[過去ログ] 【幕末の】水戸藩・天狗党の乱【悲劇】3 (756レス)
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707: 2022/09/03(土)07:00 ID:HwBvERXo0(11/21) AAS
ともかく、小石川藩邸の庭には、大徳寺左兵衛が采配し家光が口を出した立派な庭が
あったわけである。これを光圀が改修した。後楽園は光圀作ということになっている。
この光圀が作庭した後楽園の姿というのは、具体的にはほとんど分からない。
現在あるもので一番古い図面は、彰考館蔵の「水戸様江戸御屋敷御庭の図 」である。
この図面の作成時期は不明だが、元禄16年の地震で崩れた瀑布が書かれているので、
それ以前に作成されたことは確かである。
この図面によっても、池の形とか築山の位置、どういった建物が建っていたのかと
いったことは分かるが、石組みの有様や植え込みの様子は全くと言っていいほど
分からない。

だが、保守的で正当なものを好むという光圀の性格からして、勝手に庭園を造り変えた
省25
708: 2022/09/03(土)07:01 ID:HwBvERXo0(12/21) AAS
江戸初期までの石を使った庭は、中国の道教や神仙思想、あるいはこれに仏教の教えを
交え、宗教的・哲学的な理念を潜ませた庭である。
しかし、江戸時代も進んでどこでも庭を作るようになると、庭造りは様式化し、一切の
思想性を失う。それまでの庭は、僧と、僧が使役する特別な職人たちが作っていた。
僧は室町時代には石立僧と呼ばれていた。それを手伝う労務者は山水河原者と呼ばれ、
石立僧の補助者から庭造りの主役になっていく。
江戸時代に入ると、庭は徐々に普通の植木職人たちが作るようになる。
職人たち向けの庭造りのノウハウ本が出版され、誰でも庭造りが出来るようになった。
池をひょうたんの形にして「ひょうたん池」だと言ったり、ナマズの形にして「ナマズ池」
だと言ったりするようになるのは江戸時代も後半になってからである。
省31
709: 2022/09/03(土)07:05 ID:HwBvERXo0(13/21) AAS
大名庭園には、庭園部分の他に「お薬園」と「水田」、果樹園と茶園が作られる
のが普通であった。
お薬園とは、センブリやゲンノショウコなど、漢方薬の素材となる植物を栽培する
農園である。地方の大名庭園では朝鮮人参を作るところもあった。
本来、朝鮮人参を栽培するのがお薬園の目的である。
しかし、それは会津や島根など地方だから出来るので、江戸では難しかった。
吉宗の時代に小石川薬園で人参の栽培が試みられたが、成功しなかったという。
仕方なく、人参以外の多種多様の薬草が栽培されることになった。
寛政3年(1791)には114種の薬用植物が栽培されていたという。
幕府の広大な薬園だからこそであり、ふつうの大名庭園では栽培の容易な薬草しか
省14
710: 2022/09/03(土)07:06 ID:HwBvERXo0(14/21) AAS
上記から分かるように、大名庭園というのは大名やその家族の遊覧のための施設で
あった。大名やその家族は(お付きの者たちも含めて)、窮屈な生活をしているので、
時に自然の風景の中で陽光や風にあたり気晴らしをする必要がある。
庭園は、基本的に「お殿様の御休息のための場所」なのであった。
郊外の下屋敷に自然を模した広大な庭園を営み、外を出歩くのと同じ解放感を得ようと
したのである。だから苑路の周囲には日本中の名所に擬した風景(の縮景)を配し、
何度回っても退屈しないよう、四季折々の景色を楽しめるようになっていた。
たとえば冬に雪が降れば、雪景色を楽しめる一画があった。
ただ、たくさんの風景を詰め込んだ結果、大名庭園の景観はチマチマとした込み入った
ものになった。
省41
711: 2022/09/03(土)07:07 ID:HwBvERXo0(15/21) AAS
ついでに。現在は有名庭園にアジサイが植えられていることがあるが、江戸時代には
あまり用いられなかったようだ。
アジサイは死者にたむける花で墓場に植えられるものであった。
だから今日でもアジサイの名所は寺が多い。
アジサイは奈良時代から歌に詠まれ、江戸時代にはよく画題にもされている。
だから人々はアジサイを美しいと感じ、嫌ったりはしていなかったのだろう。
しかし、庭に植えようとまでは思わなかったようである。
アジサイが園芸種として人気を博するようになったのは戦後もだいぶ経ってからである。
ヨーロッパから色彩豊かなアジサイがもたらされ、陰気な印象がなくなったせいだろう。
(しかし、そのアジサイはもともとシーボルトが日本から持ち出したものだという。
省44
712: 2022/09/03(土)07:08 ID:HwBvERXo0(16/21) AAS
[岡山後楽園について]
岡山後楽園は、岡山藩二代藩主の池田綱政が家臣の津田永忠に命じて作らせた庭園である。
起工は貞享4年(1687)、元禄に改元される一年前である。
津田永忠というのは土木や開拓・河川工事に秀で、郡代として数々の難工事に携わった
岡山藩士である。徳川家康における伊奈忠次のような存在だったのだろう。
綱政の頃の後楽園は、「沢の池」という自然に近い沼沢を中心に、別荘である延養亭と
能舞台の他、眺望のよいところに幾つかの亭舎(茶室や農家のような建物)が置かれて
あるだけであった。
池の周囲はほとんどが林と丘陵であり、自然のままの山林に多少手をいれて、桜が
