[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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718: 2022/09/23(金)22:41 ID:iiAqLOC20(1/14) AAS
[ 栗林公園続き ]
頼重は30年の長きに亘り讃岐高松藩主の地位にあった。
藩主になったのは20歳のときである。
延宝元年(1673)に弟光圀の子頼常を養子に迎え、家督を譲って隠居した。
隠居に際して栗林荘に御殿を作り、亡くなるまでの20年以上を過ごした。
隠居場を作ったくらいだから、頼重は栗林荘を好んだのだろう。
藩主として30年、隠居として20年。頼重が50年に亘り栗林荘にかかわったのだから、
庭園はこの時代に完成したと考えて間違いない。
しかし、一般に栗林荘が完成したのは延享2年(1745)、初代頼重の藩主就任から
100年後のこととされる。五代藩主頼恭の時代である。
省12
719: 2022/09/23(金)22:42 ID:iiAqLOC20(2/14) AAS
[小石川後楽園の破壊]
水戸藩四代藩主の宗尭(むねたか)の実父・高松松平藩主の頼豊は、宗尭が幼弱
であることを理由に、後見と称して小石川藩邸に入り浸り、実質的に水戸藩主の
ようにふるまっていた。
このことは上述した。
さらに頼豊は政治に口を出すだけでなく、小石川後楽園の改修を始めた。
あれよあれよという間に庭園は作り変えられた。
水戸藩士たちは「ここにおいて園中の絶勝大いに変ず」と慨嘆した。
頼豊は小石川後楽園を全く別の庭園のようにしてしまったらしいのだが、これに
ついて触れる前に、桂昌院の御成りに触れなければならない。
省26
720: 2022/09/23(金)22:42 ID:iiAqLOC20(3/14) AAS
御成りというと、自分の気に入りの大名の屋敷に行って歓待され、ご馳走を食べ、
庭などを見物して帰ってくるような遊興的な行事と想像されがちである。
実はそうではなく、将軍と家臣との学問芸能の交流の場という性格があったようである。
学問は儒学、芸能は能であった。
まず能に関してだが、綱吉は将軍就任以前から能に耽溺していた。
能を見るだけでなく、自分でも頻りに舞ったことでも知られている
江戸城では頻繁に人を集め、自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも舞を強要した。
何人もの能役者を幕臣に取り立てて身近に置き、能の相手をさせていた。
当時は大名にとっても能を舞えることは必須の素養であり、どこの大名でも能役者を抱え、
身辺に置いて能の稽古をした。
省28
721: 2022/09/23(金)22:43 ID:iiAqLOC20(4/14) AAS
ある日の安倍正武邸への御成りの様子を見てみよう。
(文中の安倍正武は綱吉の武家諸法度の改訂に加わった気に入りの大名。後に老中)。
御成りにあたっては、まず奉行を任命する。この奉行が全てを采配するのである。
安倍の屋敷では御成りのために屋敷を新築した。これを御成屋敷という。
屋敷新築にあたっての普請奉行を別に任命した。
御成りの前に、老中が護持院の隆光僧正を江戸城に呼び、他の老中四人とともに祈祷を
依頼した。天気も良好で万事うまく行くようにとの祈祷である。
この以来に基づき、御成りの前に、護持院の隆光僧正が御成屋敷に上がって祈祷した。
御成りの前に屋敷を浄めるといった意味合いがあったのかも知れない。
御成りには多数の家臣の他、隆光をはじめ、金地院(臨済宗)、護国寺、大護院、
省27
722: 2022/09/23(金)22:44 ID:iiAqLOC20(5/14) AAS
小石川行楽園への桂昌院の御成りの話に戻る。
御成りがあったのは元禄15年。光圀公が亡くなった翌々年である。
(光圀の没年は元禄13年(1701)である)。
光圀公の思い出話でもしていて、ちょっと出かけてみようかという気になったのか、
それとも上記のように、女中たちが行きたがったのかも知れない。
