視に随行した時、たずさえていた杖で、巧みに砂上に馬を書いたので、秀吉はこれを見て大いに感じ、命じて永徳に学ばせた。
のち彩色、書に長じ、聚楽第や伏見城の金殿を飾った。今日京都の寺院にはその遺作が多く残っている。長谷川等伯もこの時代の大家であり、狩野派から出て雪舟派つまり宗元書派に変じ、狩野派に対抗した。
彫刻ーこの時代には仏像彫刻に見るべきものはない。ただ方広寺の五丈八尺五寸の大仏をあげねばならぬが、これは寛文六年の震災で、今は見ることができない。
省2
13: 2024/09/07(土)23:20 AAS
p25
建築ーー仏寺建築では方広寺・東寺があり、宮室建築は当代においてよく発達し、神社建築の方では権現造といって、北野神社で見るように書院造に進歩した手法と装飾を応用したものが出来、住宅建築としては書院造で例えば聚楽第それである。また城堡建築は大阪・伏見のような当代特有のものができている。
当時の遺構で有名なものは伏見城内にあった西本願寺書院鴻の間・西本願寺唐門・豊国神社唐門、聚楽第にあった西本願寺飛雲閣・大徳寺唐門があり、いずれも当代建築の模式的なものである。
この特色ある美術の時代を呼ぶと、後世伏見の地を桃山と呼ぶのにちなんで、この時代を桃山時代といっている。
秀吉の頃は伏見に伏見城があったのであるが、後この城をこわして、その後に桃樹を植えたから桃山と言うに至った。それは江戸時代中期後であろうと言われる。
学習参考
(1)挿絵解説
「豊後の洋学校」はローマ法王グレゴリオ十三世偉業聖蹟要略所載のものによったのである。豊後の府内(大分)に建てられたコレジオ(大学林)で、グレゴリオ十三世の寄付金で建てた。それは正親町天皇の天正十年である。三層の洋館でこの時代から西洋建築法も輸入されたことがわかる。
「京都西本願寺の書院」は写真によったもの。伏見城の大広間を徳川家光が移したので、間は上下二段に分かれ、上段の間は秀吉が着座するところ、下段の間は諸侯が集会するところ、上段の間の左方に上々段の玉座がついている。
またその上段の間の背後には、三間以上も大床がついていて、そこは狩野探幽の絵で飾られている。
省4
14: 2024/09/08(日)00:16 AAS
(2)指導要領
「安土桃山時代の発展的な気分はどうして生じたものか。そしてどんなところへ表れているか。」このような事がこの教材の中心問題となるだろう。
発展の認識が中心となる教材だから、歴史性の豊富な教材である。
どうしてかというと歴史は「発展」の認識をおいて他にないからである。
海外発展は我が国現下の重要な問題であるから、考現的学習をするように注意せねばならない。
秀吉の対外方針によって、侵略心を養うのではなくて、愛国心を養うのである。愛国心はウブな罪なさにかえる時に正しいものである。愛国的なものは同時に国際的でなければならぬことを考察させたい。
本課は宗教のこと、学問のこと、経済のこと、芸術のことなど、多くの文化学習に触れるのであるが、よく吟味して理想はどこに置くべきかを常に考えさせなければならない。
できるだけ文化学習に適当な環境を整理することと、労作的に学習させることは特に必要である。
また前代の絵画と当代のそれと比較するとか、彫刻の比較をするとか、おおよそ比較法を多く採用するがよい。
特に前代の乱世と当代の文化的治世とを比較して、文化生活への憧憬、文化的奮闘心の養成をなすべきである。
15: 2024/09/08(日)11:50 AAS
p28
第三十五 江戸幕府の創立
学習目的
家康・秀忠・家光の間において、幕府の組織が全部整うのに至る次第をしらしめ、政治的・経済的に中央集権的封建制度を現出し、太平の基を定め、美術その他文化が発達しようとする事情を学習させるのである。
学習事項
(一)家康江戸にうつる
省7
16: 2024/09/08(日)13:57 AAS