たくさん植わった桜山とか、モミジの多い紅葉山、あるいは黒松が重なる松山などを
省20
713: 2022/09/03(土)07:09 ID:HwBvERXo0(17/21) AAS
綱政の子継政(つぐまさ)は12年の歳月をかけて園内中央に唯心山を築いた。
唯心山は園内のどこからも見え、また唯心山から園内の全てを眺めることが出来る。
唯心山には四方からの登山道が作られ、各登山道に沿って建物がある。
北側の慈眼堂、南側の御茶屋簾池軒、西側の御茶屋延養亭、東側の流店である。
それぞれ眺望が良い場所にあり、そこで休憩しながら風景を観賞するのである。
継政は、唯心山のふもとに水路を巡らせ、廉池軒の池と沢の池の間にひょうたん池を
掘り、ひょうたん池から沢の池まで水を流すようにした。
これによって一つ繋がりの大きな池が出来、その周囲を巡る苑路が作られ、池泉回遊式
の庭園となったのである。築山(つきやま)である唯心山もきずいたので、分類上は
築山池泉回遊式庭園ということになる。
省11
714: 2022/09/03(土)07:10 ID:HwBvERXo0(18/21) AAS
[栗林公園]
栗林公園(藩政時代は栗林荘)は川床に作られた庭園である。
徳川頼房の次男頼重が高松松平家の藩祖として入国するまでは、生駒氏が治めていた。
天正15年(1587)、生駒親正が秀吉から讃岐17万3千石を拝領したのである。
生駒家は信長の生母の土田御前の実家土田家と縁戚であり、信長に仕えていたが、その後
秀吉に重用され大名にしてもらった。典型的な豊臣大名であった。
生駒氏入国以前から、高松の人々は、香東川(こうとうがわ)の氾濫に悩まされていた。
当時の香東川は今の香川町大野あたりで河川が二つに分かれ、東側の流れは石清尾山系の
山裾に沿って流れていた。
今の栗林公園から番町筋を流れ西浜に注いでいたのである。
省18
715: 2022/09/03(土)07:11 ID:HwBvERXo0(19/21) AAS
※築城といっても二段階ある。まずは城郭全体の構造を決め(これを縄張り、という)、
土塁や石垣を築く基礎工事。この土木工事を「普請」と言った。
次に整地された敷地や石垣の上に天守や御殿、櫓などを作る工事がある。
これを「作事」という。
普請と作事の違いは、現在の土木と建築の違いである。
築城名人といわれる藤堂高虎、加藤清正などは「普請」の名人であった。
たとえば名古屋城天守閣の石垣は加藤清正が築いたものである。
これに対し、作事の面で築城名人といわれた小堀遠州がいる。
名古屋城天守閣や江戸城天守閣の建物部分は遠州の設計・監督による。
二条城は普請が藤堂高虎、作事が小堀遠州である。
省22
716: 2022/09/03(土)07:13 ID:HwBvERXo0(20/21) AAS
栗林荘(以下、県立公園になる前の庭園を栗林荘と呼ぶことにする)は、最初はこの地の
豪族であった佐藤氏が作庭した庭園であった。※
佐藤志摩介(道益)なる豪族は、はじめ香西佳清に仕え、続いて仙石久秀に仕えた。
続いて生駒氏が領主になると生駒氏に仕えた。
この佐藤志摩介が隠居して道益と号し、隠居場の裏に庭園を作ったのである。
この庭が栗林荘に発展していくことになる。
※高松松平家ではこの庭園のある地を「御林」、庭園を「御庭」と呼んでいた。
しかし栗林公園になる以前のこの庭園は、すべて栗林荘と呼ぶことにしたい。

道益が亡くなった後、庭はおそらく放置されていたのだろう。
その後、香東川の東側の流れの付け替え工事がなされ、同益の庭は大きく様子を変じた。
省41
717: 2022/09/03(土)07:13 ID:HwBvERXo0(21/21) AAS
※ 二条城は家康が関ヶ原合戦のすぐ後、慶長7年から8年(1602~03年)に築城した城で、
その目的はまずは将軍任官拝賀のためであった。だから急いで二年間で作られたのである。
しかしその時は一応の完成であり、最終的に寛永3年(1626)に完成した。
二の丸庭園は家康が築城したときからあったという。
寛永3年(1626年)に後水尾天皇を迎える際に小堀遠州を作事奉行とし、城を完成させた。
行幸の2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿などを建てた。
そのときに二の丸庭園も今のような形になったといわれる。
だから二の丸庭園は小堀遠州作といわれるのであるが、それ以前に庭は在ったのだから、
全部を小堀遠州が作ったわけではない。前島八兵衛作庭の部分も少なくないはずである。
普請(土木工事)の部分はほぼすべて八兵衛によると考えていいのではないか。
省14
718: 2022/09/23(金)22:41 ID:iiAqLOC20(1/14) AAS
[ 栗林公園続き ]
頼重は30年の長きに亘り讃岐高松藩主の地位にあった。
藩主になったのは20歳のときである。
延宝元年(1673)に弟光圀の子頼常を養子に迎え、家督を譲って隠居した。
隠居に際して栗林荘に御殿を作り、亡くなるまでの20年以上を過ごした。
隠居場を作ったくらいだから、頼重は栗林荘を好んだのだろう。
藩主として30年、隠居として20年。頼重が50年に亘り栗林荘にかかわったのだから、
庭園はこの時代に完成したと考えて間違いない。
しかし、一般に栗林荘が完成したのは延享2年(1745)、初代頼重の藩主就任から
100年後のこととされる。五代藩主頼恭の時代である。