ただし、行くにしても婆さんであるから足が弱い。
もし転びでもさせたらたいへんである。
そこで安全な苑路を作るため、邪魔になる岩や大石が撤去された。※
苑路は、お付きの女中が婆さんを左右から支えるだけの幅は必要である。
つまり、三人並んで歩ける広さでないといけない。
省28
723: 2022/09/23(金)22:45 ID:iiAqLOC20(6/14) AAS
[ 頼豊による小石川後楽園改修 ]
頼豊が行楽園を改修した時期については、具体的なことは分からない。
どの資料も「享保年間」としか言わない。
頼豊の息子である宗堯(むねたか)が水戸家の四代目藩主となったのは享保3年(1718)
である。その前から水戸家の養子に入っていたが、この年に先代の綱条が亡くなり、
家督を継いだのである。
先代も隠居したのではなく亡くなった。そして息子が藩主になった。
だからもはや誰も遠慮する者が無く、やりたい放題のことをやり始めたのである。
したがって、庭園の改修は享保3年以降であることは間違いない。
息子の宗堯は上記のごとく早世した。享保15年(1730)である。
省24
724: 2022/09/23(金)22:47 ID:iiAqLOC20(7/14) AAS
このような庭園の特徴は、何といっても景観が賑やかなことである。
さまざまな園芸種の樹木や草花を植え、花を咲かせて季節ごとの風景を楽しむ。
さらに、園内の景色を日本各地の名所に見立てるのである。
(ただ見立てるだけでなく、景勝を模した景観を作り出したりもする。これを「名所写し」
という。こうした趣向の庭園を縮景庭園という)。
「後楽紀事」によれば、小石川後楽園の大泉水は、琵琶湖ということになっている。
唐門から入った先は「京都への旅」という一種のテーマパークになっているのである。
唐門を入っていくと周囲に木がたくさん生えた水路がある。それは木曽川である。
とっつきにある石は「寝覚ノ床」であり、木曽路をめぐって唐門方向に戻り、大泉水の
畔を行くと、池の中にいくつか石があり、それは「竹生島」ということになっている。
省12
725: 2022/09/23(金)22:59 ID:iiAqLOC20(8/14) AAS
園内の景色についてはこのブログがよい。写真もうまい。
(ブログのアドレスを書くと書き込めなくなる。以下の標題をコピペして検索していただきたい)。
小石川後楽園【訪問編】 まだ知らぬ、日本を訪ねて
江戸時代も中期以降になると、庭園作成者は築山池泉回遊式庭園に加え、その近くに
田園あるいは里山の風景を作り始めた。
田園風景といえば、まずは「水田」である。田圃の周囲の湿地帯には菖蒲やアヤメが咲く。
斜面には一面に彼岸花が咲く。
里山の麓には梅林があり、柿の木や杏・桃の林がある。
そういった、日本人にとって懐かしい風景が庭園の景として作られるようになった。
小石川後楽園にも水田があり、梅林があり、菖蒲田がある。
省28
726: 2022/09/23(金)23:00 ID:iiAqLOC20(9/14) AAS
左兵衛は土地の形状はそのまま生かし、何百年と経た大木もあえて切らなかった。
深山幽谷のような雰囲気をまとった庭であった。
光圀も、よほどの必要がなければ一木一石も動かそうとはしなかったはずである。
光圀は、庭園際に彰考館を建てる必要から、庭園を内庭と「後楽園」とに分けた。
藩邸の一部である内庭と純粋の庭園部分とを明確に区別し、庭園部分に漢籍から名前を
付けたのである。内庭と後楽園の境として唐門を作った。
それから池の周囲、それも岸辺から離れた森の中のような場所に中国風のお堂を建てた。
光圀は庭園を改造するといっても、何かをプラスしただけである。
従来の庭園を破壊するような改造はしなかった。
光圀は庭園を改造したというよりも、完成させた人というべきかも知れない。
省16
727: 2022/09/23(金)23:01 ID:iiAqLOC20(10/14) AAS
清水観音堂は、時代的には光圀が作ったものである。
外部リンク[html]:kakezukuri.omiki.com