江戸城はもと扇谷定正の重臣太田持資(道灌)が築いた所であるが、当時は北条氏の家臣遠山景政という一万石くらいの小名が、城代としていた所であるから、その城は小さく、居館の玄関は船板を張ってあって、城下には農家・漁家が点々と散在し、西北は武蔵野に連なり、東南は内海に臨んで蘆の茂った寂しい一漁村にすぎなかったが、家康はまず城郭を改築し、城下の海岸を埋め立てて町を開き、次第に繁栄におもむき、今日の東京都の起源をなしている。
(二)江戸幕府成立
秀吉は天正十三年関白に任じ、天下の財務を行うに当たり、前田玄以・長東正家・浅野長政・増田長盛・石田三成を五奉行と称して政務を分掌させたが、後さらに天正十九年には、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝(初小早川隆景)の大五老、生駒親正・中村一氏・梶尾吉晴の三老中などを置いて大事を会議させた。
慶長三年八月秀吉が伏見城で薨去した時、当時六歳であった秀頼には、前田利家に補佐役が命じられ、家康は遺命によって、伏見にいて政務を見たが、翌慶長四年閏三月に至って、利家は薨去したので、家康の勢いはこの時からひとり盛んとなった。
石田三成は豊公恩顧の士で、近江佐和山二十二万石を得、五奉行の首席として大小政務を処理していたが、豊臣氏のために家康を除こうとし、他の大老つまり毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝と結び、慶長五年(紀元二二六〇ーー世紀一六六〇)ついに関ケ原の決戦を惹起した。
草も木も東へなびく関ケ原
ーー木宮泰彦詠史狂句集ーー
省3
17: 2024/09/08(日)13:59 AAS
この配置は家康の在世中にも、またその後にも、数度の遷代があったけれども、その大綱においては変じることなく、中世以来おいおい発達しきった封建制度は、これによって中央集権的に、秩序組織の完全なものとなった。
ここにおいて内府(内大臣)家康は、慶長八年(二二六三)二月右大臣征夷大将軍に任じられ、淳和奨学両院の別当、源氏の長者となり、幕府を江戸に開き、天下の政治をすべるに至った。
家康は将軍職を子秀忠に譲ったのは慶長十年であるから、将軍職にあることは足かけ三年であったけれども、退職後駿府にあってなお大事を決定し、薨去したのは元和二年(二二七六)であるから、秀忠の在職年限は足かけ十九年中、初めの十二年間は家康によって事件が解決していたものとして見てよい。従って慶長十九年の大阪夏の陣も、皆家康において責任を認めるのである。
また元和元年豊臣氏が滅亡すると共に、江戸幕府の基を固めようとするために、貞永式目などにならって、武家・公家などの諸法度を出したのも家康に功過を帰するのである。
18: 2024/09/08(日)15:34 AAS
p32※原文は漢文
武家諸法度
一、文武弓馬の道 ひたすら相たしなむべき事。
一、群飲佚遊(酒に溺れ遊び呆ける)を制すべき事。
一、法度を背く輩は、国々に隠して置いてはならない事。
一、国々の大名、小名ならびに諸給人は、各々相抱える士卒に、反逆や殺人をなすという申し出が有るならば、速やかに追い出さなければならない事。
一、今後以後、国人の外は、他国の者と交わってはならない事。
一、諸国の居城は、修補をするといっても、必ず言上しなければならない。まして新しい装いの家屋を構え事業を営むことを堅く停止させる事。
一、隣国において家屋を構え事業を営むくわだてや徒党を結ぶ者、これらの者がいるならば、早く言上しなければならない事。
一、私事で婚姻を締んではならない事。
省8
19: 2024/09/08(日)15:35 AAS
禁中ならびに公家中御法度
一、天子諸芸能の事、第一は学問である。
以下全部で十七条
この旨を相守られなければならない者である。
慶長二十乙卯年七月 日
省2
20: 2024/09/09(月)07:37 AAS
p34
(三)幕府の組織整う