省12
719: 2022/09/23(金)22:42 ID:iiAqLOC20(2/14) AAS
[小石川後楽園の破壊]
水戸藩四代藩主の宗尭(むねたか)の実父・高松松平藩主の頼豊は、宗尭が幼弱
であることを理由に、後見と称して小石川藩邸に入り浸り、実質的に水戸藩主の
ようにふるまっていた。
このことは上述した。
さらに頼豊は政治に口を出すだけでなく、小石川後楽園の改修を始めた。
あれよあれよという間に庭園は作り変えられた。
水戸藩士たちは「ここにおいて園中の絶勝大いに変ず」と慨嘆した。

頼豊は小石川後楽園を全く別の庭園のようにしてしまったらしいのだが、これに
ついて触れる前に、桂昌院の御成りに触れなければならない。
省26
720: 2022/09/23(金)22:42 ID:iiAqLOC20(3/14) AAS
御成りというと、自分の気に入りの大名の屋敷に行って歓待され、ご馳走を食べ、
庭などを見物して帰ってくるような遊興的な行事と想像されがちである。
実はそうではなく、将軍と家臣との学問芸能の交流の場という性格があったようである。
学問は儒学、芸能は能であった。
まず能に関してだが、綱吉は将軍就任以前から能に耽溺していた。
能を見るだけでなく、自分でも頻りに舞ったことでも知られている
江戸城では頻繁に人を集め、自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも舞を強要した。
何人もの能役者を幕臣に取り立てて身近に置き、能の相手をさせていた。
当時は大名にとっても能を舞えることは必須の素養であり、どこの大名でも能役者を抱え、
身辺に置いて能の稽古をした。
省28
721: 2022/09/23(金)22:43 ID:iiAqLOC20(4/14) AAS
ある日の安倍正武邸への御成りの様子を見てみよう。
(文中の安倍正武は綱吉の武家諸法度の改訂に加わった気に入りの大名。後に老中)。
御成りにあたっては、まず奉行を任命する。この奉行が全てを采配するのである。
安倍の屋敷では御成りのために屋敷を新築した。これを御成屋敷という。
屋敷新築にあたっての普請奉行を別に任命した。
御成りの前に、老中が護持院の隆光僧正を江戸城に呼び、他の老中四人とともに祈祷を
依頼した。天気も良好で万事うまく行くようにとの祈祷である。
この以来に基づき、御成りの前に、護持院の隆光僧正が御成屋敷に上がって祈祷した。
御成りの前に屋敷を浄めるといった意味合いがあったのかも知れない。
御成りには多数の家臣の他、隆光をはじめ、金地院(臨済宗)、護国寺、大護院、
省27
722: 2022/09/23(金)22:44 ID:iiAqLOC20(5/14) AAS
小石川行楽園への桂昌院の御成りの話に戻る。
御成りがあったのは元禄15年。光圀公が亡くなった翌々年である。
(光圀の没年は元禄13年(1701)である)。
光圀公の思い出話でもしていて、ちょっと出かけてみようかという気になったのか、
それとも上記のように、女中たちが行きたがったのかも知れない。
ただし、行くにしても婆さんであるから足が弱い。
もし転びでもさせたらたいへんである。
そこで安全な苑路を作るため、邪魔になる岩や大石が撤去された。※
苑路は、お付きの女中が婆さんを左右から支えるだけの幅は必要である。
つまり、三人並んで歩ける広さでないといけない。
省28
723: 2022/09/23(金)22:45 ID:iiAqLOC20(6/14) AAS
[ 頼豊による小石川後楽園改修 ]
頼豊が行楽園を改修した時期については、具体的なことは分からない。
どの資料も「享保年間」としか言わない。
頼豊の息子である宗堯(むねたか)が水戸家の四代目藩主となったのは享保3年(1718)
である。その前から水戸家の養子に入っていたが、この年に先代の綱条が亡くなり、
家督を継いだのである。
先代も隠居したのではなく亡くなった。そして息子が藩主になった。
だからもはや誰も遠慮する者が無く、やりたい放題のことをやり始めたのである。
したがって、庭園の改修は享保3年以降であることは間違いない。
息子の宗堯は上記のごとく早世した。享保15年(1730)である。
省24
724: 2022/09/23(金)22:47 ID:iiAqLOC20(7/14) AAS
このような庭園の特徴は、何といっても景観が賑やかなことである。
さまざまな園芸種の樹木や草花を植え、花を咲かせて季節ごとの風景を楽しむ。
さらに、園内の景色を日本各地の名所に見立てるのである。
(ただ見立てるだけでなく、景勝を模した景観を作り出したりもする。これを「名所写し」
という。こうした趣向の庭園を縮景庭園という)。
「後楽紀事」によれば、小石川後楽園の大泉水は、琵琶湖ということになっている。
唐門から入った先は「京都への旅」という一種のテーマパークになっているのである。
唐門を入っていくと周囲に木がたくさん生えた水路がある。それは木曽川である。
とっつきにある石は「寝覚ノ床」であり、木曽路をめぐって唐門方向に戻り、大泉水の
畔を行くと、池の中にいくつか石があり、それは「竹生島」ということになっている。
省12
725: 2022/09/23(金)22:59 ID:iiAqLOC20(8/14) AAS
園内の景色についてはこのブログがよい。写真もうまい。
(ブログのアドレスを書くと書き込めなくなる。以下の標題をコピペして検索していただきたい)。