崖の上に懸造り(かけづくり)で観音堂を作り、舞台がしつらえてあった。
舞台といっても芸能のための舞台ではない。崖の上にせり出した縁(えん)を言う。
下に白糸の滝があり、これは清水寺の奥の院の滝だという。
さらに、清水観音堂の本尊は清水寺と同じ千手観音である。
すると平仄が合い、この観音堂は清水寺の写しだということになる。
光圀公も名所の見立てや名所写しをしていたではないかと言われそうである。
しかし、これらは「見立て」が変わっただけである。
観音堂は、もともとは清水寺など意識されていない。
省25
728: 2022/09/23(金)23:02 ID:iiAqLOC20(11/14) AAS
[八卦堂]
八卦堂は、おそらく浙江省西湖の雷峰堂をイメージしたものだろうということは上述した。
光圀が将軍家光に謁見したおりに、中国の学問の神である文昌星の像を頂戴した。※
(現在この文昌星像は徳川ミュージアムにある)。
外部リンク:bunka.nii.ac.jp
この文昌星像を安置したのが八掛堂である。
光圀の時代には文昌堂という名称であった。
※ 文昌星とは文字通り星であり、周囲の星を併せて文昌宮と呼ばれる星座をなす。
(北斗七星の枡形の第一星(魁星とよばれる)も学問の神とされ、両者は重なる)。
中国の星座は、北極星を「天帝」とし、周囲の星に役所や庭園や役人の名称をあてはめ、
省12
729: 2022/09/23(金)23:03 ID:iiAqLOC20(12/14) AAS
光圀は許可制ではあるが、貴賤を問わず庭園への入場を許した。
庭を観賞させるというより、たくさん作ったお堂を拝観させたかったのだろう。
文昌堂には、学者や識者など多くの人が来訪して拝礼したという。
この時代には、一種の儒学ブームが起きていた証拠といえるだろう。
頼豊による庭園改造のときに、お堂の内部の文昌像は移転させられ、お堂には讃岐の
金比羅大将が祀られた。お堂の名前も八卦堂に改められた。
八卦堂は明治維新も無事で乗り越えた。
しかし関東大震災で焼失し、今は土台しか残っていない。
土台の形から八角形のお堂であったことが分かる。
なお水戸弘道館の八卦堂は、斉昭公がこの八卦堂に倣って建立した。
省13
730: 2022/09/23(金)23:04 ID:iiAqLOC20(13/14) AAS
八卦堂は弘道館全体の中心に建てられ、その中に「弘道館記」(建学の精神を記した文章)
を刻んだ大理石を収めた。やや押しつけがましいというか、何事も徹底して行い、懈怠を
許さない斉昭公らしいやり方である。
何故八卦堂という名称なのかといえば、八面ある壁面の上部に、それぞれ算木を並べ、
易の「卦」が示されているからである。
八卦堂についてはここが詳しい。
外部リンク:ibamemo.com
易経にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」。
この言葉が図にされているので是非ご覧頂きたい。
両儀、四象、八卦は算木を使って表示される。
省31
731: 2022/09/23(金)23:05 ID:iiAqLOC20(14/14) AAS
調べてみたが、八卦堂という名のお堂は日本では小石川後楽園と弘道館のもの以外に見当たら
ないようである。小さな祠などがあるのかも知れないが、少なくとも有名なものはない。
そもそも日本では八角堂そのものが少ない。八角堂は中国では皇帝の廟として建てられること
が多かった。日本では法隆寺や興福寺、広隆寺など有名な寺院にあることが多い。(もちろん
近年にただの納骨堂として作られた八角堂ならいくらでもある)。
八角堂が少ないのだから、これに八卦堂という名のついたお堂などめったにあるものでは
なかろう。中国では八角の塔やお堂が多いが、中国でも、八角の堂塔に八卦の算木を飾った
建造物は珍しいのではないか。
もしかしたら中国の明の時代、上海や杭州などで流行した様式なのではなかろうか。
小石川後楽園の八卦堂は、朱舜水の発案のような気がする。
省23
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