大徳院秀忠は家康第三の子、慶長十年七月二十八日将軍の宣旨を蒙る。以来十九年の在職中、はじめの十二年間は万事父家康意思によって幕制をとる。その後といっても同様で、亡き父の意に違うようなことをする人ではなかった。
秀忠は篤志、謙遜の徳が備わり、孝心に類いなく、万事において、みな大御所のお教えを受け、少しも自分の心にまかすことはなかったと徳川実紀はほめている。
また秀忠は恭倹慈和・天性示孝・寛厚謹厳であったと野史はいっている。これによって大方その人物は察せられるが、この人格をもって彼は遺憾なく守成の功を全うしたから、徳川幕府の基礎はいよいよ固まったと見ることができる。
家光は慶長九年七月十七日、西の丸において、秀忠に子の長子として生まれ、女丈夫の名のある乳母春日局の心をこめた育成によった上で、天性英明の人であった。
かつて天海が「神祖(家康)は万事に通達おありになってよく人情世態におわたりになられたので、何事を申し上げるにも安らかで滞るところがなかった。台徳院(秀忠)殿にも御資質温柔でありましたので、同じようにあったが、当代は極めて聡明英武でおありになったからであろうか、何となく申し上げにくい」と言い、人見友玄宜卿は「いかにもおそろく見上げ奉った」と言っているのを見ても、聡明英武にうたれるような人であったらしい。
彼は元和九年七月二十七日将軍となったが、これを補佐するのに名臣をうち揃え、中でも土井利勝・阿部忠秋・松平信綱の三人が最も名高いものである。
利勝はその政事を議するや、今までは必ず狭い部屋において密議を凝らすのを例としていたが、利勝は大広間の中央に席を設け、四方の襖を明け広げて議したという思慮深い人、忠秋は性鶉を愛していた。
麹町に鶉を飼う者があり、その声は甚だよい。忠秋は欲しいけれども、値が高くて買うことができなかった。ある人は、忠秋の意を推察して、この鶉を買って忠秋に贈った。他日忠秋は「我仮にも重任を帯びる身が、このような玩具をなすべきではない」と言って、家来を使ってことごとく鶉を放たせ、よって賄賂の道を絶ったという廉直の人、信綱は機智に富み、知恵伊豆と言われたひとである。
省1
21: 2024/09/09(月)07:38 AAS
幕府の政局を用部屋といい、大老・老中・若年寄がこれに詰めた。大老は大事を総裁する者で、常置の職ではなく、江戸幕府を通じてわずかに十人に過ぎなかった。
老中は一般行政をつかさどり、五人または六人あり、若年寄は勝手方二人、公事方二人であった。
各何人かずついるのは、仕事を分担したのではなく合議制であり、中一人が月番として一月交代で事務を執ったのである。
権威が一人に帰することのない特質をもっている三奉行など幕府のおもだつ吏員が会合して事を議する所を評定所といい、日付所には、大目付として老中の耳目となり、目付といって若年寄の耳目となり、共に所管の非違を監察する者がいた。
地方の職には京都に所司代があった。これは鎌倉の京都守護、北条氏の六波羅探題に当たるもので、代官のようだが実は正員である。
室町時代に代官というが流行した名残があるのであろう。京都・二条・大阪・駿府には城代、京都・大阪・駿府・奈良・伏見などには町奉行、長崎・佐渡・新潟・堺・山田・日光・浦賀のような枢要直轄地にも奉行、その他公領(幕府の直轄地で天領といった)には郡代・代官を置いてそれぞれ事務をとらせた。
これらの制度は徳川氏が三河の一小名であった頃の官制を、次第に大成してきたものであるから、すこぶる実用に適したものであったといえる。
22(1): 2024/09/09(月)14:25 AAS
p36
(四)諸大名に対する政策
大名の統御についてはさきにも述べたが、家康以来特に意をそそいだもので、親藩忠義直が封じられた尾張、?ョ宣の封じられた紀伊、?ョ房が封じられた水戸藩が最も重んじられ、これを御三家といい、将軍の羽翼とさせ、幕府の要職には譜代大名のみを用いて外様大名を用いず、やがて参勤交代の制度を定めて最も有効に統御のことに成功している。