小石川後楽園【訪問編】  まだ知らぬ、日本を訪ねて

江戸時代も中期以降になると、庭園作成者は築山池泉回遊式庭園に加え、その近くに
田園あるいは里山の風景を作り始めた。
田園風景といえば、まずは「水田」である。田圃の周囲の湿地帯には菖蒲やアヤメが咲く。
斜面には一面に彼岸花が咲く。
里山の麓には梅林があり、柿の木や杏・桃の林がある。
そういった、日本人にとって懐かしい風景が庭園の景として作られるようになった。
小石川後楽園にも水田があり、梅林があり、菖蒲田がある。
省28
726: 2022/09/23(金)23:00 ID:iiAqLOC20(9/14) AAS
左兵衛は土地の形状はそのまま生かし、何百年と経た大木もあえて切らなかった。
深山幽谷のような雰囲気をまとった庭であった。
光圀も、よほどの必要がなければ一木一石も動かそうとはしなかったはずである。
光圀は、庭園際に彰考館を建てる必要から、庭園を内庭と「後楽園」とに分けた。
藩邸の一部である内庭と純粋の庭園部分とを明確に区別し、庭園部分に漢籍から名前を
付けたのである。内庭と後楽園の境として唐門を作った。
それから池の周囲、それも岸辺から離れた森の中のような場所に中国風のお堂を建てた。
光圀は庭園を改造するといっても、何かをプラスしただけである。
従来の庭園を破壊するような改造はしなかった。
光圀は庭園を改造したというよりも、完成させた人というべきかも知れない。
省16
727: 2022/09/23(金)23:01 ID:iiAqLOC20(10/14) AAS
清水観音堂は、時代的には光圀が作ったものである。
外部リンク[html]:kakezukuri.omiki.com
崖の上に懸造り(かけづくり)で観音堂を作り、舞台がしつらえてあった。
舞台といっても芸能のための舞台ではない。崖の上にせり出した縁(えん)を言う。
下に白糸の滝があり、これは清水寺の奥の院の滝だという。
さらに、清水観音堂の本尊は清水寺と同じ千手観音である。
すると平仄が合い、この観音堂は清水寺の写しだということになる。
光圀公も名所の見立てや名所写しをしていたではないかと言われそうである。
しかし、これらは「見立て」が変わっただけである。
観音堂は、もともとは清水寺など意識されていない。
省25
728: 2022/09/23(金)23:02 ID:iiAqLOC20(11/14) AAS
[八卦堂]
八卦堂は、おそらく浙江省西湖の雷峰堂をイメージしたものだろうということは上述した。
光圀が将軍家光に謁見したおりに、中国の学問の神である文昌星の像を頂戴した。※
(現在この文昌星像は徳川ミュージアムにある)。
外部リンク:bunka.nii.ac.jp
この文昌星像を安置したのが八掛堂である。
光圀の時代には文昌堂という名称であった。

※ 文昌星とは文字通り星であり、周囲の星を併せて文昌宮と呼ばれる星座をなす。
(北斗七星の枡形の第一星(魁星とよばれる)も学問の神とされ、両者は重なる)。
中国の星座は、北極星を「天帝」とし、周囲の星に役所や庭園や役人の名称をあてはめ、
省12
729: 2022/09/23(金)23:03 ID:iiAqLOC20(12/14) AAS
光圀は許可制ではあるが、貴賤を問わず庭園への入場を許した。
庭を観賞させるというより、たくさん作ったお堂を拝観させたかったのだろう。
文昌堂には、学者や識者など多くの人が来訪して拝礼したという。
この時代には、一種の儒学ブームが起きていた証拠といえるだろう。
頼豊による庭園改造のときに、お堂の内部の文昌像は移転させられ、お堂には讃岐の
金比羅大将が祀られた。お堂の名前も八卦堂に改められた。
八卦堂は明治維新も無事で乗り越えた。
しかし関東大震災で焼失し、今は土台しか残っていない。
土台の形から八角形のお堂であったことが分かる。
なお水戸弘道館の八卦堂は、斉昭公がこの八卦堂に倣って建立した。
省13
730: 2022/09/23(金)23:04 ID:iiAqLOC20(13/14) AAS
八卦堂は弘道館全体の中心に建てられ、その中に「弘道館記」(建学の精神を記した文章)
を刻んだ大理石を収めた。やや押しつけがましいというか、何事も徹底して行い、懈怠を
許さない斉昭公らしいやり方である。
何故八卦堂という名称なのかといえば、八面ある壁面の上部に、それぞれ算木を並べ、
易の「卦」が示されているからである。
八卦堂についてはここが詳しい。
外部リンク:ibamemo.com
易経にある「易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」。
この言葉が図にされているので是非ご覧頂きたい。
両儀、四象、八卦は算木を使って表示される。
省31
731: 2022/09/23(金)23:05 ID:iiAqLOC20(14/14) AAS
調べてみたが、八卦堂という名のお堂は日本では小石川後楽園と弘道館のもの以外に見当たら
ないようである。小さな祠などがあるのかも知れないが、少なくとも有名なものはない。
そもそも日本では八角堂そのものが少ない。八角堂は中国では皇帝の廟として建てられること
が多かった。日本では法隆寺や興福寺、広隆寺など有名な寺院にあることが多い。(もちろん
近年にただの納骨堂として作られた八角堂ならいくらでもある)。
八角堂が少ないのだから、これに八卦堂という名のついたお堂などめったにあるものでは
なかろう。中国では八角の塔やお堂が多いが、中国でも、八角の堂塔に八卦の算木を飾った
建造物は珍しいのではないか。
もしかしたら中国の明の時代、上海や杭州などで流行した様式なのではなかろうか。
小石川後楽園の八卦堂は、朱舜水の発案のような気がする。
省23
732: 2022/10/15(土)19:28 ID:Hjkxb0g/0(1/18) AAS
[ 小石川後楽園-総括 ]
思いがけず庭園に関する叙述が長くなってしまった。
内容が錯綜したが、ここで追求したテーマは、松平頼豊が小石川後楽園をどれだけ改変した
かということであった。逆にいうと、頼房公が作庭し光圀公が完成させた小石川後楽園は、
どれだけその姿を留めているのか、である。
結論から言えば、庭園の土台である護岸石組みや滝石組みなどの庭園の基本構造部分は
ほとんどが破壊されたと見るべきである。
この時代の庭は、京都に金地院方丈庭園などが残されているし、東京でも旧芝離宮恩賜庭園
など、池の護岸石組みをそのままにした庭園が残っている。
しかし、小石川後楽園では景観の要になる石はほぼ撤去されている。
省30
733: 2022/10/15(土)19:31 ID:Hjkxb0g/0(2/18) AAS
後楽紀事が出版されたのは上記のように元文元年(1736)であり、頼豊による庭園改造
から6年は過ぎている。
頼豊の息子である水戸德川家第四代藩主宗堯は享保15年(1730)に死んだ。
息子が死んだのだから、頼豊は水戸家の藩邸に出入りして藩主のような振る舞いをするなど
出来なくなったはずである。後楽園の改修は息子の宗堯が生きていた間のことだろう。
だから頼豊による改修は、どんなに遅くとも享保15年には終わったのである。
頼豊は息子の死の5年後、享保20年(1735)に死亡している。
そして、後楽紀事は頼豊が死んだ翌年に出版されているのである。
著者の鵜飼信興は彰考館の吏員だから、ほぼ毎日内庭にある彰考館に通っていた。
いつから通っていたかは分からないが、本を出版するほどの史館員なのであるから、3年や
省37
734: 2022/10/15(土)19:32 ID:Hjkxb0g/0(3/18) AAS
島はそれだけではなかった。
蓬莱島があるなら、鶴島と亀島がなければならない。
だが、現在小石川後楽園に亀島はあるが、鶴島はどこにもない。※ 
鶴島と亀島はペアになっているものであるから、片方だけというのはあり得ない。
だから鶴島は撤去されたと考えるしかないのである。
鶴島は、天竜寺の曹源池の場合は池の左側にある。多くがそうなっているようである。
しかし金地院方丈庭園は右側であり、決まったものでもないらしい。
亀島鶴島には松を植える。亀島には重厚な枝振りの真っ直ぐな松を、鶴島には枝を広げた
松を植える。鶴島の松は地を這うように斜めに伸び、そこから大きく枝を広げる。
鶴の姿を現しているのである。
省17
735: 2022/10/15(土)19:32 ID:Hjkxb0g/0(4/18) AAS
亀島について触れておく。
亀島の徳大寺石を中心とする景は、京都二条城二の丸庭園の亀島に似ている。
亀がグイッと頭をもたげた姿を写したものなのである。
だからこれを亀頭石という。
外部リンク[php]:garden-guide.jp
ここの一番下から三番目の写真が亀島を正面から撮ったものである。
亀頭石は徳大寺左兵衛にちなんで徳大寺石と呼ばれている。
二条城の亀島は、石橋を渡して人が入れるようにし、そのため松を植えていない。
馬鹿みたいな話である。
後楽園の方は、徳大寺石の両端の石が貧弱で、亀島らしいどっしりとした趣きがない。
省22
736: 2022/10/15(土)19:35 ID:Hjkxb0g/0(5/18) AAS
[中の島(蓬莱島)について]
今の小石川後楽園では、誰も中の島(蓬莱島)には興味をもつまい。
大木の生えたただの小山のようになっているからである。
しかし、本来の中の島の石組みは10メートルほどの高さがあり、そこからさらに木が天に
伸びていた。奇怪な尖塔のような姿だったと思われる。
大きさも今の蓬莱島より一回り大きかった。
しかし、現状からして、それらの石組みは崩壊し撤去されたと見るほかはない。
石を高く組んだ構造であったため、地震で崩壊した可能性がある。
桂昌院の御成りの翌年(元禄16年)の地震は大きく、滝石組みや滝への給水設備が壊れた。
このときに蓬莱島の石組みも崩れたとされている。
省46
737: 2022/10/15(土)19:36 ID:Hjkxb0g/0(6/18) AAS
後楽紀事には他にも中の島の記述がある。
「大泉水のうち、長橋の西に在り。人々これを蓬莱島といふ。弁財天の祠をたてり。
この島ことに絶景なり。瀧ありて高く掛かれり。みな人奇異の見物なりとて驚かざる
ものなし。(中略)是も大地震に崩れたれば、みな地中にしづめり、亀の腮の石のみ残りて、
今鼻まかり岩といふ。」。
前段は滝があるとしているのだから、鵜飼信興が想像で書いているのである。
後段が今の話である。ここで「亀の腮の石のみ残りて」というのが分からない。
腮(あぎと)とは、顎とかエラのことである。徳大寺石は亀の頭の部分である。
この顎の部分の石ということは、徳大寺石の土台になっていた石のことなのだろうか。
おそらく、鵜飼信興が徳大寺石のことを「腮の石」と言っているのである。
省25