江戸幕府では中央集権政策の一つとして、はじめ諸侯の子を人質とする法をとったが、これは戦国の余弊であるからといってやめ、時々証人としてその妻子を出させたり、または江戸においたりした。
慶長十一年一柳直盛は、その子七歳である直家を江戸に住まわせ、藤堂高虎はその前年に妻子を江戸に移してから、諸大名の子弟の人質となって江戸に至り麾下に列する者も多かった。
しかし参勤交代などはいまだ定まらず、二、三年、もしくは五、六年に一度くらい参勤した程であったが、家光が寛永十二年の武家法度でこれを規定してからは、すこぶる厳重なものになってきた。武家法度は最初十三条からできていたものであるが、家光に至って二十一条となっている。その第二条に規定したことは次のようであった。
大名小名の在江戸交替を相定める所である。
毎年四月中に参勤致さなければならない。
従者人数は近年甚だ多い。かつ国郡の費用、かつ人民の労である。
今後はその相応により少なくこれを減らさなければならない。
省3
23: 2024/09/09(月)14:31 AAS
>>22
※武家法度の原文は漢文
外様大名を財政的に疲弊させるために豪華な参勤交代をしていたと習ったのに金かけるの禁止されとる…
24: 2024/09/09(月)16:52 AAS
p37
ただし要地の大名は、その地の警備のために代わる代わる参勤していた。例えば筑前の黒田氏と肥前の鍋島氏とが、長崎警備のために、そこへ参勤したような類いである。これを居替交代といった。
例えば対馬の宗氏は朝鮮警備の必要上、三年に一回江戸に参勤することとし、在府は僅かに四ヶ月とした。水戸の徳川氏は江戸にのみ在住しこれを定府(じょうふ)といった。
また諸大名が妻子を江戸に置くことは、これまでは一定していなかったのを、寛永十一年八月に譜代大名をして妻子を江戸に置かせることとしたので、外様大名も皆置くようになったのである。
家光以後多少の変化はあったが、しかしその参勤の制度は江戸幕府の終いまで続いた。
幕府はこれによって威権を示し、かねて諸大名に異図を企てる余裕をなくさせ、往復の費用に疲れさせるためでもあったろう。
ただその結果としては全国の交通は開け、文化の伝播を助け、江戸の繁栄を来している。ちなみに参勤というのは江戸に来る方で、交代と言うのは国に帰る方である。
大名は一年置きに角をもぎ
ーー木宮泰彦詠史狂歌集ーー
幕府の対諸侯制度の中、参勤交代の制度ほど成功したものはなかろう。こうして中央集権的封建制度による二百六十五年間の太平を建設したのであった。封建制度ということは、諸侯に封土を与え、その子孫によって封土を世襲させ、その封内の政治をおのおの随意に取り扱わせるというやり方で郡県制度に相対するもの、江戸時代の封建は中央集権的封建で、これに対するものは地方分権的封建である。
省3
25: 2024/09/09(月)16:53 AAS
p37
ただし要地の大名は、その地の警備のために代わる代わる参勤していた。例えば筑前の黒田氏と肥前の鍋島氏とが、長崎警備のために、そこへ参勤したような類いである。これを居替交代といった。
例えば対馬の宗氏は朝鮮警備の必要上、三年に一回江戸に参勤することとし、在府は僅かに四ヶ月とした。水戸の徳川氏は江戸にのみ在住しこれを定府(じょうふ)といった。
また諸大名が妻子を江戸に置くことは、これまでは一定していなかったのを、寛永十一年八月に譜代大名をして妻子を江戸に置かせることとしたので、外様大名も皆置くようになったのである。
家光以後多少の変化はあったが、しかしその参勤の制度は江戸幕府の終いまで続いた。
幕府はこれによって威権を示し、かねて諸大名に異図を企てる余裕をなくさせ、往復の費用に疲れさせるためでもあったろう。
ただその結果としては全国の交通は開け、文化の伝播を助け、江戸の繁栄を来している。ちなみに参勤というのは江戸に来る方で、交代と言うのは国に帰る方である。
大名は一年置きに角をもぎ
ーー木宮泰彦詠史狂歌集ーー
幕府の対諸侯制度の中、参勤交代の制度ほど成功したものはなかろう。こうして中央集権的封建制度による二百六十五年間の太平を建設したのであった。封建制度ということは、諸侯に封土を与え、その子孫によって封土を世襲させ、その封内の政治をおのおの随意に取り扱わせるというやり方で郡県制度に相対するもの、江戸時代の封建は中央集権的封建で、これに対するものは地方分権的封建である。
省3
26(1): 2024/09/09(月)16:55 AAS
こうして慶長六年には、弊制を定めて金は大判・小判・一分判の三種、銀は丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)の二種として鋳造した。
この時の金貨は名目貨幣で、大判は十両、小判は一両、一分判は四文の一両であり、銀は量目貨幣であるから、目方を量って通用させた。従って金と銀との関係は時によって違うが、明治初年の頃は銀六十匁ないし百匁をもって金一両に当てていた。
家光は従来の銭が不統一であったので、寛永十三年以来、江戸はじめ諸方で、銅銭寛永通貨を鋳してその統一をみた。
なんでも家康が慶長十一年駿府に移った時、秀忠に与えた金は、黄金三万枚、銀一万三千貫という。これを金一枚十両、銀五十匁を一両とすれば五十六万両となる。その内家康が駿府で薨去する時に遺した金いわゆる駿府の遺金と称するものは、おおよそ二百万両とみることができる。
そして秀忠は守成の人であるから、この財力を減じてはいない。
家光に至って寛永二年、僧天海に命じて寛永寺を造営させ、寛永十一年には同天海によって日光廟を造らせた。この日光の建築については従来寛永元年起工、十三年上棟式をあげたものと言われていたが、工学博士大熊喜邦氏は寛永十一年の暮れか秋の末頃起工して十三年四月完成、その間十五ヶ月で仕上がった。従って一夜一千人も夜業をしたと言われる。(昭和三年八月八日 大阪毎日新聞)
平泉澄博士が寛永十一年冬に始まり、同十三年春に落成し、その間一年半、費用総計五十六万八千両、銀百貫目、米千石と言われたのと合致する。
ともかくこの時は諸侯の寄付は少しも受けていないという。それで当代美術の代表的建築(これは挿絵解説にゆずる)ができている。
一代十一度の日光社参や寛永二度の上洛、その他家光の闊達な気象によって、大名・旗本に与えた金も莫大なものである。
家康薨去と共に、江戸幕府も多少財政不如意の気味が現れたとはいえ、これ位のことができたのは、いかに財力が豊富であったかを物語るもの、家光の歴史は財力が致せる歴史だとみるのは、一面において真理かもしれない。
27: 2024/09/09(月)21:40 AAS
p40
学習参考
(1)挿絵解説
「江戸城」の絵は秋元子爵家の東海道絵巻によったもので、大名が大手門から登城するところをかいてある。五層の天守閣は秀忠の十一年にできたが、明暦の大火で焼けた。図は秀忠修築頃の江戸城をあらわしたものである。
「大名の行列」は東海道五十三次の内、広重の筆によったもの、川向かいは岡崎城で、川は矢矧橋、大名が参勤して江戸へいくところである。
大鳥毛を被せた長柄槍が見えるのは先頭である。
「大判小判」は写真によったものであるが、実物の二分の一となっている。十両の字の下に「後藤」と書き、その下に花押(かきはん)がかかれ、小判の方では一両の字の下に「光次」とかき、花押がある。
これは慶応六年に鋳造されたが、その頃の金座の監理が後藤庄三郎光次であったから、こうした文字が残っているのである。
ここにあるのは慶長金であるから質のよいものであるが、元禄七年に至って財政窮乏のちょうどその時、これが通用禁止となり、八年から質の悪い元字金が出てくる。
「徳川家康と天海」は、東京上野の寛永寺の塔頭青龍院蔵の狩野探幽筆の書像によったもので、原図は紙本に彩色が施してある。
省4
28: 2024/09/10(火)09:58 AAS
p42