738: 2022/10/15(土)19:37 ID:Hjkxb0g/0(7/18) AAS
大徳寺瑞峯院の独座庭は近代作庭家の作品だが、波立つ海の中の蓬莱島をあらわしている。
外部リンク:serai.jp
入門用にこういう庭があってもよいだろう。
座禅をするための庭だと思えば砂紋などはどうでもよい。
この写真の何枚か下に妙心寺退蔵院「元信の庭」の写真。蓬莱島の石組みがある。
狩野元信は室町時代の絵師である。1476年生まれで、足利九代将軍義尚に仕えた。
(義尚は足利義政と日野富子の次男である。先に将軍後継と決まっていた義視と対立し、
応仁の乱のきっかけとなった将軍)。
日本画の代表的な流派である狩野派の始祖・狩野正信の長男で、狩野派の画風を完成させ、
室町時代から明治まで続く狩野派の基礎を作り上げた人物である。
省46
739: 2022/10/15(土)19:38 ID:Hjkxb0g/0(8/18) AAS
[蓬莱島(中の島)の実体]
小石川後楽園が作られた当初の中の島(蓬莱島)の形状は、世に類のない独特のもので
あるが、あえていえば智積院の庭の築山が似ているかも知れない。
智積院の庭
外部リンク[php]:garden-guide.jp
無数の石とサツキの刈り込みで出来た築山が特徴である。
池の中にある島のように見えるが、背後は地面につながっており、築山である。
中国の廬山(ろざん)を模したものという。
廬山とは江西省北部にある長江の南にある山で、諸峰が絶壁をなして聳え立つ。
多くの名士が隠棲し、李白や蘇武など有名な詩人が訪れた。
省37
740: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(9/18) AAS
つぎに座観式庭園であること。座観式とは、一定の場所に座って眺める庭園を言う。
観賞式庭園ともいい、苑路を巡る回遊式庭園に対置されるものである。
まず、智積院庭園が座観式であるのはいうまでもない。
大書院の座敷から眺めるようになっている。
昔は書院も講堂もこんなに大きくはなく、池はこれほど間近ではなかったはずである。
書院から遠く廬山を仰ぐつもりで築山を眺めたのである。
では小石川後楽園はどうか。
残念ながら、小石川後楽園が座観式庭園であったなどという人は一人もいない。
作庭された当初から小石川後楽園の庭は回遊式であったということになっている。
それは、最も権威ある資料である鵜飼信興の書いた「後楽紀事」がそのように書いている
省26
741: 2022/10/15(土)19:39 ID:Hjkxb0g/0(10/18) AAS
後楽園が座観式であったと言っても、一カ所だけから見る庭ではなかった。
茶屋がいくつかあり、そこで休めるようになっていた。
ここが厳密な座観式庭園である竜安寺方丈南庭などとは異なる点である。
茶屋はただの休憩所ではなく、観賞ポイントであった。
とするなら、鑑賞ポイントを巡って歩くのだから回遊式と言えるではないかとの批判も
あろう。たしかに、ここから先は、「回遊式」とは何かという言葉の意義をめぐっての
議論になりかねない。
まず、小石川後楽園にはどのような観賞ポイントがあったかを明かにしよう。
最初に挙げられるのは清水観音堂の舞台だろう。
舞台ができるまでは、千手観音を安置した観音堂があるだけだった。
省32
742: 2022/10/15(土)19:49 ID:Hjkxb0g/0(11/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
その後、頼豊による改修のときに苑路が隅々まで整備された。
頼豊によって小石川後楽園は池泉式回遊庭園として完成されたのである。
同様の庭は他にもある。初期の岡山後楽園である。
池の周囲に苑路はなく、周囲の高台になったところや傾斜地に小道があった。
その道をたどって茶屋などに移動したのである。
岡山後楽園が回遊式といえる庭になったのは、三代継政(つぐまさ)が12年の歳月をかけて
園内中央に唯心山を築いてからのことである。
栗林園もそうだが、江戸時代初期には観賞ポイントがいくつかあっても、それを一日で回る
省33
743: 2022/10/15(土)19:50 ID:Hjkxb0g/0(12/18) AAS
小石川後楽園が回遊式になったのは、おそらく桂昌院の御成りのときである。
苑路を作るために大きな石が軒並み撤去され、平坦な道が作られた。
共通点の第三は、須弥山(しゅみせん)をかたどった築山ないし島があることである。
須弥山とは、仏教で世界の中心にあると考えられている山である。
須弥山を解説するのは困難である。ウィキの「須弥山」の箇所を読んでいただくしかない。
そこにある絵図などの写真を見ることは必須だろう。
簡単な解説ならこのサイトにもある。絵が分かりやすい。
外部リンク:yasurakaan.com
須弥山の中腹の四方には四天王の住む都があり、眷属たちがその周辺に住む。
山頂の?利(とうり)天には帝釈天の住む城がある。
省27
744: 2022/10/15(土)19:51 ID:Hjkxb0g/0(13/18) AAS
では、小石川後楽園の中の島(蓬莱島)はどうか。
この点、元々の島の姿からすれば須弥山としか言いようがない。
須弥山とは、仏画などでは曼荼羅のような幾何学的な模様であらわされているが、機能を
含めて描くとあのようになるのであって、本来は笠が開かない松茸のような形をしている。
松茸よりもエリンギのような形といった方が分かりやすいかも知れない。