そうしてこれら二十以上の建物は一区域にまとまり、下から漸次上へ曲折して配置され、背景との調和を考えて巧みに絵画的構図をとり、しかも最もおもなところは左右均整を守り良くできている。
東照宮の建築は、江戸時代のものとしては最も優れているとはいえ、しかし別に取り立てて言うほどでもないが、その装飾に至っては、木工・漆工・金工・彩工あらゆるものが用いられている。
装飾の最も有名なものが陽明門で、色彩よりもむしろ彫刻をもってうめられている。
装飾過多のそしりは免れないが、しかし当代装飾の宝庫とみれば価値がある。当代の装飾は桃山風を学んでいまだ堕落してはいない。文久に修繕したところなどは甚だ劣ったものである。
日光東照宮及び陽明門は、一つは家康を記念し、一つは家光を記念し、一つは江戸幕府の力を表現し、一つは当代美術の概念を与えてくれる。
(2)指導要領
ここでは家康とか秀忠とか家光とか、事件中の人物を生かしてくることが一つの注意点である。
しかし単なる人物論を目的とするのではなく、主題になる江戸幕府が、どうして創立されねばならなかったのか、どうして創立されたか、江戸幕府の特徴はどこにあるか、などの事件を大観させることが必要である。
その間に政治の組織に触れる。これは高小独自の材料でもあるから、よく批判的に学習させる。
省4
29: 警備員[Lv.2][新芽] 2024/09/10(火)12:10 AAS
この著者の大松庄太郎氏は薩長政府史観の人間というか江戸幕府が嫌いなんだろうなと思う…
30: 2024/09/10(火)16:04 AAS
p43
第三十六 外国との交通
学習目的
江戸時代のはじめ、外国との交流が盛んであった状態を学習させ、対外関係について見解を養うのである。
学習事項
(一)朝鮮との国交
省6
31(1): 2024/09/10(火)19:24 AAS
(二)家康との貿易
家康はまた明との貿易を修めようとして、慶長十五年、本田正純を使って書を福建総督に贈らせたが、答えを得ず要領を得なかった。
この時から、まず家康は琉球王を使って、我が国と明との貿易を周旋させようともした。琉球王はこれに応じなかっただけではなく、入朝を促したがこれにも従わなかった。
琉球は室町時代から薩摩の島津氏に属し、また一方明に入貢して封冊を受けていたのであるが、ここに至って慶長十四年、島津家久を使って琉球を征させた。島津氏はなお寧王以下百官を人質として連れ帰った。
二年ぶりでこれらを帰したが、この間に薩摩では、十分に琉球経営の方針を確定した。つまり琉球に薩摩のことを「お国元」と言わせながら、琉球王国を立て相変わらず支那の封冊を受けさせ、薩摩は貿易によって利を占められるということであった。この頃琉球へは支那からサツマイモの移植が行われたので、ようやく糊をしのぐことができたという程薩摩方面へ搾取されたわけである。
琉球はこの頃からの両属政策が、民族性にも影響したということである。しかしこの両属政策によって極度に貧困の苦痛をなめながら、海南の小天地に三百年の太平を保つことができたのである。
こうして明との修好はついに成功することはなかったが、しかしかの商人は毎年長崎に来て貿易を営み、のち、我が後西天皇の御代寛文元年(二三二一)明は二十世二百九十四年をもって亡び、清が興るに及び、清もまたもとのように通商をしていた。
明が滅ぶやその遺臣に鄭芝龍がいる。もっぱら明の回復を図り、助けを我が国に求めたが、幕府がこれを助けるということとはならず、その後、鄭芝龍の子、鄭成功、母は平戸の人で明主唐王から国性朱氏を賜って、朱成功といったので国姓爺(コクセンヤ)とも言ったが、彼は最初福建省廈門(アモイ)に拠り、次いで明の王族魯王を奉じて台湾に赴き、オランダ人を追い払ってこれを占領し、助けを幕府に願ったが幕府は応じない、彼はついに志を得ずに死んだ。彼の孫に至って清に降った。台南の開山神社は国姓爺を祀り、県社である。もってその忠魂を慰めている。
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