小石川後楽園の中の島の姿はアニメ映画のラピュタに出てくるような形状であった。
水面から五メートルほどの高さまでは大石が組み上げられ、そこからさらに尖塔のように
数メートルの高さの石が組まれていた。
その頂上付近から水が噴き出し、滝になって流れ落ちていた。
須弥山では甘露の法雨という甘い水が降ってきてそこに住む者たちの喉を潤す。そのため
省23
745: 2022/10/15(土)19:53 ID:Hjkxb0g/0(14/18) AAS
そしてこの庭園を光圀はほとんど変えなかった。
後楽紀事にある。
「一木を伐り一石をうこかしたまふ事はなかりけるとこそ。明遺臣舜水に命ぜられて、
御園の名をえらばせられし時に、(中略)後楽園と名付けられて、御屋形より御園への
唐門にも右の三字を書して扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月橋の類は、義公上の
御経営なり。すべて威公上のあそばされたる御事を、少しなりともあらためたまはず。
されどことにより改めさせたまふこともありしかど、是はまたもとのごとくに成べき
ことなり。一木なりとも枯たるは御本意なき御事とて、年々御植かへは有之候得ども、
大木を伐らせらるる事は、かってこれなかりけるとそ。松は別て御当家へいはれある
ことなれば、一枝をも伐らせたまはざりけり。」。
省33
746: 2022/10/15(土)19:55 ID:Hjkxb0g/0(15/18) AAS
例えば得仁堂について、後楽紀事には「その後享保中、讃州岩清尾の八幡となる。八幡堂と
称す、額はやめらる。」とある。
頼豊が光圀の安置した伯夷・叔斉の像を讃岐岩清尾神社の八幡像に取り替え、「八幡堂」と
改名、「得仁堂」と書かれた額は取り外されたというのである。
この「八幡堂」は、文政9年(1827)に八代斉脩が八幡像のために宮を新設し伯夷・叔斉の
像を戻したので、それ以降再び「得仁堂」と呼ばれるようになった。
後楽紀事が書かれた時にはまだ八幡堂のままだったのである。
こういうこともしっかり書いてある。
事実は詳細と言っていいレベルできちんと書いてある。
にもかかわらず、琉球山についてはいっさい経緯を書かない。
省30
747: 2022/10/15(土)19:57 ID:Hjkxb0g/0(16/18) AAS
上述のとおり、後楽紀事の出版は享保21年(1736)である。
その前年に頼豊が亡くなっている。
頼豊の息子である宗堯は享保15年(1730)に急死したのであるから、この時から頼豊は
水戸家への出入りをしなくなったはずである。
つまり、頼豊が水戸家とのかかわりを断ってから6年、頼豊が死んでから1年経った後に
後楽紀事は出版されたのである。
本の出版と頼豊の死を関係づければ、いろいろな動きが見えてくる。
頼豊が死んで一年後に出版されたということは、頼豊が死んですぐに本の執筆が始められ
たということである。(或いは頼豊が病に倒れた時から書き始められたかも知れない。
水戸家と高松松平家は親戚であるから頼豊の病勢はすぐに分かる)。
省30
748: 2022/10/15(土)19:58 ID:Hjkxb0g/0(17/18) AAS
以上、後楽紀事はいろいろな時代のエピソードが整理されずに書かれているので、ただ
事実を羅列しただけのように見えるが、整理してみると、結局は頼豊の改造によっては
さほど庭園は変わっていない、むしろ昔に戻ったかのように書かれているのである。

こんな本を書けと命ぜられて、鵜飼信興はおおいに苦しんだと思われる。
目の前の庭園の景はほぼ全て頼豊が作ったもの、あるいは見立てを決めたものである。
それを知りつつも、現在の庭園を否定することはできない。
頼房の時代にこうした縮景庭園を造ったということはあり得ないのだが、仮にそれを
知っていたとしても、おくびにも出さなかった。
結局、今の景観が頼房公や家光公の苦心でできたように書いたのである。
しかし、さすがに学者らしく集められたエピソードは嘘ではない。
省29
749: 2022/10/15(土)19:58 ID:Hjkxb0g/0(18/18) AAS
また、上記「後楽園史」によれば、頼豊の改修により園内に畑が作られ、大根、蕪などが
栽培されていたという。また水車楼のそばに果樹が植えられた。
さらに、丸屋は耕作の際に休憩する御茶屋とされていたほか、亀や鯉、鴨、鶴等の生き物を
飼育していたという記述があるという。
頼豊はこういう庭が好きだったようである。

大泉水は琵琶湖であるとし、そこに行くまでの中山道の木曽路や、京都やその周辺の名所を
写した庭園にしたのは誰かといえば、それは間違いなく頼豊である。
これは上に繰り返し述べてきたところである。
だが、日本の史学は文献主義であり、もっとも権威のある文献である後楽紀事が、頼房の
庭園作成時にすでに縮景庭園であるとし、回遊式庭園であったとする以上、それに異論を
省9
750: 2022/10/17(月)08:26 ID:I1eV0Zpd0(1/3) AAS
ここまで書いてきて閑話休題。
しかし、水戸藩の侍たちもだらしがない。
御成りのときに庭園を大改造するような必要があったのか。
手を加えずにおくことはできたのではないか。
幕府からは勿論事前に御成奉行が来て「ああせい、こうせい」と指図する。
はじめて御成りを迎える大名は御成御殿というものを新築する。
その御殿建設にあたっては奉行が三人派遣され逐一指図を受けることになっていた。
小石川後楽園への御成りのときは御成御殿は建てられなかったが、その分庭園の改造を
要求されたわけである。奉行たちが庭園を隅々まで見て細かく指示したのだろう。
しかし、家光公ご苦心の庭という一言で排除できたはずである。
省33
751: 2022/10/17(月)08:29 ID:I1eV0Zpd0(2/3) AAS
その後高松松平家から宗堯が養子に入り、成長して四代藩主の地位に就いた。
そうなってからは、さらに高松松平家系の家臣たちの力が強くなった。
この家臣たちによって水戸家は乗っ取られたようになったのである。
そうでないと、頼豊などという、自藩の家老たちにも相手にされていない政治手腕の無い
殿様が強権をふるうなど不可能であろう。
頼豊はまるで水戸藩主のようだったというのは、当時の文献が一様に伝えるところである。
ただし、頼豊がここまで堂々とやり切ったのには本質的な理由がある。
頼豊は光圀のことなど問題にもしていなかったのである。
それは何故かといえば自分たちは頼房の長男の血統だからである。
自分たちの方が由緒正しい血統であり、本来水戸家の藩主であるべき血筋なのである。
省28
752: 2022/10/17(月)08:33 ID:I1eV0Zpd0(3/3) AAS
[ 現在の後楽園について ]
中の島(蓬莱島)は見るも無惨である。
土を盛って木を植え、周囲を多少石で囲っただけである。
亀島などは徳大寺石を立てたところまではいいが、他にまともな石が一つもない。
残土置き場のようである。
竹生島などは庭師の仕事が雑すぎて、眺めていると心が荒んでくるようだ。
涵徳亭の庭に置かれた石はただ投げ出されただけのようであり、そもそも品のない石ばかり
で見るに堪えない。全体に日本庭園の格調が感じられない。
おそらく、庭園を管理しているのは日本庭園専門の庭師ではないのだろう。
都庁の役人も造園会社も、普通の公園を管理している人たちなのだと思われる。
省31
753: 2022/10/22(土)07:30 ID:RXHRGJxE0(1) AAS
庭園長々と書き込んですいませんでした。これで終わりです。
皆さんの書き込みを邪魔してしまったかも知れない。
どうぞ自由に書き込んで下さい。
754: 2022/12/21(水)12:23 ID:U2p/KSb90(1) AAS
水戸藩主・徳川斉昭がペリー殺害を計画…攘夷など示す書簡16点、倉敷で発見

書簡が見つかった江戸末期から塩田開発で栄えた旧野崎家住宅には、約10万点の史料が保管されている。
見つかった書簡は、斉昭が幕府の海防参与の職にあった1853~55年頃に書かれたとみられる。
 「夷人(いじん)焼殺ノ件」と朱書きされ、黒船で江戸の手前まで乗り付けたペリーら米の使節を「墨夷(ぼくい)」と呼び、抹殺する案を詳細に書き付けている。
書簡で斉昭は「仕掛けをした屋敷に入れてしまえば一度に焼き殺せるのではないか」「江戸城内の大広間で上官らに
酒をたっぷりと飲ませて頭をはね(中略)品川の辺りに待機したものには狼煙(のろし)を上げて知らせる。船中に
残ったものも残さず切り捨てられる」といった計画を記している。調査した県立博物館の横山定副館長は「腹心の
東湖に率直な意見を述べており、一貫した攘夷思想を唱えた斉昭らしさが、うかがえる印象的な書簡で、貴重な
発見だろう」と話している。
外部リンク:news.yahoo.co.jp
755: 2023/12/05(火)20:21 ID:vqkSBReB0(1) AAS
一橋慶喜は禁裏御守衛総督として京都にいた。武田耕雲斎の一党(天狗党)が西上して
きたと知ると、慶喜は自分を征討軍の総督に命じてほしいと朝廷に願い出た。
願書には以下のようなことが書かれてあった(意訳)。
「このたび常野浮浪の徒が多数人、中山道を罷り越して容易ならざる情勢であります。
この上帝都に迫るような事になれば、禁裏を守衛するという職掌上恐懼に堪えません。
のみならず、この集団の中には実家の家来等も交じっているようでありまして、これは
特段に相済まぬことであります。それ故、速やかに江州路まで出張して追討つかまつる
所存にございます。」。
朝廷では「そのようなことをしたら人心が動揺する」という理由で許さなかった。
許さなかったのは、実は一橋公と水戸勢がくっついて攘夷を決行するに至るのではないかと
省25
756: 2023/12/07(木)12:52 ID:kohuMx2s0(1) AAS
朝廷は慶喜を征討軍の大将にはさせたくなかったが、重ねて乞うものだから仕方なく許可した。
その肩書きは禁裏御守衛総督である。それまでの肩書きと何も変わらない。
天狗党西上軍が京都に迫るようなことがあっては困るから、禁裏(朝廷)を守るために出陣する
という名目なのである。
これにより12月3日、慶喜は京都から大津に出陣することになる。
その行列はまことに勇壮華麗なものであった。
徒目付・小人目付を先駆として歩兵・大砲・別手組の諸隊、中軍には講武所の兵と床机隊・大砲隊。
これに続き赤字に葵の紋をつけた旗を立て、旗本勢が持小筒組を率いて進む。
次に馬印や陣鐘、太鼓、旗、さらに騎馬隊が往く。
その後にようやく慶喜が出てくる。左右を守る旗本たちに続いて書院番士たちが手槍を棒持ちに
省12
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ぬこの手 ぬこTOP 0.174s*